エジソンを唸らせた日本人・御木本幸吉 かくして真珠のミキモトは始まった

 

好む好まざるにかかわらず、特定のものを身につけなければならないときってありますよね。

男性の営業職であればネクタイは必須アイテムですし、女性が冠婚葬祭の場に出るときには、スカートをはいていないとほぼ確実にスタッフと勘違いされてしまいます。
本日は、特に女性にとってフォーマルな場のお供になる、とあるモノが広まったきっかけのお話です。

明治二十六年(1893年)7月11日は、御木本幸吉が真珠の養殖に成功した日です。

彼は真珠をはじめとした宝飾品を扱う“ミキモト”の創業者であり、同社の設立に大きく関わるできごとでした。しかし、この日を迎えるまでには、御木本の多大な苦労と努力があったのです。

アコヤガイに核を挿入する御木本幸吉/wikipediaより引用

【TOP画像】真珠/wikipediaより引用

 

祖父や父から受け継いだ実業家の血

御木本の実家は、三重県鳥羽市でうどんの製造・販売業を営んでいました。
しかし、祖父の代からいろいろな工夫をして、本業以外のことも取り組んでいたそうです。

お祖父さんは薪・炭・青物など、どこの家庭でも必要なものの販売をして財を成したとか。また、お父さんも創意工夫が好きな人だったようで、粉ひき臼の改良をして県から賞金をもらったこともあるほどでした。血筋ってやっぱりあるんですね。

そんな家族に囲まれながら、御木本は祖父や近所の元士族たちから勉強を教えてもらっていたそうです。

廃刀令その他諸々によって苦労していた元士族を間近に見ていたからか、御木本はとても現実的な考え方をする少年になっていきました。14歳の頃には祖父と同じように青物の行商を始めていますし、芸を身に着けてイギリス人に披露し、軍艦に野菜や卵を売り込んだ……なんて話が伝わっています。
その後も、米穀商をやったり、中国向けの商品として海産物に目をつけたりと、まさに「機を見るに敏」という感じで手を広げていきました。
地元三重ではさまざまな組合の長なども務め、名士として知られるようになります。

 

邪馬台国の時代から良質な真珠が知られていた

一方その頃、日本では、輸出品として、海外から高く評価されていたものがありました。

天然真珠です。

実は日本では、邪馬台国の時代から良質の真珠が採れる場所でした。大航海時代にはヨーロッパまでその質の高さが伝わっていたといわれています。
明治時代の日本~ヨーロッパはそれまでと比べて格段に行き来がしやすくなりましたから、「これで憧れの日本産真珠が手に入る!!」と思ったヨーロッパ人も多かったことでしょう。一時はダイヤモンドより高値がついたとか、つかなかったとか。

しかし、天然のものをガンガン採っていたら、いずれ枯渇するのは当たり前のこと。19~20世紀中に、どれほどの動植物が人間の欲で絶滅したことでしょう。幸いといっていいのかどうかビミョーですが、日本産真珠の場合、比較的早い頃から「このままでは真珠を作ってくれるアコヤ貝が絶滅してしまう。なんとかしなければ!」という動きが出てきていました。

御木本もその一人で、大日本水産会という水産業者の組合創立に関わった「柳 楢悦(やなぎ ならよし)」に相談し、彼に指導を受けて、御木本はアコヤ貝の養殖にとりかかります。

アコヤ貝そのものには、さほど価値がありません。一応食用にはなるそうですが、あくまで欲しいのは真珠です。苦労したところでアコヤ貝自体は高く売れず、赤字になってしまいました。

そのため、御木本は「アコヤ貝の数を増やすのではなく、貝が効率良く真珠を作ってくれる方法を考えよう」と発想を変えます。頭がいい人じゃないと、こういう発想の変え方はできないですよね。

 

