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その日、歴史が動いた 欧州

ゲルニカ空爆とスペイン落日の歴史 パリにいたピカソはなぜこの悲劇を描くことができたか

更新日:

「史上初の○○」って、何となくカッコいい響きですよね。
しかし、よくよく考えてみれば「史上初」の全てが良いこととはかぎりません。悪いことだって、それが前例のないものであれば「史上初」なのですから。
本日は後者の意味の「史上初」をひとつご紹介しましょう。

1937年(昭和十二年)4月26日は、ピカソの絵で有名な「ゲルニカ空爆」が起きた日です。

あの絵があまりにもインパクトがあるので、歴史的事実が語られることは少ないような気がします。
そもそも誰が何のために空爆したのか、そこまでの経緯はどんなものだったのかをざっくり見るところから始めましょう。

tomorroweye12

【TOP画像】ピカソのゲルニカ/wikipediaより引用

 

大流行したインフルエンザは米国発なのに「スペインかぜ」

大航海時代の後、世界史の教科書からは綺麗さっぱり名前を消してしまうスペインですが、もちろん国の歴史は連綿と続いていました。
ナポレオンに「うちの兄さんにスペイン王になってもらうからよろしく^^」と見も知らぬ王様を押し付けられ、南米~北米西海岸まで進出したものの、アメリカ合衆国が独立した後は戦争に敗北、北米の植民地を手放するなど、かつての栄光はどこへやらという感じだったので、本人たちとしてもあまり話題にはしたくないのかもしれません。

第一次世界大戦では、国王アルフォンソ13世の母がオーストリア人・王妃がイギリス人ということから中立を守りながらも、そのためにインフルエンザの大流行がスペイン発とされ、「スペインかぜ」という不名誉な名前で一時話題になっています。

同盟国(ドイツ・オーストリアなど)や連合国(フランス・イギリス・ロシアなど)では情報統制が敷かれていたため、「凶悪な型のインフルエンザが流行っている」なんてことは公表できませんでしたからね。
実際には、スペインかぜといわれた型のインフルエンザはアメリカで発生したものです。が、それがわかった後も通称は変わっていません(スペインかぜについての詳細→米国発だったのに、なぜスペイン風邪? まり先生の歴史診察室♪)。
スペイン人はもっと怒ってもいい。

スペインかぜ患者でごった返すアメリカの野戦病院/wikipediaより引用

 

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左派と右派に分かれて内戦 フランコが台頭する

受難はまだまだ続きます。

スペインが持っていたアフリカの植民地で反乱が起きたり、国内の各地域(特に北西部地中海側のカタルーニャ・北部のバスクなど)で独立運動が巻き起こったりと国内が混乱する中、アルフォンソ13世は何とか政治改革によって国内をまとめようとしましたが、あれこれやった末に失敗。
お偉いさんも国王も亡命してしまい、王政が廃止されてスペインは共和制となりました。

地方への自治権や女性参政権を認めた先進的な憲法が作られたものの、国王という支え兼歯止め役を失って、国内は真っ二つに割れてしまうことになります。
ものすごく簡単にいえば左派と右派です。

左派は共和国派ともいい、代表者はマヌエル・アサーニャという政治家でした。こちらにはソ連とメキシコが味方しています。
右派は反乱軍とされ、トップは後々嫌な意味で有名になる軍人のフランシスコ・フランコ。すでにファシズムが台頭していたドイツとイタリア、それからポルトガルがバックについています。
共産主義vsファシズムという、最悪の構図ですね。

夫人と映るフランコ/wikipediaより引用

 

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フランコにドイツが協力 そしてゲルニカは空爆された

フランコ達陸軍が共和国政府に対して起こしたクーデターから始まったこの内乱は、文字通りスペイン全土を戦場として3年弱続きました。
フランコは2・3日でスペイン全土を占領できると思っていたそうですが、いやいやそんな馬鹿な。
面積的にも兵力的にも拮抗し、一進一退の攻防が続きます。

既に第一次世界大戦で戦車や飛行機が実用化されていましたが、スペイン内戦ではこういった新しい兵器に、双方の過激な感情的対立が乗って、過剰といえるほど多用されました。その結果、スペインの国民は数十万単位で亡くなるか、国外へ脱出するかで激減してしまっています。

