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その日、歴史が動いた 学者・医師

地動説のコペルニクス なぜ彼はガリレオのように宗教裁判にかけられなかったのか?

更新日:

 

「失敗は成功の母」と言われます。
ならば「偶然は発見の父」ということもできるのではないでしょうか。
特に自然科学の分野においては、偶然によって重大な発見がなされることは少なくありません。または、重大な発見をした人がそれに至る「経緯」が偶然の産物であったりとか。もちろん、綿密な計算や過程の上に発見されることもありますけれども。
本日はそんな感じで、後世に多大な影響を与えた人のお話です。

1473年(日本では室町時代・文明五年)2月19日は、地動説で有名なニコラウス・コペルニクスが誕生した日です。

後に彼の説を支持したジョルダーノ・ブルーノ(過去記事:地動説のガリレオが処刑されずに済んだのは~ ジョルダーノ・ブルーノのお陰ナリ~ 【その日、歴史が動いた】)やガリレオ・ガリレイが散々な目に遭っているので、その提唱者となればさぞ凄惨な最期を迎えただろう……と思いますよね?

ところがどっこい、コペルニクスは穏やかに天寿を全うしています。それは、彼の考え方が大きく関係していました。
さっそく彼の生涯を追いかけてみましょう。

ニコラウス・コペルニクス/Wikipediaより引用

 

家系はドイツ移民のポーランド生まれ

コペルニクスは、現在のポーランド・トルンの町に生まれました。
家庭ではドイツ語を使っていたことがわかっているので、おそらくドイツ移民の家系だったと思われます。
当時のポーランドは、モンゴル帝国に侵攻されたときに激減した人口を補うため、ドイツはじめ周辺の国々から移民を募っていたのです。
この頃はお隣リトアニアとの連合王国になっていて、ポーランド人やドイツ人の他にも、主に東欧系のさまざまな民族が暮らしており、全盛期とも呼べる時期でした。

そんな中、コペルニクスは10歳で両親を失い、母方の叔父に引き取られて育つことになります。叔父さんが教会で仕事をしていたので、コペルニクスもはじめは聖職者としての道を歩むため、大学に進みました。
しかし、大学で天文学に出会ったことで、彼の人生は大きく変わることになります。

当時は天動説が定説と考えられていましたが、大学でコペルニクスに天文学を教えた教授が「天動説って何かしっくりこないんだよねー」(超訳)という話をしていたのです。

教授アルベルト・ブルゼフスキは、理系の人には珍しく(?)文学も好きで、話が上手だったので生徒にも人気があったのだとか。肖像画も何となくユーモアがうかがえる表情をしています。
もしかしたらコペルニクスも、ブルゼフスキの話が面白かったからこそ、数ある学問の中で天文学に興味を持ったのかもしれません。

アルベルト・ブルゼフスキ/Wikipediaより引用

 

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占星術と医学は当時密接な関係があると考えられていた

とはいえ、両親がいないコペルニクスが、いきなり自由に職を選ぶのは難しいことでした。

まずは世話になった叔父さんの意向通り聖職者になり、その後教会の許可を得てイタリアへ留学、医学や占星術を2年ほど学びました。教会には病人も来ますから医学の知識が必要ですし、占星術と医学は当時密接な関係があると考えられていたからです。
体のパーツを黄道十二宮(いわゆる十二星座)に当てはめて治療の参考にしたり、「ペストが流行した原因は、木星・火星・土星が重なりあったからだ」なんて説が出たりしていました。

現在絶賛(したくない)流行中のインフルエンザも、イタリア語で「(天体の)影響」という意味です。すでに天文学への興味を持っていたコペルニクスにとっては、一石二鳥の留学だったでしょうね。

帰国してからのコペルニクスは、聖職者兼医師として忙しく働き始めます。
一方で天体観測を地道に続け、自説を練っていきました。本職の学者でないだけに、急ぐ必要はないと考えたのでしょうかね。

同じ時期にギリシア語を身につけているので、おそらくポーランド語・ドイツ語・ギリシア語・ラテン語のマルチリンガルになっていたと思われます。このうちポーランド語では著作を残していないことから、「しゃべれるけどやや不得意」だったのではともいわれていますが。

コペルニクスが通ったクラクフ大学コレギウム・マイウス/Wikipediaより引用

 

