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秦の始皇帝、その激動すぎる人生マトメ! 呂不韋を退け、不老不死に走り、死後にあっさり国滅ぶ

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未来を正確に予知することはできないにしろ、後顧の憂いを絶つために出来る限りのことをしたいですよね。それは自分のためだけではなく、子供や孫、その先の世代のためになることもありますし。
為政者の方こそ、そういう視点を持っていていただきたいものですが、残念ながらそうとも限りません。本日はお隣の国のそんなお話です。

1974年(昭和四十九年)3月29日は、兵馬俑が発見された日です。秦の始皇帝のお墓として有名なアレですね。

「周辺の住民が井戸を掘ろうとしたら偶然見つけた」といわれていて、文字通りの掘り出し物でした。
当時はまだ文化大革命をやってた頃でしたし、発見者たちにはあまり考古学の知識や興味がなかったらしく、しばらく放置されていたそうです。まあ、こんなものが見つかっても、当初の目的からすれば「これじゃ井戸掘れない(´・ω・`)」ってなるでしょうしね。

発掘が始まったのは二ヶ月ほど経ってから。新華社通信の記者がこの話を聞き、国に報告したことがキッカケでした。その後、発見者たちにお金が入ったのかどうかは謎です。
というわけで本日は、兵馬俑を作らせた始皇帝のお話をしたいと思います。
中国史は随分久々のような気がしますので、まずは彼の生きていた時代がどんな感じだったのか、というところから話をはじめましょうか。

【TOP画像】始皇帝/wikipediaより引用

 

春秋と戦国の境目が曖昧なので春秋戦国時代

始皇帝が生まれたのは、中国の戦国時代。
「春秋戦国時代」とも呼ばれますが、これは「春秋時代と戦国時代の境目がよくわからんから、とりあえずまとめて呼ぼう」という考えから来ています。
西暦でいえば、紀元前770年~紀元前403年が春秋時代、紀元前403年~紀元前221年までが戦国時代の目安になっていますが、学者先生方の間で意見が分かれているため、まだ認識が統一されていないようです。

ものすごくアバウトな考えで行くとしたら、「中国最古の王朝・殷と、みんな大好き三国志の時代(後漢~三国)の間にあったのが春秋戦国時代」という感じでしょうか。
おそらくテストでも「春秋時代は西暦何年から何年までか」なんて問題は出ないでしょう。

始皇帝は、その春秋戦国時代の終わりごろに生まれました。
というか、彼がこの時代を終わらせるんですが。こまけえこたあいいんだよ。

当時の中国は(例によって)いくつかの小さな国に分かれていて、そのうちの一つである秦の王族として生まれています。
初名は「政」といったそうですが、ややこしいのでこの記事では即位前から「始皇帝」で統一させていただきますね。

 

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人質に出されていた趙で殺されそうに……

始皇帝の父・子楚は王族とはいえ側室生まれであり、他にも兄弟が20人以上いたため、当初は王位を継ぐ見込みはないと考えられていました。
さらに、始皇帝が生まれた頃は趙という国で人質になっていたため、さらに肩身の狭い思いをしていたのです。

しかし、「腐っても鯛」ならぬ「捕まっても王族」。子楚の立場を利用して、将来儲けてやろうとする商人が現れました。

韓の国(※現在の韓国とは関係ありません)の呂不韋という人です。キングダムファンの皆さまなら皆まで言うなというところでしょうか。マンガのストーリーとは異なるところもあり、かつネタバレになってしまうかもしれませんので、ご了承ください。

呂不韋は子楚とその父・安国君(始皇帝からするとじーちゃん)にお金を出して近づき、子楚にはさらに美人を紹介してくれました。
これが始皇帝の母・趙姫です。

やがて始皇帝が生まれると、秦の国では王様が代替わりします。安国君は王太子となり、子楚や幼い始皇帝の前途も明るくなるかに見えました。
が、新しい秦の王様(始皇帝のひいじーちゃん)は孫とひ孫のことなど全く考えず、趙の国と戦をおっぱじめます。戦は秦の優勢で進み、趙の首都・邯鄲(かんたん)を包囲するほどでした。
趙の王様と愉快な仲間たちは当然怒り、子楚一家を処刑しようとします。

 

始皇帝は秦に戻り、晴れて呂不韋は丞相となる

ここで子楚は妻子を放って趙を脱出してしまいましたが、始皇帝は母とともにうまく隠れ、何とか逃げ切ることができました。
おそらくは、呂不韋が何かしら便宜を図ってくれたのでしょうね。誰の助けもなしに他国の王族が逃げ切ることは難しいでしょうから。

一方、秦軍は、いつまで経っても邯鄲が落ちないので一時撤退。そして再度代替わりが起こり、安国君が新しい王様になります。さらには呂不韋の工作によって子楚が王太子となり、始皇帝とその母は秦に返される事になりました。

