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古代日本の地方を著した「風土記」 元明天皇が編纂させた経緯と目的は?

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最近は電子書籍も広まってきましたが、やはり古い時代のことを知るには紙の本が大きな手がかりになります。
先の見える為政者であれば、「このことを後世に伝えなくては!」と考え、ありとあらゆる記録をつけるのも大切な仕事でした。そうした記録が本にまとまり、後世の学問に役立ち、また新しい書物が生まれ……と続いていくわけです。
本日はそのひとつ、古代に作られ、日本史だけでなくもっと身近なところにも影響を与えた、あの本のお話です。

和銅六年(713年)5月2日は、元明天皇が諸国に風土記の編纂を命じたとされる日です。

「古事記」「日本書紀」に続いて古代史でお馴染みの書物ではありますが、その中身は……というと、案外習いませんよね。
まずは、どのような経緯と目的で作られたものなのかというところから見ていきましょう。

【TOP画像】出雲国風土記/島根県立図書館HPより引用

 

古事記の完成も元明天皇の治世だった

風土記の編纂を命じた元明天皇は、日本で四人目の女帝です。
天智天皇の娘であり、これまた女帝として有名な持統天皇とは、父方で見れば異母姉・母方ではいとこという複雑な血縁関係にありました。

女帝には元々「中継ぎ」という意味合いが強いですが、元明天皇は息子の文武天皇や叔父の天武天皇が遺した事業を多く行っています。古事記の完成も、元明天皇の時代のことです。
風土記の作成も、そういった継承のひとつだったと思われます。
この時点では「解(げ)」と呼ばれていたようですが、例によって今日でも通じる「風土記」で統一しますね。

なお「解」とは、下級の役人から上役に出される公文書のことですから、作成当初は「任地の諸々についてまとめた書類」程度の意味合いだったのでしょう。
「風土」とは、土地ごとの気候や特徴のことを表します。もしかすると、さまざまな「解」の中から、風土についてより詳しく書いてあるものを抜き出して編纂したのが「風土記」なのかもしれませんね。
既にわかっていることを、改めて調べ直すというのも考えにくいですし、よほど慎重な人ならともかく、早く出さないと上司に怒られるでしょうし。

 

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地名・特産品・農地の土壌・地名の起源・土地の伝承

風土記には、五つの必須事項がありました。
それぞれの地名・特産品・農業に向く土壌の有無・地名の起源・土地の伝承です。
特産品と土壌については税の取り立てに使う情報であり、地名関連と伝承については歴史を調べて伝えるという意味合いでしょうか。

土地の伝承については、今日我々が知っているような昔話の元ネタと思われるものもいくつかみられます。初出が風土記で、その後の書物で変遷していくというケースが多いようですね。

代表例は「浦島太郎」の元ネタと思われる、丹後国(現・京都府北部)風土記に載っている話です。
亀を助けるのではなく、「亀を釣り上げたら美女に変身したので結婚した」(超略)というよくわからん話になっています。これだと生き物を大切にするどころか、結婚したいばかりに亀を乱獲する人が出てきそうですね。
ちなみにこの話では、浦島太郎にあたる島子という男もイケメンだったことになっています。古代から「ただしイケメンに限る」の法則が伝わってるとか世知辛い。
それともこれはネットで言うところの「釣り針」なんでしょうか。くそっやられた。

……古代の元号には「珍しい亀が見つかったので記念に改元しました」というものがままあります。が、まさか「お嫁さんを釣り上げようとして皆が皆亀を釣り、その結果珍しい亀が頻繁に見つかるようになった」なんてことはないですよね……。

まあ悪ふざけはそのへんにしておきまして、真面目に風土記の話を続けましょう。

 

当時のカタチで残っているのは出雲だけ

もともとが各地の報告書ですから、風土記も当初は全ての国について作られました。

が、当時の形そのままで残っているといわれているのは、「出雲国風土記」だけとされています。流石というかなんというか、古事記や日本書紀に載っていないような神話がたくさん記載されているのが最大の特徴で、中央政府と地方の軋轢や溝を感じることができますね。
そのまま残っているといっても奈良時代の現物ではなく、最古の写本は戦国のリアルチート・細川幽斎が写させたものとされています。ホントどこにでも名前が出てきますねこの人。

その他に「割と残っているもの」としては播磨・肥前・常陸・豊後の風土記があります。順に現在の地名でいうと、だいたい兵庫県(播磨)・佐賀&長崎県(肥前)・茨城県(日立)・大分県(豊後)です。

西国が多いのは古代のこととして何となく理解できる中、茨城県が異彩を放っていますね。
これは、常陸国が親王の任地とされていたからだと思われます。

実際に親王が任じられるようになるのは、風土記編纂よりもずっと後の話なのですけれども、当時の役人たちが「親王様の領地のことがはっきりわからないのはマズイ」と考えたのでしょう。実際に親王が東国まで行くことはなく、現地の長官が政治を行っていましたし。

 

播磨・肥前・常陸・豊後の四カ国も残ってはいるが……

同じ親王任国だった上総(現・千葉県)や上野(現・群馬県)の風土記が見つからないのは……現地の役人の怠慢、もしくはその後の歴史の中で散逸してしまって、文字通り跡形も残らなかったのでしょうか。
常陸の場合は、後々水戸徳川家が入って尊皇を掲げますから、それによってさらに風土記の扱いが良くなったのかもしれません。

播磨・肥前・常陸・豊後四カ国の風土記は、他のものと比べれば多く残っているものの、内容からして奈良時代に完成した原本ではなく、省略版か完成前のものだとされています。
良い状態のものでそれですから、他の国のものは……推して知るべしというところです。手がかりすら見つかっていない国のものもあります。

まあ、日本全体が災害の多い土地ですし、おそらく紙に書いているでしょうから、破損しやすいのは仕方ないところですね……。紙に墨で書くのが一番保存性はいいんですけども、燃えたり水でボロボロになったらおしまいですし。

まあ、その、何だ……本に限らず物は大事にしましょうね、ということで。

長月 七紀・記

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参考:風土記/wikipedia 出雲国風土記/wikipedia 播磨国風土記/wikipedia 元明天皇/wikipedia

 



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