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織田家 武田・上杉家 その日、歴史が動いた

近衛前久は信長や謙信とマブダチのスーパー関白!「本能寺の変」後に詠んだ、悲しき南無阿弥陀仏

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日本史で「生き残りをかけた戦い」というと武家の話であることがほとんどですが、公家には公家の戦いがあります。
いかに名誉を保ちつつ、武力を使わず(使えず)に家を守るか、という熾烈な戦いです。
本日はその中でも、「身を粉にした」という表現が似合いそうな、とある公家の人のお話です。

慶長十七年(元和三年)5月8日は、公家の近衛前久(さきひさ)が亡くなった日です。

戦国時代の公家としてはちょくちょく名前が出てくるので、割と知名度が高いでしょうか。以前お話した近衛信尹のトーチャンでもあります。

 

上杉謙信の進出を助けるため関東へ

前久は、藤原北家(藤原道長の家)の流れをくむ近衛家の長男として生まれました。
そのため、18歳で左大臣・関白・藤氏長者(藤原氏のリーダー)に、19歳で従一位になるという超速出世をしています。

しかし、彼の面白いところは出世のスピードではありません。関白という臣下でトップの位置にありながら、自ら北陸や関東にまで行っているなどのフットワークの軽さと、足利将軍から名前にもらった「晴」の字をあっさり捨てている度胸の良さです。
朝廷や家臣の胃痛が思いやられますが、こういう人は面白いですよね。

北陸や関東に出向いたのは、上杉謙信の関東進出を助けるためでした。そうすることで東国が定まり、その後に都の守護をしてもらうつもりだったのでしょう。
謙信との個人的な親交も深め、謙信が地元に帰っている間には関東の前線に残るなど、公家らしからぬほどの度胸を見せています。そういうところが武家にも信頼されたのかもしれません。
もしそれが策略や演技だったら、ソレはソレで相当な度胸ですけど、ともかく前久はこの頃、花押を武家様式に変えているので、素で勝負に出たものと思われます。

しかし、謙信の関東平定はなかなか進まず、さしもの前久も「ここにずっといてもいいものだろうか」と考え始めました。

上杉謙信640・富永商太

 

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足利義輝が殺され、その後、義昭を連れてきたのが……

前久は思い切って京に戻りました。
それを出迎えたのがボンバーマンこと松永久秀と愉快な仲間たちです。ちょうどその頃に「永禄の変(足利義輝殺害事件)」を起こしていたので、「将軍コロしちゃったからオレたちをかばってください。ついでに新しい足利将軍も選ばせてもらいますよ」(超訳)と言ってきたのです。
時勢上、逆らうチカラもなく、前久は松永らの味方につきました。

それから三年後、今度は織田信長が義輝の弟・義昭を連れて京都へやってきます。ご存知、15代将軍にするためです。
義昭は「前久は俺たちの従兄弟なのに松永についた。兄上殺害に一枚噛んでいるに違いない!!」(意訳)と考え、前久を朝廷から追い出します。
関白の座も奪われてしまったため、前久は仕方なく、縁戚の赤井直正という大名や、本願寺に身を寄せました。

しかし、前久は信長と対立するつもりはありませんでした。
義昭と信長の仲が険悪になり、信長を包囲する動きが見えてきた頃、本願寺を出ています。この辺はさすがの慧眼といったところでしょうか。

信長とは歳も近く、共に鷹狩りを趣味としていたことで公私両面で親しくなることができました。互いの獲物を自慢しあったりもしていたそうで。何それかわいい。

©富永商太織田信長

 

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「明智とつるんでたのでは?」と秀吉に嫌疑をかけられる

かくして信長の信頼を得た前久は、九州方面の大名や本願寺との連絡・折衝役を任されます。特に本願寺との調停を見事に取りまとめたことで、信長からは「天下が定まったら近衛家に一国あげるね!」(超訳)とまで喜ばれたとか。

その後も甲州征伐に同行したりと、織田家と近衛家の仲は長く続くかに見えました。
が、本能寺の変によってそれはあえなく潰えます。親友・朋友・戦友であった信長を突然失ってよほど悲嘆したものか、前久は髪を落として僧になってしまいました。

なのに、秀吉や織田信孝からは「近衛邸から明智軍が発砲したらしいですね^^」(※イメージです)とあらぬ疑いをかけられたのですから、つくづくこの世が嫌になったでしょうね。

自分と家を守るため、その後は家康に近づいて庇護を求めています。このときもわざわざ浜松まで行っているので、フットワークの軽さは変わっていなかったようです。

小牧・長久手の戦いでは秀吉と家康の和議が成るまで、戦々恐々としていたことでしょう。政治上の駆け引きは得意でも、戦の経過までは先読みできないでしょうし。

©富永商太豊臣秀吉4

 

前久から信長への追悼歌

その後は静かに暮らしていたようですが、ひとつ目立つ動きとして、信長の七回忌があります。信長を悼んで「なむあみだぶ(ふ)」の一字ずつで始まる六首の歌を詠んでいるのです。
ちょっと長くなりますが、載せておきましょう。適宜漢字などを読みやすくしてあります。

【前久から信長への追悼歌】
(な)
嘆きても 名残つきせぬ 涙かな なお慕わるる 亡きが面影

(む)
睦まじき 昔の人や 向かうらむ むなしき空の むらさきの雲

(あ)
あだし世の 哀れ思えば 明け暮れに 雨か涙か あまる衣手

(み)
見てもなお みまくほしきは みのこして 峰に隠るる 短夜の月

(た)
尋ねても 魂(たま)のありかは 玉ゆらも たもとの露に 誰か宿さむ

(ふ)
更くる夜の 臥所あれつつ 吹く風に 再び見えぬ ふるあとの夢

五・七・五・七・七が全て始めの一文字と同じ字で始まる、技巧的になかなかにスゴイ歌です。
しかしそれ以上に、これらの歌からは親しい友の死を嘆く、前久の素直な心情が詠まれている気がします(´;ω;`)ブワッ

前久黒幕説派の方からすると、これらの歌もカムフラージュに見えそうですが……。
でも、それならわざわざ六首も詠まず、一首だけ詠んで「信長の死を悼んで」とでも詞書(和歌が詠まれた状況などに関する注釈)をつけておけばいい話ですよね。
それに、信長の七回忌の頃には、とっくのとうに秀吉の天下になっています。その段階で、六首も読むほど気合を入れて、信長を悼む”ふり”をする必要があるのでしょうか。
その間に秀吉を養子にしていますから、天下人の(名目上の)後ろ盾になったことで、保身は充分だったでしょうし。

 

弘前藩(津軽藩)の姫が亡くなったときにも六首を詠む

となると、やはり前久は純粋に友人の死を悼んだのではないか……という気がします。文字通りあっちこっちを駆けまわった前久には、他に友情を温めた人もいなかったでしょうし。
ワタクシは個人的に光秀の突発ヒステリー説、次点として秀吉共犯説を推しているので、そう思うのかもしれませんけれども。

また、江戸時代に入ってからのことですが、親交のあった津軽家の姫が亡くなった際に、同じく「なむあみだぶ」で始まる六首を詠んだとされています。こちらについては詳細がはっきりわからないのですが、もしこれも事実だとすれば、前久はかなり情の濃い人だったのでしょう。

もう少し詳しいことがわかる史料が出てくればいいのですけれども……まあ、本能寺の謎が解けることを祈りましょうか。

長月 七紀・記

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参考:近衛前久/Wikipedia 近衛龍山筆津軽富姫弔歌/弘前市

 




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