ここでやっと感動の一家対面……といきたいところですが、安国君は即位してたった3日で亡くなってしまい、今度は子楚が秦の王様になります。
呂不韋は、晴れて秦の丞相(現代でいえば総理大臣)に任命されました。黄金色のおまんじゅうの匂いがしますね。
饅頭ができたのは三国時代という説があるので、この時代にはなかったでしょうけれども。

 

母・趙姫は呂不韋と通じ、さらには別の男をあてがわれて出産

かくして始皇帝のトーチャンと呂不韋は、秦の国を強くしていきました。しかし、トーチャンもまた即位から三年で亡くなってしまったため、始皇帝が13歳で秦の王様に即位します。
続けざまに血生臭い匂いがしますね。

呂不韋は引き続き丞相として、そして幼君の後ろ盾として大きな権勢を振るいました。が、こっそり始皇帝の母親・趙姫(ちょうき)と関係していたため、後ろめたい思いもしていました。呂不韋は趙姫との関係を精算するため、別の男を紹介します。めでたく新しい男と趙姫はくっつき、子供が二人生まれます。
が、未亡人である&王の母である趙姫が、子供を産むこと自体そもそもマズイ話です。
当然ながら呂不韋は自分が関係していることを隠し通しましたが、始皇帝が22歳になったとき、ついにバレました。

しかし、始皇帝は不届きな所業よりも呂不韋への恩のほうが勝ると考え、一度は免職と追放&蟄居で済ませました。新しい男のほうはクーデターを起こそうとして失敗したので、子供2人や一族まるごとブッコロしています。
子どもたちは自分の弟とはいえ、まぁ、当時だったら仕方のない処置でしょうね。

 

呂不韋は服毒自殺に追い込まれていた!?

いざ呂不韋を追放した始皇帝でしたが、かつてのツテで呂不韋を訪ねていく人は多く、「だめだあいつ、早く何とかしないと」(※イメージです)と考え直します。
追放から三年ほど経って、始皇帝は呂不韋へ「お前反省してないみたいだけどナメてんの? 一族揃って蜀に行くように(そこで何があっても俺は知らん)」(超訳)という手紙を送りつけました。

蜀というのは、三国志でもお馴染みのあの蜀です。現代の地名では四川省や湖北省、中国内陸部の山深いところですね。
当時はその地形を生かして、流刑地になっていました。つまり、「死罪ギリギリの者が閉じ込められるところ」です。
呂不韋は始皇帝の言わんとする事を察し、「遅かれ早かれ、死を賜るのであれば……」と諦め、自ら毒を飲んで命を絶ったといわれています。
変な欲さえ出さなければ、その後も権勢を振るうことができたでしょうにね。

始皇帝は、呂不韋の葬儀で涙を流した者ですら処分するという厳しさで、この一件を収めました。

 

燕の王太子・丹に刺客を送られ、あやうく暗殺されそうに

その後、始皇帝は本格的に親政を始め、法律の整備と周辺国家の攻略を進めていきました。

呂不韋の故郷である韓と、自らの出生地である趙をまず攻め落とし、次に燕という国を攻めます。
この燕という国の王太子・丹は、以前趙の国で人質になっていたことがありました。始皇帝にとっては人質仲間(?)みたいなもので、顔なじみだった人物です。
始皇帝が秦の王様になってから丹は秦の人質になっていたのですが、扱いに耐えかねて脱走し、燕の国へ帰っていました。

丹は始皇帝を恨み、暗殺計画を立てて刺客を送り込みます。使者と偽って始皇帝に直接会い、隙を見て刺す手はずでした。
始皇帝は、刺客の剣を避け、すんでのところで助かります。が、当時秦では宮殿で臣下が武器を持つことを禁じられていたため、刺客を即座に取り押さえることができませんでした。
一説には、侍医の一人が刺客に薬袋を投げてひるませ、始皇帝が慌てて剣を抜いて刺客を斬り殺したといわれています。そのお医者さん、別の仕事をしたほうが良かったんじゃ……。

当然のことながら始皇帝はブチ切れ、早速燕の国を攻め滅ぼしました。
ただ滅ぼしただけでなく、刺客の血縁者を全て殺し、首都・薊の住民全員を虐殺するという怒りようでした。燕の王様は一度逃げた後、暗殺の首謀者である丹の首を差し出して許しを請いましたが、それも聞き入れられていないほどです。
始皇帝に対する暴君のイメージが強いのは、おそらくこの辺の出来事や焚書坑儒の印象が強いからなのでしょうね。

 

秦がすぐに滅びた理由を3つ考えてみた

その後も魏・楚・斉の三つの国を滅ぼして、ついに始皇帝は中国を統一します。これは中国史上初めてのことでした。それまでにも王朝はありましたが、全土と呼べるほど広い範囲を治めたものはなかったのです。
そのため、始皇帝は自らを「王の上に立つ存在」として、「皇帝」という称号を作り、自分がその一人めだから「始皇帝」と呼ぶようにと定めました。

