人質時代の徳川家康はどんな暮らしぶり? 織田と今川に挟まれ、祖母に慈しまれた忍耐のティーンエイジ

歴史上の人物というと、功績を先に知っているだけに、なかなか一人の人間として見ることができないですよね。
しかし、現代に生きる我々と同じく、苦労もすれば趣味もあり、毎日寝て起きて食事をしていたわけです。
そういうところにまで目を向けると、身近に感じて歴史が面白くなるのではないでしょうか。
本日はその一例……になりそうな、ある偉大な人物の若かりし頃のお話です。

永禄三年(1560年)5月23日は、徳川家康(当時は松平元康)が人質の立場から脱し、本拠岡崎へ帰った日です。

家康というと長じてからの戦ぶりだったり、秀吉との確執(?)だったり、関が原・幕府・大坂の役に関するアレコレのイメージが強いですが、青少年期のエピソードもなかなか興味深いものです。本日は家康が織田家や今川家の人質になっていた、若き日のことを中心に見ていきましょう。
この頃は度々名前が変わっているのですが、どの時点でも「家康」で統一しますね。

【TOPイラスト/富永商太】

 

父・広忠は今川に庇護されていて

まずは、当時の家康の立ち位置から。
家康が生まれた当時、松平家は西に織田家・東に今川家という実力者の板挟みになっていました。
家康の父・広忠は今川に庇護されていたため、正室の於大の方(家康生母)の実家・水野家が織田家についた際、彼女を離縁しているほどです。

縁続きで行動を起こすことが珍しくない時代ですから、今川に「奥さんの実家が織田につくってことは、お前もそうする気? ふーん^^^^」(※イメージです)と疑われてから身の潔白を示そうとしても、手遅れになってしまいます。
これが、家康が生まれて次の年のことでした。

もちろん、家康は母の顔を覚えていなかったでしょう。後々文通はできたそうなので、慕う気持ちは強く持っていたでしょうけれども。

それから三年後、幼い家康は人質として今川家に行くことになります。が、駿府へ行く途中に立ち寄った城の主が織田家に寝返っていたため、真逆の方向にある織田家へ送られてしまいました。
8歳のときまで織田家にいたといわれていますが、織田家の人々と知り合う機会があったかどうかはわかりません。小説などでは、ここで「うつけ者全開中の信長が、家康を川に放り込んだ」なんてエピソードがありますね。
後々家康は水泳の達人になっていますが、まさかこれがきっかけだなんてことは……ないですよね……。

 

信長・庶兄(修広)との人質好感で今度こそ今川へ

さて、その後今川と織田の構図が少しだけ変わります。
今川義元が織田家に「この前人質にとったお宅の息子さんと、ウチに来るはずだった松平の坊っちゃんを交換しない?」と言ってきたのです。
この「織田家の息子さん」というのは、信長の庶兄・信広でした。ある城に入って今川家と戦った際、負けて人質になっていたので、取引に使われたのです。
彼の生年は不明なのですけれども、この頃までに城一つ任されるくらいですから、信長より10歳程度上かと思われます。

ものすごく単純に言えば、義元は「一城の主と、年端もいかない子供を交換しよう」と言ってきたわけです。
このことから、義元にとって家康や松平家は「傘下でうまく働いてもらう家」だったと思われます。まあ、子供のうちに従順になるような教育をしておけば、後が楽ですからね。松平家の領地は、義元からすれば上洛の道筋でもありますし。
ついでに言うと、この間に家康のトーチャンは二十代半ばの若さで亡くなってしまっていました。記録によって病死だったり、「一揆勢に殺された」としていたりするので、何やら黒いかほりがしますね。

将来は幕府、そして江戸260年の平和を築くことになる家康も、この頃は無力な少年です。「一体これからどうなってしまうのだろう」と、心細く思ったことでしょう。

 

義元のもとで11年間 祖母の華陽院に育てられる

織田家が提案を受け入れたことで、家康は今川家の本拠・駿府へ移ることになりました。途中の岡崎には今川家からの代官が置かれていましたので、複雑な心境だったでしょうね。