とりわけ大きな被害が出た攻撃のひとつが、ゲルニカ空爆でした。

ゲルニカは、スペイン北部のバスク地方にある町です。同地方にはイギリス資本の鉱山が点在しており、ここを制することはイギリスに経済的打撃を与えるという意味もありました。
フランコに協力していたドイツ軍は、それを理由としてバスク地方に空爆を始めたのです。

そして、1937年(昭和十二年)4月26日、近隣の農民が集まって市を開いていたこの日に、ドイツ軍は攻撃をかけました。
爆弾の投下、機銃掃射、焼夷弾の投下など。非軍事拠点に対しては過剰という単語でも生ぬるいほどのものでした。

そしてゲルニカは廃墟と化す/wikipediaより引用

 

犠牲者の数が諸説あるのは人々の流動が激しかったから

焼夷弾とは、中に非常に燃えやすい物質の入った爆弾のことです。一番わかりやすい例は火炎瓶でしょうか。もちろん、ゲルニカに落とされたのは桁違いの威力のものでした。
さらに、ゲルニカではこの時代のヨーロッパとしては珍しく、木材を使った家が多かったため、一層早く火が燃え広がってしまったといわれています。

ゲルニカの駅長は同じくバスク地方に所属する町・ビルバオに救援を求めましたが、攻撃側に対抗することはできないまま。
結果、多くの人々が苦しみ抜いた上に亡くなり、ゲルニカの町も文字通りの廃墟と化してしまったのです。

犠牲者の数については諸説あり、100人~1600人とかなりの差があります。当時のゲルニカの人口もはっきりわかっていないそうですし、上記の通りこの日はゲルニカ以外の村から多くの人が集まっていたため、諸説入り乱れているのでしょう。

また、これ以前に攻撃を受けた町からゲルニカに逃げ込んでいた人もいるとされています。数の問題ではありませんが、正確な犠牲者数を断定するのはかなり難しそうです。

こうしてゲルニカ空爆は、世界史上初の無差別爆撃、かつ焼夷弾が使用された空襲として歴史に刻まれました。

 

戦場カメラマンにより全世界へ惨状が配信された

スペイン国内では、ゲルニカ空爆を含めた右派と協力者の攻撃について言論統制が敷かれていたため、この事実は数十年間過少に伝えられていたそうです。
ただし、外国メディアによってより詳細な報道がされたため、スペイン以外の国の人のほうが早く事実を知ることに。パブロ・ピカソの「ゲルニカ」も、当時ピカソがパリにいたからこそ詳細を知り、描くことができたものです。

ピカソ自身はゲルニカやバスク地方の出身ではありませんでしたが、共和国側を支持していたため、反乱軍の友軍が起こした惨劇を見過ごせなかったのでしょう。彼の故郷・マラガも反乱軍によって空爆を受けていました。

外国の人々がスペイン内戦について最も注目したのは、ゲルニカ空爆を始め、非戦闘員が多く殺害されたことでした。既に写真が広まっていましたので、ロバート・キャパなど、多くの戦場カメラマンやジャーナリストが生々しく報じています。
しかし、これがその後タブーとならず、むしろ活発化していったのは残念な話です。
各国の指導者や軍部は、廃墟となったゲルニカの写真を見て、何も思わなかったのでしょうかね……。

むしろ、内戦の一端であったフランコのほうが、これらの爆撃から一番学んでいたかもしれません。
先述の通り、スペイン内戦は国内に多くの犠牲と荒廃をもたらしました。それを理由に、フランコは第2次世界大戦には参戦していないのです。
同じファシストとしてドイツやイタリアなどに一時協力はしましたが、あくまで戦闘には参加しませんでした。また、連合国が有利になると、再び中立に戻っています。
もちろん、民衆を哀れんでではなく損得勘定による選択でしょうが、そこはフランコの判断が正しかったのではないでしょうか。

戦闘員だろうと非戦闘員だろうと、人死にが出るのは御免ですが。争いたいなら各国の首脳だけでタイマン勝負して決めてほしいものです。

長月 七紀・記

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参考:ゲルニカ爆撃/wikipedia スペイン内戦/wikipedia

 




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