中国で「仏像真珠」と呼ばれる真珠の養殖が行われた

かくして東京帝国大学(現在の東大)の学者さんたちに教わりながら、御木本はアコヤ貝の研究を始めました。
そしてその過程で、中国で「仏像真珠」と呼ばれる真珠の養殖が行われたことを知ります。これは人口の珠を貝の中に入れ、真珠を作ってもらうというものでした。この方法はヨーロッパでも研究されており、当時の日本にも伝わっています。

「日本でこの方法をやれば、きっと良質の真珠ができるに違いない!」

そう確信した御木本は、早速実行のための準備を始めました。

土地の確保はもちろん、貝にどんなものを入れるか、貝が真珠を作れるような環境を作るためにはどうしたらいいか、など。課題は山積みです。海の話なのに山積みとはこれいかに……。

政府のほうでも真珠の養殖に取り組んでいたので、御木本は政府の実験場に見学に行ったり、貝を提供したりと協力しあって事を進めていきます。
また、親友の焼き物商人だった川村又助という人が、快く真珠の核となるものを作ってくれたことも幸運でした。

 

渋沢栄一を経てエジソンに紹介 会見まで行われた

そして実験開始から三年後の7月11日。
ついに、御木本の貝から真珠が発見されました。それこそ珠のような嬉し涙を流したことでしょう。

更に三年後、特許を取得したことで、御木本への協力者が飛躍的に増えていきます。主に弟たちでしたが、この時点では既に亡くなっていた御木本の妻の家からは、実兄も参加してくれました。
養殖成功および特許取得によって御木本は他の事業から手を引き、真珠の養殖だけに集中していきます。

その実績と名声は国内はもちろん、国外にも知られるようになります。中でも大きかったのは、渋沢栄一(過去記事:渋沢栄一 日本史上最高の実業家は企業を育て公益も重視したノブレス・オブリージュな生き方)によってトーマス・エジソンへ紹介され、会見までしたことです。

エジソンは「真珠の養殖成功は驚くべき発明だ!」と絶賛したそうで、これに対し御木本は「あなたは巨星のような存在だが、私は多くの発明家の一人にすぎない」と答えたとか。実に謙虚ですね。
だからこそ、多くの人が御木本の事業に協力してくれたのでしょう。

 

真珠王と呼ばれても地に足ついた暮らしを続け

大正時代の中頃には良質な真珠の大量生産が安定し、御木本の立場は安定しました。
ヨーロッパの宝石商の中には「そんな良い真珠が養殖できるわけがない! 詐欺師め!!」とイチャモンをつけてくる人もいましたが、めでたく裁判で勝っていますm9(^Д^)プギャー

しかし、御木本の成功が他の国に多大な悪影響を及ぼした点もありました。当時、天然真珠の輸出国が日本の他にもあったのです。
それはどこかといいますと、クウェートを始めとした中東の国々でした。

希少価値と、宝飾品としての価値をあわせ持つ真珠の輸出によって外貨を得ていたこれらの国は、日本の養殖真珠によって壊滅的な打撃を受けてしまいます。
たまたまこの頃に油田が発見されていたこと、技術の発展により石油の需要が世界的に増したことで、産業の転換程度で済みましたが……もしタイミングが数十年ずれていたら、中東事情は全く違ったものになっていたでしょうね。
幸い、他の諸々の理由によって現在の中東諸国は親日国が多いですけれども、冷や汗が流れるような話です。

御木本はその後も養殖真珠の供給と、日本産真珠の存在感を保つことに力を注ぎました。
そして今も「世界のミキモト」と呼ばれるほどの位置を保ち続けています。

しかし「真珠王」と呼ばれるようになってからも決して驕り高ぶるようなことはせず、自分はかなり質素な暮らしをしていたとか。

そのおかげか、戦後の昭和二十九年(1954年)まで長生きしています。享年96でまさに大往生。

戒名も「真寿院殿玉誉幸道無二大居士」と、真珠を連想させる文字がたくさん入っています。字面だけでもまぶしいですね。

やはり人間、地道な努力と謙虚な人柄こそが最終的に人生の実を結ばせるのでしょうか。

長月 七紀・記

参考:御木本幸吉/wikipedia 真珠/wikipedia

 


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