始皇帝は次代以降の皇帝を「二世」「三世」と呼ぶよう定めましたが、秦の国自体がそう長くはもちませんでした。
理由は大きく分けて三つ考えられます。

一つは、始皇帝が改革を急ぎすぎたことでした。
紀元前221年に秦王朝が成立したとき、始皇帝は38歳。当時の寿命からすれば、そろそろ死後と時代のことを考えなくてはなりません。
始皇帝がどこまでそれを意識していたかはわかりませんが、彼は多くの面でそれまでの習慣を変える政策を取りました。

例えば、それまで中国で取られていた封建制をやめて、郡県制にしています。
封建制も郡県制もトップからそれぞれの諸侯に土地が与えられる点は同じです。しかし、封建制の場合は「与えられた領地内の政治を行うのはそれぞれの領主」でした。大きな国の中に、小さな独立国があると考えればいいでしょうか。
一方、郡県制の場合はあくまで主は皇帝であり、それぞれの領主は部下という扱いになります。つまり、郡県制のほうが中央集権的ということです。

現代で例えるとすれば、「企業組合と組合長の関係が封建制」、「一つの会社における社長と役職者・ヒラ社員の関係が郡県制」というところでしょうか。
……あんまりわかりやすくなってないですね。スイマセン(´・ω・`)

始皇帝は度量衡の統一や水道の整備、家柄にとらわれず人材を登用するなど、良い改革もたくさんやっているんですが、それ以上に「旧来の伝統を壊したこと」や、統一までの残虐な仕打ちが人の恨みを買いました。
始皇帝は統一後にも三回ほど刺客を送られています。それほど恨まれていたということです。

 

不老不死にオレはなる!

二つめは、晩年に神仙思想へ傾倒しすぎたこと。

始皇帝は、中国で神聖視されている泰山で封禅の儀式という「特に徳と功を備えた天子」が行える儀式をしているのですが、この時自らの不老不死を祈るための儀式も行ったとされています。
つまり、始皇帝は「次代以降の皇帝は◯世と呼ぶように」と定めていながら、その実、帝位から退くつもりはなく、永遠に支配者であり続けようとしたのです。
兵馬俑もその一端といわれていますね。

望むだけならご自由に……と言いたいところですが、始皇帝は不老不死を得るための方法を何とか探しだそうと、膨大なお金と人員をかけて調査を行わせています。
中国には「東の海のはるか彼方に蓬莱山という仙人が住む山がある」という伝説があるのですが、始皇帝は「そこの仙人に不老不死になるための方法を聞いてこい」と命じたことがあります。

命じられたほうは一度はごまかしましたが、莫大な金額を要求しながら成果がなかったため、二度めの探索に出たまま秦に戻ることはなかったそうです。一説では日本にたどり着いてそのまま住んだともいわれていますが、当時の日本は弥生時代で文化レベルが違いすぎますから、たぶんうまくやっていくことは無理でしょうね。
もし本当に日本に流れ着いていたら、秦の文化がもっと伝わっていたでしょうし、それなりの記録も残るはずです。

いくら調査を出しても成果が得られないことに業を煮やしたのか、始皇帝は水銀を服用するという暴挙に出ます。
当時水銀は不老不死の薬とされていたので、始皇帝以前の権力者も飲んでいたようです。
その割に不老不死になった人がいないことを疑っても良さそうなものですが、始皇帝にはそういう視点がなかったみたいですね。

 

後継者を育成せず、むしろ優秀な息子を流刑にしていた

そして三つめは、自分の死後のことをあまり考えていなかったことです。

始皇帝には多くの子供がいました。長子の扶蘇(ふそ)は優秀な人物でしたが、それゆえに焚書坑儒(ふんしょこうじゅ・始皇帝が儒者を弾圧した事件)に反対したため流刑になっており、始皇帝の死後、自決させられています。
扶蘇を騙る偽者が現れたこともあるくらいなので、民衆からも期待されていたのでしょう。

末子の胡亥(こがい)がお偉いさんの後押しで二世皇帝になったものの、兄に似ず暗愚で、他の兄弟や親戚を殺しまくるわ、無理に徴兵をするわ、贅沢をしまくるわというバカ殿の見本みたいな人でした。

こんな悪条件が三つも揃ってしまえば、秦王朝そのものの寿命が縮むのは当たり前の話です。

二世皇帝・胡亥はクーデターを起こされて自決を迫られ、その後は中国史お決まりの大乱が全土で起こり、せっかくの統一王朝はわずか15年ほどで幕を閉じてしまいました。

その後しばらくの戦乱を挟んで、次に興るのが漢王朝(前漢)です。
もし始皇帝が神仙思想に目覚めず、現実的に次代以降のことを考えていたら、漢王朝は興らず、「漢字」などの名称も違ったものになっていたかもしれません。

「一代で事を成す難しさがわかる話」……と片付けてしまうのは少々乱暴ですが、そう思わざるをえません。

長月 七紀・記

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参考:始皇帝/wikipedia

 

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