武田信玄の娘にして北条氏政の妻・黄梅院 同盟破棄により起きた悲劇の離別とは?

 

日本史においては、案外女性の生き方は多種多様かもしれません。
特に武家の場合、「政略結婚だったが仲睦まじい夫婦になった」とか、「夫顔負けの活躍をした」なんて例は多々あります。
しかし、そういう人だけでなく、まさに時代に翻弄された人もいるわけで……。本日は最後の例にあてはまる、とある大名の姫のお話です。

永禄十二年(1569年)6月17日は、武田信玄の長女・黄梅院が亡くなった日です。

名前の読み方は「おうばい」か「こうばい」かはっきりしていないようなので、皆様お好きなほうでどうぞ。

この時代、信玄の娘という立場に生まれたとなるとそれだけで貧乏くじの予感がしますが、実際もまさにそんな生涯を送った人でした。
では、彼女の一生を見ていきましょう。

【TOPイラスト】富永商太

 

今川義元が信長に討たれ、三国のバランスが崩れる

黄梅院は、信玄とその正室・三条夫人の間に生まれた娘です。場合によっては、武田家臣の誰かに嫁いで、家を守り立てる道もあったでしょう。

しかし、当時の情勢から、信玄は長女を他国へ嫁がせることを決めます。そして、黄梅院は12歳で後北条氏の次代を担う、氏政に嫁ぐことになりました。

まさに政略結婚のテンプレな経緯で相模に輿入れした彼女でしたが、夫との仲は良好でした。
公家の姫である三条の方から生まれたのですから、生来の気品や身につけた教養など、夫から大切にされるような美点もたくさんあったのでしょうね。
後に後北条氏を継ぐ氏直をはじめ、子宝にもたくさん恵まれました。

しかし、大国をひっくるめたこの蜜月は長く続きませんでした。
当時、武田・後北条・今川の三家は同盟を結んでいたのですが、桶狭間の戦いで今川義元が斃れたことにより、三家の絶妙なパワーバランスが崩れてしまったのです。
信玄が駿河を攻めたところまではまぁいいとして(?)、義元の跡を継いだ氏真の正室が、後北条氏の姫だったということが話をこじれさせました。

その辺の話は以前しているので、詳細は省略しますね。詳しく知りたい方はこちらも併せてご覧ください→【関連記事】今川館の戦いで、やっぱり逃げるしかなかった今川氏真 嫁の実家・北条家に落ちのびる

ものすごく簡単に言うと「今川家臣が氏真を見放したため、氏真夫妻は着の身着のまま徒歩で逃げざるを得なかった」という感じです。

今川義元は手厚く保護していた(絵・富永商太)

桶狭間の戦いが勃発して今川義元が死亡。三国のバランスも崩壊してしまう(絵・富永商太)

 

なぜ信玄ほどの者が敵を増やすような真似を……

自分の娘が同盟相手にそんな目に遭わされて、いい気分になるわけがないですよね。
後北条氏は激おこムカ着火ファイヤー状態になり、甲相駿三国同盟はものの見事に瓦解してしまいました。

発端は信長と言えないこともないですけれども、信長からすればこの地域がドロドロしてくれたほうが有利ですしね。信玄ともあろう者が自ら敵を増やしてしまったのも信じがたいですし。
戦だけが戦略ではないという良い例かもしれません。

手切れとなれば、もう「敵」の娘を我が家にとどめておく理由もありません。そのため、黄梅院は甲斐へ送り返されることになりました。「堪忍分」というお金をつけてくれたので、舅の氏康としても、黄梅院個人に対してはあまり悪い印象はなかったのかもしれません。

堪忍分とは、客として身を寄せていた人や、家臣が討ち死にした場合に、遺族に与えられるものです。氏康はおそらく、前者の意味で黄梅院に堪忍分15貫文を与えたのでしょう。
まぁ、跡継ぎを産んでくれた上、息子とも仲良くやっていた人を別れさせなければならないのですから、良心があれば呵責を覚えるのは至極当然ですね。