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友人に配るため初の地動説本を出版

地動説を初めて発表したのは、37歳の時のことです。
ただしこの時は友人に配るための冊子として出版したに過ぎず、まだまだ世間には知られていませんでした。

その後、教会の中で「コペルニクスっていう頭のいいやつが、天文学に詳しいんだってよ」(超訳)という評判が立ち、お偉いさんから「今度、暦を変えるんだけど、君の意見を聞かせてくれんかね」(超訳)と尋ねられたりもしています。
もしこの頃までに地動説が世間に広まっていたら、破門になっていたかもしれませんね。

しかしこの頃、ドイツ騎士団国(かつて北方十字軍をやってたアレがなんやかんやで国家になったもの)が、コペルニクスの住むポーランド・ヴァルミアへ攻め込んできたため、町の人々は命からがら逃げることになります。
なぜ同じキリスト教国家にわざわざケンカを売るのかサッパリ理解できません。まぁ、ヨーロッパの伝統行事だから仕方がありませんね。

ドイツ騎士団国のトップがポーランドから領地をもらって臣従したため、この騒動は数年で一段落します。

そして今度はルターによる宗教改革の余波がやってきました。

コペルニクスの周辺でもルター派に改宗する人々が現れ始め、またしてもきなくさい空気が……。ドイツ農民戦争(過去記事:アウクスブルクの和議 学生を世界史アレルギーにさせるこの出来事をザックリ分解 【その日、歴史が動いた】)が起きたのもこの頃です。

幸い、ポーランドでは戦争になるほどの騒動にはならなかったため、コペルニクスはカトリックの信仰を貫きながら、地道に地動説についての原稿を執筆。大々的に公表しようとはせず、あくまで私的な考えとして書き留める程度のつもりだったようです。
そんな彼の意図とは裏腹に、コペルニクス60歳のときには教皇にまで地動説が伝わっていたそうですが。

 

正式発表の前に死んだため宗教裁判を避けられた?

コペルニクスが破門や相当の処分を受けなかったのは、「世間に公表したがらない」=「本人も馬鹿げた話だと思っているんだろう」とお偉いさんに思われていたのでしょうか。
枢機卿(将来の教皇候補。カトリックにおけるナンバー2の役職。いっぱいいる)の一人から「ブラボー!」(超略)という手紙を送られたりもしているのですが、これ、罠だったら怖いですね。
友人たちからは「教皇様にも知られてるくらいなんだから、きちんと出版したらいいじゃないか」と勧められながら、やはりコペルニクスは首を縦に振りません。「そんなコトしたら目をつけられる」と考えていたのでしょうか。

ようやく出版を決意したのは、ドイツの大学教授ゲオルク・レティクスがコペルニクスを訪れ「地動説という考え方に感激しました! 私を弟子にしてください!」(超訳)といって、半ば強引に弟子入りしてきてからのことです。
レティクスは心底コペルニクスと地動説に惚れ込んでいたらしく、出版業者への取り持ちや広報活動までしています。弟子というよりファンのようですね。

しかし、地動説の完成版とでも呼ぶべき本が出版される直前に、コペルニクスは脳卒中で倒れてしまいました。半身不随になりながらも半年は生きながらえていたのですが、校正された原稿が届く前に、彼は世を去ってしまいます。
ちょうど70歳のときのことでした。

というわけで、コペルニクスは正式に地動説を発表する前に亡くなってしまったことになります。もし彼がもっと長生きしていたら、あるいは地動説をもっと早く&強く推していたら、ジョルダーノ・ブルーノやガリレオ・ガリレイのように、宗教裁判にかけられていたのかもしれません。穏やかな最期を迎えられた代わりに、一聖職者でしかなかったことから、埋葬場所がわからなくなってしまったのですが……

コペルニクスの職場だったと思われるポーランド・フロムボルクの大聖堂で彼のお墓が見つかったのは、なんと2005年のことです。コペルニクスが持っていたとされる本に挟まっていた髪の毛と、埋まっていた頭蓋骨に残っていた歯をDNA鑑定したところ、一致したのだそうで。

近隣にはコペルニクスの名を冠したホテルやカフェなどもあるようです。彼の足跡をたどるときには、併せて訪れてみるのも面白そうですね。

コペルニクスの遺物/Wikipediaより引用

長月 七紀・記

TOP画像:地動説の図/Wikipediaより引用

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参考:ニコラウス・コペルニクス/Wikipedia 地動説/Wikipedia AFPBB

 




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