幕末明治貴族の出世頭・岩倉具視 キャラは奇抜なれどバランス感覚に優れた政治家だった!?

 

当たり前の話ではありますが、人それぞれ考え方は違います。
歴史を語る上で、これを踏まえて見ていくと、同じ出来事でも全く違う見方ができるのが面白いですよね。ときには真逆の印象になることもあります。
本日はとある人物にスポットを当てて、激動の時代を見ていきましょう。

明治十六年(1883年)7月25日は、岩倉具視に対して日本初の国葬が行われた日です。

誰もが知っている「維新十傑」の一人であり、その中では最後に亡くなった人でもあり、幕末~明治の初期の主要なできごとにはだいたい関わっている人でもあり……ということで、近代史では欠かせない人物ですね。

この時期はとにかく重要な出来事が多いので、長くなりますができるだけかっ飛ばして参りましょう。※これでもかっ飛ばしてます(´・ω・`)

【TOP画像】岩倉具視/wikipediaより引用

 

奇抜な性格で身分の低い貴族 されど、ただ者ではない

岩倉は、堀河康親(やすちか)という公家の次男として生まれました。
幼少時から公家らしからぬ言動で浮いていたそうで、本名で呼ばれるよりも、「岩吉」という少々小馬鹿にしたアダ名で呼ばれるほどだったそうです。

13歳のとき岩倉家へ養子入りしましたが、岩倉家は公家とはいえ、江戸時代にできた分家だったため、多くの大名と同じ程度の家格でした。つまり、公家の中では身分が低かったのです。

奇抜な性格・言動で身分が低い……となると、考えの足りない人であればあらぬ方向に行きかねません。
しかし、朝廷で儒学を教えていた伏原宣明(ふせはら のぶはる)が「こいつはただ者ではない」と見込んでくれたため、グレずに済みました。
いずれ具体例をご紹介する予定(は未定)ですが、公家の人がグレるとダイナミックすぎる行動に出ますからね。

また、ときの関白・鷹司政通に和歌の弟子にしてもらったことで、朝廷にパイプができました。
政通を通じて、岩倉は学習院の充実や身分にとらわれず実力主義の教育を訴えるなど、なかなか大胆なことをしています。
当時の公家は生まれで99%人生が決まるようなものでしたので、朝廷の会議にも特に身分の高い家の人しか参加できませんでした。岩倉はそれを打開したかったと思われます。
この時点では漠然としたものだったでしょうが、おそらくは今日の議会のように、もっと多くの人が政治に関する話し合いに参加できるようにするべきと考えていたのでしょうかね。

この頃は既に黒船がやってきており、岩倉も風のうわさでアメリカのやり口などは聞いていたのかもしれません。
政通は即答は避けたものの、大筋には同意してくれました。

 

公家では日米の条約に絶対反対!

それから五年後、老中の堀田正睦が「アメリカと通商条約を結んでもいいでしょうか」という、お伺いを立てに京へやってきました。

このときの関白だった九条尚忠(ひさただ・後の貞明皇后のジーちゃん)は割と頭が柔らかい人で、孝明天皇に「勅許をお出しになって、異国とも付き合いをするべきです」という意見でしたが、岩倉を含むほとんどの公家はこれに大反対。88人もの堂上公家が抗議をし、「廷臣八十八卿列参事件」と呼ばれるまでになりました。
さらに、地下家(じげけ)97人による反対の意見書も出されています。

堂上公家は、天皇の住まいである清涼殿の殿上の間に入ることが許されている家のことです。大雑把に言えば、「公家の中でも特にエラい人たち」です。
地下家はそこに上がれない身分の公家をさします。

そんなわけで、このとき関白以外の公家は上から下まで「異国とオツキアイだなんて絶対反対!!!」という空気になっていました。
孝明天皇も条約締結には反対だったので、これ以降条約に対する勅許を出さない方針を固めてしまいます。
まあ、当時の人からすれば「髪の色も眼の色も違うよくわからん民族と互いに行き来するなんて恐ろしい。後にどんな災いが起きるかわからない」というところでしょうから、もっともではあります。

孝明天皇/wikipediaより引用

 

