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飛鳥・奈良・平安時代 その日、歴史が動いた

奈良の大仏を作った聖武天皇が不幸すぎて涙~最近話題の上野大仏と無量光寺の首大仏にも注目してみました

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「日本人は無宗教」とは言われますが、だいたいの人は仏様や神様に対してある程度の尊敬や畏敬の気持ちを持っていますよね。元が多神教だから、というのもあるでしょうけど。
本日はそんな宗教的な文物の中でも、誰もが知っているアレのお話です。

天平勝宝四年(752年)4月9日は、東大寺で大仏開眼供養会が営まれた日です。

歴史の授業で誰もが習う「奈良の大仏様」の公式デビューともいうべきイベントですね。
その大きさで有名ですが、今回はこの大仏様が一体どのような経緯をたどってきたのかを見ていきましょう。

東大寺・盧舎那仏像/Wikipediaより引用

【TOP画像】上野大仏/Wikipediaより引用

 

東大寺大仏の正式名称は盧舎那仏像

奈良の大仏様の本名は、「東大寺盧舎那(るしゃな)仏像」。仏様としては「盧舎那仏」となります。さらに正確に言えば「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」です。
これはお釈迦様よりもエラいとされる仏様で、いわば仏教の世界観のトップとも呼べる方のこと。仏教の教えそのものの擬人(仏)化ともされ、真言宗などでは「大日如来」とも呼ばれます。宗派によって同じ仏様でも違う呼び方をするんですね。
その理由などについては細かい数字や抽象的なお話が多いので割愛しますが、ご興味のある向きはググる先生や専門書をどうぞ。

一番エラい方を祀るわけですから、東大寺にかけられた期待や願いの大きさがうかがえます。
東大寺やこの大仏を作らせたのは、これまた有名な聖武天皇です。古代史で仏教といえば、ほとんどの場合、聖武天皇のお話になるんじゃないかというくらいよく出てくるお名前ですが、それにも理由がありました。

教科書では「政治情勢の不安や飢饉、疫病等が続いたため、聖武天皇は大仏を作って加護を願った」という感じで書かれていますけれども、聖武天皇の前半生はそれだけでは収まりきらないようなトラブル続きだったのです。しかも本人にあまり責任がないところで。
例によってざっくりまとめると、こんな感じになります。

聖武天皇/Wikipediaより引用

 

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【同情したくなる聖武天皇の治世前半ダイジェスト】

・中継ぎとして即位するはずが、イチャモンをつけられて延期され、中継ぎの中継ぎというワケワカメな理由で女帝が立つ

・やっと即位したら、数年で親戚と有力者がトラブって政争に(長屋王の変)

・政争に勝った有力者のほうも、流行病でバタバタ斃れる(天然痘流行)

・都も落ち着かない状況なのに、地方役所の役人に反乱を起こされてイヤになる(藤原広嗣の乱・関東に家出未遂)

・その他同時進行で地震や飢饉が頻発する

※なお、災害に特化した記録については当サイトにも寄稿されている恵美嘉樹さんの記事に詳細がございまして、そちらを引用させていただきましたのでご参照ください。

 

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聖武天皇は生前に譲位した初めての男性天皇だった

後世の人間からしても「もうやめたげてよお!(`;ω;´)」と言いたくなるほどの不運ぶりです。
これだけのことが重なれば、仏様にすがりたくなるのも至極当然の話ですよね……。

この他に、聖武天皇は「災いが重なるのは、きっと都の位置が悪いに違いない」と考えてたびたび遷都を行っていましたが、当然の事ながら費用その他の問題が増えてしまうので、諸侯から反発を食らいました。
大仏やお寺の建立ぐらいの費用でしたら、遷都よりは周囲の理解を得られやすかったんでしょうね。

そんなこんなで東大寺と大仏は作られていったのですが、完成までの間に聖武天皇の皇子が17歳の若さで亡くなってしまったり、不幸は継続。ついに耐え切れなくなったのか。聖武天皇は大仏の完成を待たずして出家・譲位してしまうのです。

