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フランス その日、歴史が動いた

美貌の画家エリザベートの生涯 マリー・アントワネットを描き、祖国フランスで「やっと休めます」

更新日:

「自分の思い通りに生きる」というのは、簡単なようでいてとても難しいことです。
家族や友人、周囲との関係から不可能なこともありますし、お金の問題やその他の義務によって、ほとんどの人は何かしら譲歩をしなくてはならないことが多いですよね。
それはいつの時代も同じことかと思われますが、可能な限り自らの意志で人生を決めていったという人もまれに存在します。
本日はそんな感じのとある女性のお話です。

1842年(日本では江戸時代・天保十三年)3月30日は、フランスの女流画家として有名な、エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランが亡くなった日です。

「ベルサイユのばら」にも出ていたので、同作のファンの方はご記憶でしょうか。マリー・アントワネットの肖像画を描いた人としても有名ですし、歴史の資料集などでもよく出てくる名前ですね。

となると「王妃に取り入ったいけ好かないヤツ」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、エリザベートの生涯を見てみると、そうとはいえない気がします。
いったいどのように生きていった人なのでしょうか。

【TOP画像】エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン/wikipediaより引用

 

画商の娘に生まれ、幼き頃から手ほどきを

エリザベートは画商の娘として生まれ、幼い頃から絵の手ほどきを受けていたといわれています。十代前半の時点で、その筋には名を知られていたそうですから、才能と環境がうまくマッチしたのでしょう。

しかし、父が早くに亡くなったため、母と妹を養わなければならなくなってしまいました。
「ギルドに入っていないから」という理由で同業者からもやっかみを買い、アトリエを一度閉める羽目になるなど、しばらくの間は苦労が続きます。

彼女はめげずに頑張り、19歳のとき、聖ルカ組合というギルドに参加して、ようやく公に営業を再開できるように。21歳で画商のジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚し、貴族たちの肖像画を頻繁に描くようになって、やっと彼女の画家としての人生が本格的にスタートします。

描く絵が美しいのはもちろんのこと、自身も美人であったエリザベートの評判は、やがてヴェルサイユ宮殿にも届きました。

そして、マリー・アントワネットから「私の肖像画も描いていただきたいわ」とお呼びがかかり、エリザベートは今日王妃の肖像画として有名な数々の絵を生み出していくことになります。

 

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マリー・アントワネットに人柄も気に入られ良き友となる

マリー・アントワネットが白いゆったりとした「シュミーズドレス」(田舎風の服とも)を着ている絵や、水色のドレスを着ている絵などが特に有名ですね。他にも、子供たちに囲まれて座っている絵や、ルイ16世のお気に入りだったという赤いソファーに座って本を片手にしている絵などがエリザベートの作品です。

エリザベートが描いたマリー・アントワネット/wikipediaより引用

つまり、今日我々が「マリー・アントワネット」と言われて思い浮かぶ顔は、エリザベートが描いたものがほとんどだということになります。
幼少期やフランスに来たばかりの絵、処刑寸前の絵などは例外ですが。

マリーはエリザベートの人柄も気に入ったらしく、依頼主と画家というだけでなく、良い友人にもなったといわれています。
エリザベートが宮殿の外でも仕事を得やすくなるように、王立絵画彫刻アカデミーにはたらきかけて、会員になれるよう計らってくれたのもマリーでした。
このことからは、マリーが「目の届く人には優しくあろうとした」ことがわかりますね。

 

ローマやロシアでも礼賛された絶頂期

そんなマリーの後押しと自らの才能によって、エリザベートはさらに名声を高めていきます。
長年培ってきた実力と名声のおかげで、フランス革命の際はフランスからうまく逃れ、ヨーロッパ各国で画業を続けることができました。

ローマのアカデミーでも絶賛され、ロシアではエカチェリーナ2世の依頼でロマノフ家の人々を多く描いています。サンクトペテルブルクのアカデミーでも会員として認められ、まさに絶頂期でした。

しかし、彼女は我が身惜しさだけでフランスを出たわけではなかったと思われます。
命の危機を感じたからこそ脱出したということは間違いないでしょうが、彼女はフランス革命が一段落した後、フランスに戻っているのです。
しかも、帰国してから最後のフランス王女マリー・テレーズ(過去記事:フランス最後の王女「マリー・アントワネットの娘(マリー・テレーズ)」はどんな末路を辿ったか)のために、マリー・アントワネットの肖像画を描いています。

完全にフランス王家を見捨てていたとしたら、どこか別の国で王家に取り入って、フランスに戻ることはなかったでしょうし、何の力もなくなったマリー・テレーズのために母の絵を描いたりはしなかったでしょう。

これは完全に私見ですが、エリザベートは「マリー・アントワネットの姿だけでも、できるだけ正しく伝えるために、生きのびよう」と思ったのではないでしょうか。
いくら助けたくても、一介の画家にしか過ぎない彼女が具体的にできることは何もなかったでしょうし……。
もしかしたら、イタリアやロシアでフランス王家に力添えしてくれるよう、頼みこんだこともあったかもしれません。マリー・アントワネットの実家であるオーストリアにも行っていますしね。

その後、エリザベートはイギリスに渡ってお偉いさんの肖像画を描いたりもしましたが、フランスではナポレオンと折り合いが悪かったらしく、再び故国を出てスイスに移っています。
フランスで王政復古が起き、ルイ18世が王位についてからはまたフランスに戻ってきました。
このことからも、彼女がブルボン家に恩義や親しみを感じていたと考えていいのではないでしょうか。

 

ルーヴシエンヌにて「私は、ここでやっと休めます」

以降はずっとフランスに住み、50代に入ってからパリ近郊の町・ルーヴシエンヌに家を買って、仕事をしながら静かに暮らしていたようです。
その家はプロイセン軍が攻めてきた時に接収されてしまったものの、それでもフランスからは出ず、パリに移り住みました。
亡くなったのもパリでしたが、お墓はルーヴシエンヌに作られています.

エリザベートのお墓には、「私は、ここでやっと休めます」というような意味の文言が刻まれているとか。
彼女の最後の言葉なのか、彼女を評して誰かがこのように刻んだのかはわかりません。
しかし、革命から亡くなるまでの間、エリザベートがどんな気持ちでいたのか、ということが何となくわかる気がしますね。
エリザベートを主役にした小説や映画があれば結構面白いんじゃないかと思うんですが、いかがでしょう。
自分の意志で仕事を生き方を決めていったという点では、キャリアウーマンといえなくもないですし。

エリザベートは家庭には恵まれなかったので、現代で人気の「仕事と家庭を両立」というイメージにはそぐわないかもしれませんが。



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長月 七紀・記
参考:エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン/wikipedia

 

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