 

氏康から黄梅院へ渡された餞別は15年分のお米代

15貫文といっても、現代人にとってはどのくらいの金額かピンとこないですよね。
戦国時代の貨幣価値は諸説ありますが、1貫=米一石という説があるので、わかりやすさ優先で試算してみましょう。

以前もこちらの記事(【関連記事】徳川四天王の一角・榊原康政 文武両道のデキる男は豊臣秀吉に「10万石の懸賞首」をかけられた)でも少しお話しましたが、「米一石=成人が一年に食べる米の量」です。

となると、黄梅院は十五人を一年、あるいは一人を十五年養えるだけの金額をもらって離婚した(させられた)ことになります。
現代でも離婚の際に子供の養育費の話が出ますが、この場合は「子供を育てるのに必要な費用のうち、食費分だけもらった」という感覚になるでしょうか。
まあ、黄梅院の場合は子供を連れて帰ることはできませんでしたが……。少なくとも、「蔑まれて叩き出されたわけではない」ということになるでしょうか。

甲斐に戻った後は世の無常を嘆いたものか、甲府にある大泉寺というお寺で出家したといわれています。
しかし、離縁から約7ヶ月後に27歳という若さで亡くなっていますので、もしかしたら離縁の前あたりから病みついていたのかもしれません。
そうだとしたら、瑕瑾がない上に病身の嫁を送り返さねばならないことになるわけで、氏康が堪忍分を与える気になるのもうなずける話です。

 

菩提寺は甲斐市にある早雲寺黄梅院

信玄は娘の菩提を丁寧に弔いましたけれども、そもそも娘を思いやる気持ちがあるなら、もう少し外交をうまくやれとツッコミたいところですね。
「人は石垣」と思うのであれば、我が子もその一員であるという考えがどうして浮かばないのか、個人的には不思議でなりません。

黄梅院の菩提寺は、現・甲斐市に建てられ今は当時の本尊であったとされる子安地蔵だけが近くの竜蔵院に安置されております。黄梅院は京都にも同名のお寺があるので、間違えないとは思いますがご注意を。

また、妻を深く思っていたのでしょう。後に武田と和解した氏政も、後北条氏の菩提寺である早雲寺内に黄梅院(現存せず)を建立し、彼女を弔っていたと伝わっております。

箱根町にある早雲寺/wikipediaより引用

大河ドラマ真田丸では高嶋政伸さんが演じられ、どことなく性格に偏りのある人物像として描かれておりますが、実際は妻を愛する一人の武将としての一面が垣間見えるところですね。まぁ、主役ではないので、そこまで描かれることもないのでしょうが……。

なお、完全に余談になりますけれども、毛利両川の一人・小早川隆景の戒名も「黄梅院」です。
この時代、黄色い梅=完熟した梅に何か特別な意味があったんですかね。そのものズバリな名前の「黄梅」という植物もありますが、日本に入ってきたのは江戸時代に入ってからなので、おそらく彼らの戒名やお寺の名前の由来ではないと思われますし。
偶然の一致だとしたら、それはそれですごいですけれども。

梅は熟すと黄色くなりますから、隆景はともかく、若くして無念のうちに亡くなったであろう黄梅院に名付けるのは少々酷な気もしますが……(´・ω・`)

もしも生まれ変わりがあるのなら、来世こそ幸せになっていてほしいものです。

長月 七紀・記

参考:黄梅院 (北条氏政正室)/wikipedia 明日は何の日?徒然日記 早雲寺/wikipedia 黄梅院_(京都市)/wikipedia 小早川隆景/wikipedia 黄梅院について/甲斐市

 

【関連記事】

黄梅院さんと北条氏政、そして父親・北条氏康さんの一幕をマンガで記したのがコチラ!

◆武田・今川・北条の同盟崩れ、モブ氏政は泣き崩れ 氏真は愛妻と一緒に逃避行 【戦国boogie-woogie】

◆北条氏政はなぜ強気で秀吉に抵抗し続けたのか?

 

 


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