ここから11年ほど、家康は義元の下で育つことになります。
「人質」というと現代では猿ぐつわ&手足を縛られて身動きできないような状態をイメージしますが、当時は臣従の証に差し出すものですから、そこまで悪い扱いではありませんでした。
特に義元の家康に対する扱いは、人質という事を考えるとだいぶいいほうです。むしろ、「ワシの傘下のみなしごを立派に育ててやるぞよ」といった雰囲気です。

これには、家康の母方の祖母・華陽院(けよういん)の影響もあったと思われます。

華陽院は家康の祖父・清康に死別した後、諸々の理由で何人かの豪族に再嫁したのですが、全員と死に別れてしまっていました。そして行き先に困った彼女は、地域一番の実力者である義元を頼り、身を寄せていたのです。つまり、期せずして祖母と孫が共に暮らせる機会を得ることができたことになります。

華陽院は孫が駿府にやってくることを知り、義元に「娘の代わりに孫の面倒を見てやりたいのですが」と申し出ました。
義元はこれを了承し、少年家康は祖母の教育を受けて育つことになります。
家康は華陽院から母の面影を探りながら、勉強に書道に行儀見習いに精を出したのでしょうね。

今川義元は手厚く保護していた(絵・富永商太)

今川義元は家康を手厚く保護していた(絵・富永商太)

 

13才で元服し、17才で「桶狭間の戦い」が勃発

家康はやがて義元にも認められ、13歳で元服した際には「元」の字をもらっています。
おそらく松平家の人々は「元服されたのだから、すぐにでも岡崎へ戻れるだろう」と期待していたでしょうが、なかなかその機会は訪れませんでした。

義元がどうするつもりでいたのかははっきりわかりません。自分の娘(築山殿)を嫁がせていることからして、もうしばらくは「縁戚の若大将」として直接手の届くところへ置いておこうとしたのでしょう。
すぐに帰して謀反を起こされても面倒ですし、長じてから何かの功績があれば、その褒美として改めて岡崎を与えるつもりだったのかもしれません。

そんなこんなで宙ぶらりんの状態が続いていた家康ですが、17歳のとき突然に、大きなチャンスがやって来ます。
義元に付き従って京都へ向かう途中、「義元が討たれた」と知らされたのです。この時代のハイライトのひとつ、桶狭間の戦いのときのことでした。

このとき家康は別働隊だったので桶狭間におらず、別の場所で休息していたところ。一時は「今川家の将」として義元の後を追うことも考えたようですが、松平家の菩提寺の住職に説得され、岡崎へ帰ることに決めます。

 

岡崎では三河武士が出迎え、1週間後に華陽院が逝去

岡崎へ帰ると、今川家の代官は逃げ帰っていました。
代わりに、懐かしい面々が家康を迎えます。十年以上の長きに渡り、主の留守を守ってきた三河武士たちです。

 

また、孫の帰還を見届けるかのように、華陽院はこの日から一週間後に世を去りました。安心したんでしょうねえ……(´;ω;`)ブワッ

ここから家康は、今川家の支配を脱するために戦い始めます。その手始めとして、「元」の字を捨て、「家康」と名乗るようになりました。

が、義元の息子・氏真の命までは取らなかったり、江戸時代に入ってからもたびたび会っていたりするので、少なくとも氏真に恨みはなかったのでしょうね。
この二人の少年時代のエピソードがあれば、家康が今川家でどんな扱いを受けていたかがわかりやすくなりそうなのですけれども。

こうして家康の長い長い人生における、忍耐の第一段階が終わりました。

まさかこの先、さらに数十年の忍耐が待っているとは思わなかったでしょうが……まあ、その結果が世界史上でもまれに見る泰平の世なのですから、そこは納得してもらうということで。

長月 七紀・記

参考:徳川家康/wikipedia 家康公を学ぶ/静岡市

 








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