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名著『ジェーン・エア』はこうして生まれた 幾度も映画化・舞台化されながら知名度低きブロンテ姉妹

あんまりいい言葉ではありませんが、「一発屋」といわれてしまう人がたまにいますよね。「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人」なんて表現もありますし、一時期話題になったからといって、必ずしも活躍が続くとは限りません。
不慮の事故などで図らずしもそうなってしまうこともありますし。
本日は、結果的にそんな感じの一生になってしまった、とあるきょうだいのお話です。

1855年(日本では幕末・安政二年)3月31日は、イギリスの小説家シャーロット・ブロンテが亡くなった日です。
「ジェーン・エア」という、社会的な慣習にとらわれない女性を描いた小説の作者でした。

なんせ彼女の生きていた時代はいわゆる「ヴィクトリア朝」。イギリスでも最も倫理観が厳しかった頃です。
どのくらいかというと、「家具の脚は性的なことを連想させるので隠すべき」なんて習慣がありました。
……むしろ、家具の脚からそんなことを連想できるほど想像力が豊かな人のほうが珍しいと思うんですが、それは。

シャーロット・ブロンテ/wikipediaより引用

 


身なりも身の振り方も厳しい時代だった

ヨーロッパの貴婦人というと「ドレスに手袋」がお決まりですね。

実はこれも「高貴な女性は自分で家事をする必要がないのだから、手を露出すべきではない」という、わかるような、わからないような理由から来ています。

いきおい女性の身の振り方についても厳しい時代でした。
一定以上の身分がある女性は一人で行動してはいけないとか、働くとしたら作家か他の家の家庭教師になるか、女学校の先生もしくは経営者くらいしか選択肢がなかったのです。

シャーロットは幼いころに母を亡くしたため、寄宿舎に入っていたことがあり、決して楽な生活ではありませんでした。しかも一緒にいたお姉さん二人が寄宿舎内で結核にかかって亡くなってしまっているので、寂しい思いもしたと思われます。

そんな彼女の支えになったのは、牧師館にあった数々の文学作品でした。ひとつ下の弟と合作したこともあり、かなり早いうちから文学の道に進みたいと思っていたのかもしれません。

 


父の看病の合間に「ジェーン・エア」を執筆

しかし、若いジョセがいきなり作家として身を立てるのは難しいことです。
15歳の頃からいろいろな家で家庭教師として働いたり、私塾を開いて生計を建てようと試みましたが、それも難しい話で。その上父親が寝込んでしまい、自由に出歩くこともままならなくなります。

そして、父の看病の合間に少しずつ書いていったのが「ジェーン・エア」でした。

主人公ジェーンが当時の常識からかけ離れた行動を取っているのは、シャーロットが本当にやりたいことをそのまま作中に表現したからなのかもしれません。

妹のエミリーは「嵐が丘」、アンは「アグネス・グレイ」「ワイルドフェル屋敷の人々」を上梓し、世にも珍しい小説家姉妹として今に伝わっています。

しかし、彼女らのファン以外での知名度は……というと、さほど高くないというのが現実ではないでしょうか。
おそらく最も有名なのが、映画化や舞台化されたことが多い「嵐が丘」だと思われますが、「作者の姉妹も小説家だ」という話はあまり聞きませんよね。

 

 

ではなぜそんな珍しい姉妹がファン以外にあまり知られていないのかというと、ものすごく単純な話です。
彼女ら三姉妹、そしてブロンテ家の人々は、ほとんどが40歳になる前に亡くなっているからです。

上記の通り長女・次女は幼いうちに亡くなっていますし、その次に画家だった弟も亡くなり、エミリーとアンもそれぞれの作品を発表してまもなく世を去りました。
きょうだいで一番最後だったシャーロットも、38歳の若さで亡くなっています。
最も長生きだったのが父親だったというのですから、その苦悩と孤独たるや想像を絶します。

他の女きょうだいは結核だったので致し方ないところもありますが、シャーロットは妊娠高血圧症候群(以前”妊娠中毒症”と呼ばれていた症状)で亡くなっているので、何とも切ないものですね。
シャーロットの場合は「エマ」を未完のまま、さらに母子ともに亡くなってしまったそうですから、旦那さんも当時のファンも辛かったでしょう……。

 


バッハ一族は80人が音楽家 オーケストラできるやん!

さて、ブロンテ姉妹の他に同じ分野で名を残した兄弟姉妹はいないものでしょうか。
ごく一部ではありますが、いくつか例を挙げてみましょう。

まず芸術の世界だと、ヤン・ファン・エイクとフーベルト・ファン・エイクという兄弟がいます。
15世紀のフランドル(現・ベルギー)の画家で、最高傑作とされる「ヘントの祭壇画」は二人で作り上げたものでした。
二人とも薄暗い画面に深みのある赤や青、緑を多用していて、なんとも言えない不気味さが漂う作風。他のきょうだいである弟・ランベルトと妹・マルフリートも画家でしたので、まさに血のなせる業というところでしょう。

兄弟どころか一族のほとんどが音楽家なのは、皆さんご存じのバッハ一族です。

通常「バッハ」と呼ばれているヨハン・ゼバスティアン・バッハ(大バッハ)までで、だいたい80人くらいの音楽家がいたといわれています。
ただし、大バッハの孫であるヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハを最後に、直系の血と音楽を生業とする人は途絶えたとか。
祖先の偉大さに耐え切れなかったのか、家業を継ぐことに意味を見いだせなくなったのか、ただ単にフリーダムな人が増えたのか。真実は定かではありませんが、どうだったんでしょうね。

 

当初はフランチャイズを考えていなかったマクドナルド兄弟

芸術家以外だと、最も有名なのはライト兄弟でしょうか。
言わずと知れた、飛行機による有人飛行を世界で初めて成功させた人たちですね。

また、スポーツ界でも兄弟姉妹揃って同じ種目で活躍した人は多くいます。
どちらかが有名になるともう一方は……というケースも多いですが、若貴兄弟のように、二人とも大きく成功した例もなくはありません。

兄弟で協力して一つのものを作り上げた例としては、映画の父であるリュミエール兄弟(過去記事:映画の日(12月1日)は日本で初めて映画が上映。じゃあ初めて映画を撮ったのは?)や、ファーストフードの代表格・マクドナルドを創設したマクドナルド兄弟がいます。
マクドナルド兄弟はあまり大きな商売をするつもりがなかったそうで、フランチャイズ化したのはシェイクメーカーをやっていた別の人なんだとか。
弟さんの方は1998年まで長生きしていますが、世界に広がる同社を見て「我が子がどんどん遠くなっていく」ような感じがしたでしょうね。

また、ゴッホとその弟・テオのように「一方が他方の仕事をサポートした」という兄弟もいます。
彼らの場合は悲しい結末になってしまいましたが、過程はまさに兄弟愛そのものですよね。お墓も隣に作られているくらいですし。

うまくいくことばかりではありませんが、やはり血縁は大事にしたいものです。

長月 七紀・記

参考:シャーロット・ブロンテ/wikipedia ブロンテ姉妹/wikipedia


 



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