幕府は潰すのではなく上手に使って国防を

この騒動から間もなく、岩倉は孝明天皇に意見書を出しました。だいたいこんな感じです。

・あっちこっちの港を開くのは危険だが、一ヶ所だけ港を開いて付き合うのならいいのではないか
・ただし日本国内で異人が移動することと、キリスト教の布教は禁ずるべき
・向こうが何を考えているのか知るために、欧米各国に使節を派遣してはどうか
・徳川家を潰すのではなく、国を守る仕事をさせましょう

前半の二つはともかく、後半二つはさすがの慧眼というところでしょうか。そのまま現実にはなりませんでしたが。

朝廷が許さなかったにもかかわらず、幕府はアメリカの威勢に負けて、独断で日米修好通商条約を結んでしまいました。
孝明天皇は激怒し、水戸藩などへ戊午の密勅で「幕府がこっちのいうこと聞かないからヤキ入れてこい!」(超訳)と命じます。
これが安政の大獄に繋がり、さらには幕府と朝廷の間の溝が深まることにもなりました。

岩倉は上記の意見書の通り、幕府をうまく使って国を守るべきという考えだったので、朝廷vs幕府という構図はよろしくないと考えていました。
そして京都所司代や伏見奉行といった上方にいる武士と相談し、親しくなってなんとかしようとします。

 

条約破棄&攘夷で和宮降嫁を認める

その後、桜田門外の変で条約締結を決めた張本人・井伊が暗殺されると、事は一応落ち着き、「幕府と協調すべき」という意見の公家が少し優勢になりました。
そこで幕府側から「和宮様に将軍家茂へご降嫁いただけませんか」という“お願い”が届きます。実質的には火種ですが。

孝明天皇はまだ腹の虫が収まっていない上、「和宮は既に有栖川宮熾仁親王との婚約が整っている」として断りました。和宮本人も、「異国との条約を破棄するなら」という事実上不可能な返事をしています。
ここで岩倉は「幕府が下手に出てきたのは、人心が離れつつあるのを自覚しているからです。ここは一つ貸しを作り、“幕府は朝廷の下で政治を行っている”という形をもう一度世間にしらしめるべきではありませんか」と上申しました。
孝明天皇はこれを容れ、「ならば条約破棄と攘夷をするという条件付きで、和宮の降嫁を認めてやろう」と結論を出します。

かくして岩倉は孝明天皇からの勅書を預かって、和宮の東下に随行しています。
岩倉は老中とやりあうには家格が足りなかったので、勅使という役割を与えることでナメられないようにするという意味がありました。
この時点で相当の信頼を得ていたことがうかがえますね。

 

長州は公武周旋役 薩摩は京都守護

孝明天皇の狙い通り、岩倉は老中たちと対等にやりあうことができました。
岩倉は「昨今いろいろと不穏な噂が立っているが、陛下は、将軍が直筆で清書を出すなら勘弁してくださるとのことです」(超略)と主張し、その通りにさせ、その年のうちに京都へ戻っています。

この間、岩倉は母を亡くしたため参内を遠慮し、もう一人の勅使に家茂の誓書を持って行ってもらったのですが、孝明天皇はご満悦だったとか。

ただし、これですんなりとはいきません。

翌年、長州藩主・毛利慶親が「航海遠略策」という提案書を朝廷に提出しました。

「一度結んでしまった条約を破棄したり、闇雲に異人・異国を排除してはかえって攻めこまれてしまいます。いっそこちらから海外の技術を学びに行き、より高い技術力と皇室の威光を外に示すべきです」

そんな趣旨の文書であり、岩倉がかつて提案したよりももう少し積極的なものでした。
孝明天皇が一番嫌がったのは「異国によって日本の権威が損なわれる・荒らされること」だったので、この提案を高く評価し、長州へ「公武周旋役」という役を与えます。