あまり知られていませんが、聖武天皇は生前に譲位した初めての男性天皇でもあります。

そして出家から三年後、無事大仏の開眼法要を営むことができました。
さらにその二年後には鑑真(過去記事:鑑真は失明はしてなかった?日本に授戒を伝えた偉業は燦然と輝く【その日、歴史が動いた】)が来日しています。聖武天皇は皇后である藤原光明子や娘の孝謙天皇と共に鑑真に会ったそうですが、唐からはるばる来てくれた有徳の僧に会って、やっと救われた気分になったかもしれませんね。

 

江戸時代に堀直寄が作った上野大仏

そんなわけで、あの巨大な奈良の大仏様にはいろいろな苦労話が隠れているわけですが、各地の大仏にも逸話がないものか調べてみました。
一番インパクトがデカいのは、「首だけ・顔だけ」の大仏でしょう。しかも複数あります。

一つは、上野公園にある「上野大仏」。

上野大仏/Wikipediaより引用

江戸時代初期に、堀直寄(ほりなおより)という大名が建てた釈迦如来の像です。上野には徳川家の菩提寺・寛永寺ができる前にいくつかの大名の菩提寺があり、堀家もその一つでした。

戦国時代の死者を弔うため、この場所に作られたものでしたが、その後、地震や火災によって大仏本体もお堂も再建を重ね、安政の大地震でついに頭部が破損。それでもなお堀家の寄進で修復はしましたが、ついに関東大震災では頭部が落下するという洒落にならない状態になります。

寛永寺が胴部を保管し、修復のめどが立たないまま戦時中に供出されてしまい、無残にもお顔だけが残されました。
そして、昭和の間に再建を願う祈願等が建てられながら、結局、お顔だけをレリーフとして残すことが決まり、今日に至っています。

お顔だけが残ったことから「これ以上落ちない」というへりk……もとい発想の転換により、受験生やその両親が参拝に来ることが多いとか。

また、最近ではJR東日本のポスターにも採用されたことで一部で話題になっておりますね。「上野でいちばん大きな顔してるのは、西郷さんだと思ってた」というキャッチコピーが秀逸で思わず足を止めてしまう方もいるとか。まぁ、歴史好きな方だけかもしれませんが、たしかに遊び心のある宣伝ですよね。

 

首だけで3メートル 途中で金が足りなくなったから

もう一つは、和歌山市にある「無量光寺の首大仏」です。
なんだかホラー映画や怪談にでも出てきそうなお名前ですが、こちらは壊れて首だけの姿になってしまったのではなく、「デカいのを作ろうと思ったら、お金が足りなかった。仕方がないので首だけ祀ることにした」(超訳)という経緯だそうで。なぜ作る前に気付かなかったんですかね(´・ω・`)
首だけで3メートルあるそうなので、ほぼ同じ高さの坐像を作ることもできたのではないかと思うのですが……。
元々大福寺という別のお寺にあったのですが、そのお寺が安政の大地震で全壊ののち廃寺になってしまったため、無量光寺に移されたとのことです。

無量光寺の首大仏/Wikipediaより引用

こちらも「首から上にご利益がある」とされ、やはり受験生がよく参拝しに来るそうで。その理屈で行くと、脳や心の病気にもご利益あるんでしょうか。

まあ、そもそも仏様ですから、現世での姿形にはこだわらず、信ずる者にご利益を授けてくださるのかもしれません。

京の方広寺(家康が鐘にケチつけたお寺)にも秀吉が作らせた大仏があったのですが、慶長伏見地震で壊れてしまったとき、秀吉が「自分の身すら守れない大仏とかナメてんのか!」(超訳)とブチ切れて矢を射掛けたといわれています。当時秀吉は60歳くらいですし、立場からしても自分で弓を引いたかどうかはアヤシイですけれども。
その後豊臣家がどうなったかを考えると……やっぱり仏像は大切にしたほうがよさそうです。
まあ、宗教や大きさにかかわらず、モノは大切にしないといけませんけどね。

長月 七紀・記

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参考:東大寺盧舎那仏像/Wikipedia 大仏/Wikipedia 上野大仏/Wikipedia 上野経済新聞 無量光寺の首大仏

 

 




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