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その日、歴史が動いた アジア・中東

中東の転職王イブン・ハルドゥーン 政治がダメなら学問があるからこれでいいのだ的生き方が素敵

更新日:

「転職」という言葉は比較的最近広まった言葉ですが、同じような概念はおそらくずっと昔からあったことでしょう。日本の戦国時代では、藤堂高虎というまさに転職王みたいな人もおりましたし……。
今回は図らずも職を転々とした、とある学者さんのお話です。

1406年(日本では室町時代・応永十三年)3月19日は、イスラム世界の学者として名高い、イブン・ハルドゥーンが亡くなった日です。

といっても日本人にはなかなか想像のつきにくい地域の話ですので、まずは本日のお話に出てくる国の位置関係をざっくり確認しておきましょう。

チュニスのイブン・ハルドゥーン像/Wikipediaより引用

 

チュニスで生まれ 出世よりも学問・信仰に重きを置く

「イスラム世界」というと、大体の方がイランやイラクあたりを思い浮かべるかと思います。今回の舞台はもう少し西。アフリカ大陸の北部、地中海沿岸です。

当時このあたりには、西から順番にマリーン朝、ザイヤーン朝、ハフス朝、少し東に離れてマムルーク朝という、それぞれ別のイスラム国家がありました。
少し離れて、現在のスペイン南部にはナスル朝という国も存在しています。学校の世界史では、「レコンキスタと最後まで戦ってた国」として出てくるので、この中では有名なほうでしょうかね。

イブン・ハルドゥーンは、この中のハフス朝の首都チュニス(現在はチュニジアの首都)で1332年に生まれました。日本史でいえば、鎌倉幕府が滅びる前年にあたります。
ハルドゥーン家は先祖代々イスラム王朝に仕えてきた名家でした。祖父の代から出世よりも学問や信仰に生きる生活を選んだため、イブンもその影響を強く受けて育ちます。

どうでもいいですが、ハフス朝の国旗は白とブラウンに馬のシルエットが描かれていてめちゃくちゃカッコいいです。形状が特殊なので説明しにくいのですが、中二心をくすぐられます。

ハフス朝の国旗/Wikipediaより引用

 

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占領されても前向き~「よっしゃ新しい学問やるチャンス!」

イブンが15歳のとき、チュニスがイスラムを信ずる別の国・マリーン朝(現在のモロッコあたり)に占領されるという大事件が起きます。
しかしイブンとその父は悲観的になるどころか、マリーン朝のお偉いさんがさまざまな学者を連れてきたことに目をつけて、「よっしゃ新しい学問やるチャンス!」とばかりに、学者たちに接近しました。たくましすぎんだろ。
俗世や権力と遠ざかっていたからこその視点なんですかね。

これがただの講義ではなく、読解を主体とした方法だったため、少年イブンにはかなり新鮮だったようです。それだけに積極性も増し、優れた理解力を見せたといわれています。
現代でも「なんだこれおもしれー!」って思えれば、勉強が楽しくなりますものね。

その後チュニスではペストが流行し、イブンの両親や先生たちも犠牲となりましたが、イブン自身は運良く生き残ることができました。
めげずに勉強を続け、19歳の頃には研究の成果として本を執筆するまでになっています。そして、その知識をもってイスラム世界の各国を巡りたいと思うようになりました。

フットワークの軽い学者さんというのもなかなか珍しい感じがしますね。フィールドワークが多い分野もありますけども。
お兄さんからは旅に出るのを反対され、一時役人になりかけたこともあったのですが、イブンの知的好奇心のほうが勝りました。
恩師づてに噂を聞きつけていた人もいたらしく、旅先で歓迎を受けることも少なくなかったようです。

 

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肩入れした後継者が絵に描いたような暴君になってもた(´・ω・`)

マリーン朝では公文書を作る役目に任じられたものの、やはりそこは故郷を占領した相手ですから、複雑な気持ちがありました。なら「なんで行ったんだ」とか言っちゃいけません。
ここで故郷・ハフス朝のお偉いさんであるアブー・アブドゥッラー・ムハンマドが人質になっていることを知ったイブンは、二人でアブドゥッラーの領地を取り返す計画を立てます。

が、当然のようにマリーン朝側にバレ、二人揃って投獄されてしまいました。
なぜかアブドゥッラーはあっさり釈放され、イブンは1年9ヶ月も囚われています。身分の差でしょうか。
最終的に200行もの詩を書いて釈放を願い出たところ、釈放が叶ったということなのですが……どういうことだってばよ。
といっても、マリーン朝のほうではイブンの命をどうこうしようというつもりは最初からなかったようです。

釈放された後、マリーン朝の中で後継者争いが起きるのですが、イブンはその一方であるアブー・サーリムに肩入れして、見事スルタンの座につけています。いつまでも遺恨が残っていたら、こんなことはできないですよね。
この功績を持ってイブンはかなりの高職を授けられます。実力も認められ、前途洋々、順風満帆に見えました。

が、頑張ってスルタンになったはずのアブー・サーリムが絵に描いたような暴君であることがわかってしまったため、さすがのイブンも次第に(´・ω・`)な気持ちが強くなっていきます。
イブンの親友がアブー・サーリムをブッコロしてクーデターを起こしたことでその問題は解決したのですけれども、その頃には既に「このままマリーン朝にいてもなぁ……」という気分になっていたようで……。

一応給料や領地は増やしてもらえたのですが、期待していたほどは上がらず、イブンは家に引きこもって今後のことを考えます。
そして、「ひとまず故郷のチュニスに帰って、今後のことを考えよう」と決めました。

 

政治がダメでも学問の道では活躍を続けた

しかし、上司はこれを「もしや、他の国に仕官したいための言い訳では?」と勘ぐり、なかなか帰郷の許可を出しません。イブンは粘り強く交渉し、やっと「ザイヤーン朝に行くのでなければ許す」という妥協案を引き出しました。

こうしてイブンは妻と子供を妻の実家に預け、ナスル朝の知り合いをツテに、イベリア半島南部のグラナダという町へ渡ります。
ここは今でもアルハンブラ宮殿などで有名ですので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。

ナスル朝に仕え始めたイブンは、その学識でもってスルタンに寵愛されましたが、他のお偉いさんからすれば「なんであんなポッと出のヤツがあんなに信用されるんだ」と思われるのも仕方のない事です。
そのため、ここでも腰を落ち着けることはできませんでした。
何度も政治の世界で失敗して、イブンはさすがに考えが変わったものと見えます。

「これからは学問の道に専念しよう」と気持ちを改め、イスラム世界の歴史を本にまとめ、学会で認められることに成功しました。
その後はカイロで講演なども行い、マムルーク朝のスルタンに認められて、各所で教授などの職を与えられています。

政治家として成功することはありませんでしたが、亡くなるまで学者としての名声は衰えず、学問の世界で活躍しました。
イブンからしてみれば、100点満点ではなくても、良い人生だったといえるのではないでしょうか。
「ここでうまくいかないならよそに行けばいい」という考え方は、現代の我々にとっても参考になりそうですね。

もちろん、考えなしに転職などを繰り返してしまうのはよろしくないでしょうけど。

長月 七紀・記

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参考:イブン・ハルドゥーン/Wikipediaより引用

 

 




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