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その日、歴史が動いた 欧州

複数の国王を兼任した過労死必至の王様・カール5世 ラストは痛風の追い打ちで引退へ

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「◯◯賞」はいくつあっても困らないというか、取れば取るほど「スゲー!」といわれますよね。
しかし、これが「称号」となるとちょっとめんどくさいことになります。特に権力が絡み合う場合は。
本日はその最たる例と思われる、とある君主のお話です。

1500年(日本では戦国時代・明応九年)、カール5世が誕生しました。

おそらくヨーロッパ君主の中でも随一の栄光を得る代わりに、随一の苦労をした人でもあります。
なぜかというと、彼はその血筋故に、いくつもの国の王様を兼任しなければならなかったからです。曽祖父母の代まで遡ると、神聖ローマ帝国&フランス&ポルトガル&スペインの王家が連なっているため、正式な称号もとんでもない長さになっています。ご興味のある向きはウィキペディア先生の下のほうへどうぞ。

親戚筋でも(だからこそ?)血みどろの戦争・政争が絶えないヨーロッパで、そんな立場になればいろいろと神経をすり減らしますよね。
その人生は、いったいどんなものだったのでしょうか。

※地名については現在の名称で統一させていただきます。
彼にかかわる国があまりにも多くて、いちいち「現在の◯◯」と書くとややこしいので(´・ω・`)

カール5世/wikipediaより引用

 

ベルギーで生まれ17才までオランダで育ち

カール5世は長じてから多くの国の政治に関わることになりますが、中でも愛着を持っていたのはベルギーやオランダでした。
現在のベルギーで生まれ、17歳までオランダで育っていたからです。また、この二国は当時スペインの支配下にありました。
6歳のとき両親がスペイン本土へ渡ったため、カールは教育係のもとで多感な時期を過ごすことになります。

が、スペインに行った直後に父が亡くなったため、カールは父が支配していたオランダを継承することになりました。
スペインはカールの母方の祖父であるフェルナントが一時支配していたのですが、カールが16歳のときに祖父も亡くなったため、ここでスペインの王位も継いでいます。
正確には母との共同統治でしたが、現在の高校生にあたる年齢で二ヶ国の王様になるというのは、かなりのハードワークですよね。

ついでにいうと、当時のスペインはイタリア(ナポリ・シチリア・サルデーニャなど)や南北アメリカ大陸の一部を植民地にしていたので、国の数以上に広大な領地を持つ事にもなりました。

西ヨーロッパの大半を手中にしたカール5世の領土/wikipediaより引用

 

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スペインで母と再会し、同国で親政を始めたと思ったら

カールはそのプレッシャーに負けずに頑張ります。
17歳のときスペインに渡って母と再会し、親政を開始するのです。

ここでスペインに腰を落ち着けられるかと思いきや、19歳のときには父方の祖父である神聖ローマ皇帝が亡くなったため、同国の帝位も継承することになり、ますます多忙を極めていきます。
とはいえ、神聖ローマ帝国の帝位は「お偉いさん同士の選挙」という方法で決められるものだったので、カールも選挙で当選しています。つまり、あっちこっちに「私に清き一票を!」的な活動をするために、莫大なお金を使っているのです。

まあそれは代々の皇帝もやっていることですから、カールが特別汚いわけではありません。問題は資金源でした。
カールは、“神聖ローマ皇帝の”選挙費用を“スペインの国庫”から捻出してしまったのです。アチャー(ノ∀`)

カールから見れば「こっちの財布にお金がないから、別の財布から出そう」程度の感覚でも、スペインの貴族や民衆からすれば「俺達の金を外国にばらまきやがって! ブッコロ!!」とブチギレ状態になり、反乱が起きるのは当たり前のことです。
しかもそのキレたタイミングが、よりにもよって神聖ローマ皇帝としての戴冠式だったのですから、お先真っ暗というレベルじゃありません。

 

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最初に武力統治を行使したため、その後一生戦争状態に

スペインで起きたこの反乱自体は一年程度で収まったものの、統治者としてのスタートラインから「私は武力で統治します!!」というスタンスを明らかにしてしまったために、カールはほぼ一生戦争に身を置くことになってしまいました。

また、スペインにとっても良い結果にはなりませんでした。上記の通り、スペインはこの頃南北のアメリカ大陸にも植民地を持っており、現地住民をこき使って金銀を得ていたのですが、それもカールの戦争のために費やされてしまったのです。

スペインから見ると「あ、ありのまま今起こったことを話すぜ! “新大陸の連中から搾取してやったと思ったら、いつの間にか他所の国に搾取されていた” な、何を言っているのか(ry」という感じになります。
これでは、新大陸の金山銀山で過労死した住民たちも、命がけで海を渡ったスペインの先人たちも浮かばれません。

しかしカールは、スペインの内政よりも対外戦争にしか目が向きませんでした。

カール5世騎馬像、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ画/wikipediaより引用

 

加齢と共に痛風が悪化 原因はビールの飲み過ぎ?

イタリアを巡ってフランスと戦争をし、その間にルターなどによってプロテスタントが興ってドイツ農民戦争が勃発。東方からはオスマンの脅威が迫り……と、政治的にも宗教的にも戦争が続きました。
彼一人のせいではないにせよ、これではどこの国も落ち着く暇がありません。

そのため、カールはその頑張りとは裏腹に、民衆には評価されませんでした。ついでに加齢とともに痛風に苦しめられ、55歳のときに自ら退位を決意します。

痛風の主な原因はアルコールによる尿酸値の上昇ですから、ビールの飲み過ぎでしょうかね。
当時のヨーロッパ、しかも戦場で清潔な水を手に入れるのは難しいですから、ビールやワインを水代わりに飲むのは珍しいことではありません。生涯のほとんどを戦場で過ごしたカールが、アルコールを常飲するのも無理のない話です。
そもそも、痛風の原因が解明されたのはごく最近のこと。つまり、カールの時代には「水代わりに飲んでいるものが病気の原因になる」なんてことは、誰も考えつかなかったわけです。

 

心身ともに疲れきり修道院で余生を過ごす

多忙の原因となった複数の君主の位は、弟と息子に分けて継がせました。
スペインとその関連の王位は息子のフェリペに、神聖ローマ帝国関連については弟のフェルディナントに譲っています。

最後の仕事を済ませ、心身ともに疲れきったカールは、その後スペインのユステ修道院で隠棲生活を送ります。ここはマドリードから車で3時間程度の位置で、現在は歴史遺産にもなっています。レンガ造りの質素な建物ですが、尖塔がないためか、修道院というより王侯貴族の別荘のようにも見えます。現在は観光地としても人気があるようですね。

それから二年後、カールは静かに息を引き取りました。

棺は、息子フェリペによってマドリード郊外のエル・エスコリアル修道院に移されたので、両方行ってみると彼の足跡をたどる実感が持てるかもしれませんね。
エル・エスコリアル修道院はカールやフェリペをはじめ、先々代までのスペイン王のほとんどが眠っているので、フェリペは父を「(実質的な)初代スペイン王」として扱いたかったのかもしれません。
この父子に関する目立つ逸話はありませんが、「父が偉大=その子である自分も偉大」ということになりますし。

長月 七紀・記

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参考:カール5世_(神聖ローマ皇帝)/wikipedia

 




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