これに対し薩摩は焦り、「このまま放置しておくと皇室がヤバいですよ!」と朝廷をあおって、京都守護の役目をもぎとりました。京都所司代涙目。

佐幕派と見られて「蟄居・辞官・出家」の憂き目に

長州vs薩摩の対立が顕在化していく中、岩倉は和宮降嫁に動いたことなどから佐幕派とみられていきます。
周りの公家も孝明天皇に「アイツ幕府のシンパですよ」(超訳)と言われてしまい、蟄居・辞官・出家を命じられてしまいます。
岩倉は他意がないことを示すため、大人しく政治から身を引きました。それでも不満に思った尊皇派の何人かは、流刑を主張したり、岩倉に闇討ちの果たし状を送りつけたりとゴネ続けるんですけどね。というか闇討ちって予告したら意味がない気がするんですが、愉快犯みたいなもんなんでしょうか。

この後、岩倉は五年ほど蟄居します。そしてその間、禁門の変や第二次長州征伐など、世情は大きく動いていきます。
更には孝明天皇も亡くなり、明治天皇が即位した際には大赦された者も複数おりましたが、岩倉らはまだまだ許されません。

赦免されたのは、実に大政奉還の後のこと。

政界に復帰した岩倉は、新政府の中で生き残りを狙う徳川慶喜と政争を繰り広げることになります。
慶喜は「幕府がなくなっても、今まで260年も実務から離れていた朝廷がうまくやれるわけはない。きっと徳川家や武家を頼ってくる」と考えていました。
岩倉はこれを見抜き、慶喜や徳川家に特権を持たせないような体制づくりを試みたのです。

しかし、鳥羽・伏見の戦いによって戊辰戦争が始まってしまうと、やられっぱなしでいるわけにはいきません。
岩倉は徳川家征伐に賛成し、新政府は仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)を総大将として錦旗を持たせて征討軍を起こします。

慶喜は進退窮まり、大坂から江戸へ逃げ帰りました。
これによって岩倉の発言力は大いに増し、「勤王の志がある者だけ残れ!」と啖呵を切ったとか。

 

京都で公家社会の改革も推し進めた

戊辰戦争が続く間、岩倉たちは新しい政府の枠組みを作り始めました。三条実美が徳川家始末のため新政府軍とともに江戸へ行っていたので、京での中心は岩倉になったのです。

宿直(とのい・公家が泊まりこみで朝廷に勤めること)や人数の大幅削減など、大胆な改革を実行。反発も大きかったようですが、岩倉は「御一新のためには幕府を倒すだけでなく、公家社会も変えなければいけない」と強く思っていたのでしょう。

また、明治天皇が江戸に行って一度京都に戻ってくるまでの間、岩倉も随行しています。その直後に病気を理由として岩倉は辞職してしまいましたが。
仕事辞めたがりすぎ……といいたいところですけれども、文字通り東奔西走の働きをしていた人ですから、体にガタが来ても無理はないですね。

その後は新政府に関する意見書を出していますが、事細かにあれこれ言うというよりは、全体としての枠組みをこうすべきだ、という点だけを書いています。本当に「意見」を書いたものという感じです。

 

木戸や大久保、伊藤と共に約2年 岩倉遣欧使節へ

体調が回復したのか、岩倉は廃藩置県の後に外務卿(後の外務大臣)に就任しました。
日米修好通商条約は1872年7月1日までは改正のための交渉もできないことになっていたので、そろそろ改正を頼みにいかなければならない時期。
しかし、法整備が整っていなければ「まだまだ未開国みたいだからダメwwwwww」と言われるのは目に見えていたので、西洋の文物を学ぶことが急務となります。

これが日本史上一・二を争う壮大なお使い・岩倉遣欧使節です。

岩倉を特命全権大使とし、副使には木戸孝允や大久保利通、伊藤博文というビッグネームが随行。1年10ヶ月の旅で、条約改正までは達成できませんでしたが、直接西洋を見たことで岩倉は日本を導く方向を決めたとされています。

中でも興味を惹かれ、日本にも必要になると考えたのが鉄道でした。

JR東日本の前身にあたる日本鉄道は、高島嘉右衛門(かえもん)という実業家に推され、岩倉らが創立したものです。

また、征韓論で政府が揺れた際には、反対を唱えています。
秀吉時代のこともあり、「朝鮮に攻め入れば清を敵に回すことになる」という理由からでした。この頃もう清は名ばかりの存在になっていますけれども、その代わりに欧米の出方をうかがわなければなりませんし。
そのせいで、征韓論の支持者から襲撃されるという事件が起きています。多少の怪我で済んだのは不幸中の幸いでした。何せ、岩倉を含めた「維新の十傑」は四人も暗殺されていますからね。

