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日本初のミスコン優勝者・末弘ヒロ子 学習院のお嬢さんが晴天の霹靂で退学に追い込まれる

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「ただしイケメンに限る」なんて言い回しがありますが、性別問わず整った顔立ちのほうがいろいろと得をしますよね。ところがどっこい、世の中には美しすぎて損をした人もいるのです。
こう書くと「傾国の美女のせいで国が一つ滅びました」な話の予感がしますが、今回は別の方向のお話です。

明治四十一年(1908年)3月5日は、日本初の美人コンテストが新聞上で開催された日です。

現代でいうところのミスコンですが、「新聞上」というのがミソ。
というのも、このミスコンでトップになったがゆえに、大迷惑をしてしまった人がいたのです。
どういう経緯だったのか、順を追って見ていきましょう。

【TOP画像】末弘ヒロ子/Wikipediaより引用

 

もとはアメリカの新聞社から企画が始まった

ここから時を遡ること約一年前、アメリカの新聞が「全世界の美人さんの写真大募集!」と言いだしました。
これに時事新報社がノって、「我こそは日本一の美女という者は写真を!」と募集をかけます。
そして日本中からさまざまな女性の写真が送られたのですがが、一時期はノーコメントな感じの写真ばかりで、編集部としても(´・ω・`)状態だったとか。
まあ、写真って撮る人の腕前によってもかなり変わりますしね。本人が気付いていない姿勢や角度を指摘して、綺麗に撮るというのもカメラマンさんの腕ですし。

まあそれはさておき、時事新報社に送られてきた写真のうち、ほんの数枚だけ目を引くものがありました。
そして一位に選ばれたのが、当時の小倉市長・末弘道方の娘であるヒロ子嬢です。

末弘ヒロ子さん・さすがに端正な顔立ちをされておりますね/Wikipediaより引用

彼女は16歳。ミスコンというよりは美少女コンテストに出たほうが似つかわしい、花も恥らう少女でした。
ちなみに、二位以下の人はみんなヒロ子より年上でした。……これはどう受け取ったらいいんですかね。

日本一の美女と認められたのですから、もちろん喜ぶべきことです。
しかし、ここで大問題が起こります。ヒロ子は、学習院中学部の三年生だったのです。

 

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乃木希典が激怒! 嫁入りを控えた娘が不謹慎だ

特に、学長だった乃木希典は激怒しました。学習院は皇族や華族のお嬢様たちのための学校ですから、自らの写真を全国ネットで晒すようなことは、不謹慎だと考えられたのです。

でも、この写真はヒロ子が自分で送ったわけではありませんでした。彼女のお姉さんの旦那さん(つまり義理の兄)が写真館の主で、あるときヒロ子の写真を撮り、「よく撮れているから、新聞社に送ろう^^」と言い出したのです。
しかもヒロ子はその場で断っていたのに、後日その義兄が勝手に送ってしまったのだとか。ありがた迷惑の見本みたいな話ですね。

そんなわけで、ヒロ子にとっては勝手に応募されていたことも、それで学習院からお咎めを受けるのも青天の霹靂でした。
しかもその写真も、水着や薄着のアッハンウッフン的なものではなく、着物姿のごく普通の写真なのです。やや流し目ではあるものの、お見合い写真にでも使えそうな雰囲気があります。
それでも、当時の基準からすればそれは「はしたない」ことだったのでしょう。平安時代の「男女が直接顔を合わせた」=「深い仲」よりはまだマシですが、現代人からするとスゴイ感覚ですよね。

一番大きな理由は、当時の結婚適齢期です。
女子教育が広まったとはいえ、当時の身分ある女性は、「20歳までに結婚するのが望ましい」と考えられていました。となると、ヒロ子の16歳という年齢は、そろそろお婿さん探しを始める時期です。
そんなときに、どこの誰が見るともわからぬような新聞に顔写真を載せてしまうというのは、「後先考えぬ軽率なお嬢さん」と思われてしまうわけです。

 

時事新報社は2ページ半にも渡って批難記事を展開

可哀想に、このせいでヒロ子は学習院から自主退学を勧められてしまいます。
時事新報社のほうでも責任を感じて、「あのお嬢様に落ち度があったわけではないんですから、賞を取り消す代わりに在籍を続けさせてあげてください」と学習院に交渉します。そこでいったん学習院は了承したのですが、結局、反故にされてしまいました。

これに対し、時事新報社は2ページ半にも渡って学習院を批難する記事を書いたとか。新聞の2ページ半って相当ですよね。現代の新聞も、どうせ批判するならそのくらい気合を入れて書いていただきたいものです。

大阪毎日新聞もヒロ子に同情的で、「日本を代表すべき女学校の学習院から、日本一の美女が出たというのは誇らしいことであり、皇居の近衛兵に日本一の体格を持った兵士がいるのと同等である」と弁護しています。
現代の感覚だと、男性の背格好と女性の容姿を同等扱いすることや、「女性は顔が命」と受け取られかねない表現はいかがなものかという気もしますけれども。

しかも、ヒロ子は父と旧知の間柄である野津道貫の長男・鎮之助との結婚が前々から約束されていたので、乃木が心配するような「美女ぶりを誇示したせいでお嫁に行き遅れる」おそれもなかったのです。
このミスコン騒動の頃、道貫は病身になっていたので、同じ年の秋に急いで結婚式を挙げています。つまり、ほぼ半年前のミスコンの時点で、日取りが決まっていた可能性も高いわけで……。

旦那となったのは陸軍軍人の野津鎮之助/Wikipediaより引用

 

結婚後は良き妻・嫁として夫や義父を支えた

ヒロ子の縁談については、「乃木が罪滅ぼしに持ってきた」という説もあります。

が、いくら元陸軍のお偉いさんで学習院の校長の勧めとはいえ、親が病気のときにわざわざ結婚式をさせないでしょうね。
おそらくは、乃木の顔を立てて、誰かが言い出した話なのでしょう。乃木と野津は二人とも日露戦争時の司令官でしたから、そういう話の流れになっても世間的にはおかしくないと思われたでしょうし。

前者は参考にさせていただいた『明治のお嬢さま』(著・黒岩比佐子氏)の説まんまなのですけれども、個人的にこっちのほうが納得できたので紹介させていただきました。
この場合、乃木がちょっとかわいそうですけどね。まあ、彼の真面目さは疑いようがないですし、真面目さというのはときに行き過ぎることもあるというのも世間一般的によくあることですから、それで乃木の評価がガタ落ちするということもないでしょうけれど。

その後、ヒロ子は無事野津家に嫁ぎ、良い妻・嫁として夫や義父を支えたそうです。道貫の看護も懸命に行っており、道貫は眠るように安らかに逝ったとか。

結局関係ない人が騒いだだけで、当人たちには何の影響もなかったというオチでした。あるある。

長月 七紀・記

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参考:今日は何の日?徒然日記

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