左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉、伊藤博文、大久保利通の5名/wikipediaより引用

 

岩倉の意向で伊藤博文が大日本帝国憲法を起草

間もなく、征韓論を強く推していた西郷隆盛が西南戦争で自害、この件はひとまず片付きました。

が、一難去ってまた一難。新たな問題が噴出します。
それまでの公家と武家をまとめて「華族」としたため、旧来の身分や家柄による衝突が絶えなかったのです。まあ、そう簡単に先祖代々・数百年の考え方を変えられませんよね。

岩倉は華族の統制を図るために工夫をこらしましたが、岩倉自身が公家出身であることから、武家出身の人々は「公家出身者ばかりヒイキしないでください!!」と猛反発。
最終的には議会に貴族院が作られ、華族の役割がはっきりしたことで決着をみます。血みどろにならなくてよかったよかった。

また、立憲について、当初の岩倉は反対でした。これは、自由民権運動が高まり、政府の中でも憲法の必要性が叫ばれるようになってから、岩倉も考えを改めたとされています。
大隈重信はイギリス、伊藤博文はドイツを手本とするべきともめていたのを、岩倉が伊藤に任せることにして決着させました。
伊藤はその後ベルリンやウィーンで学び、大日本帝国憲法の起草をすることになります。

 

明治天皇直々の見舞いまで持ちこたえ、7月20日に死去

何でもかんでも最後には岩倉が決めていたような感がありますが、実は明治十六年(1883年)頃から体調が悪化していたようです。

それでも仕事を続けていたからか、明治天皇の勅命で、当時東大医学部の教鞭を執っていたドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツ(過去記事:Youは日本をどう思った? お雇い外国人エルヴィン・フォン・ベルツ 日本の良いとこ悪いとこ)が診察したときには、「咽頭がんで切除は不可能」という結果が出てしまっています。
ちなみに、これが日本初のがん告知だったとか。岩倉は「そんなんで日本初になっても嬉しくない」と思ったでしょうね。

咽頭がんには上咽頭がんと下咽頭がんがあり、岩倉がどちらだったのかはっきりしないのですが……彼の死因について調べると、孝明天皇の暗殺疑惑のほうが出てきちゃうんですよね(´・ω・`) そこじゃないんだよ!
上咽頭がんは鼻の奥、下咽頭がんはのどぼとけの後ろ~食道のあたりにできるものなので、どんな症状だったかがわかればはっきりするのですけれども。胃がん説もあるようですし、上咽頭がんは日本人には少ないそうですから、下咽頭がんのほうが確率は高そうですかね。

現在、咽頭がんは手術もしくは放射線治療を行いますが、当時はまだX線すら発見されていません。
しかし、手術をしたとしても、声が出なくなる可能性が高いんだとか……。いずれにせよ、政界には残れなかった可能性が大ですね。

岩倉は明治天皇直々の見舞いの次の日まで持ちこたえ、7月20日に亡くなりました。
彼が最後に手がけていたのは、京都御所の保存に関することです。これによって今日の京都御苑の整備が始まることになります。極端な改革ばかりを好んでいたのではなく、「日本の良いものは残していこう」と考えていたことがよくわかりますね。

決して高くはない身分から、才覚でもって新しい政府の中心となり、それでもなお西洋一色に染まることを良しとしなかった、そんな岩倉の人生……とまとめると、ちょっと綺麗すぎますかね。

長月 七紀・記

参考:岩倉具視/wikipedia

 


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コメント

    • 匿名
    • 2016年 8月 19日

    実は岩倉は何度も殺されかけています。
    特に有栖川宮熾仁親王にです。
    と言うのも、和宮との結婚を破棄させたのが岩倉本人な訳ですから、それを知った親王にとっては何一つ良いことがないのは周知の通り(結果は、NTRに攘夷失敗)。
    それ以降、親王は料理を作る事が好きになったと言う逸話も有るほどです。
    目的としては、親王は岩倉をこの手で肉料理にして食べるです。
    岩倉がこの世を去った時、親王は祝杯をあげたと同時に残念がっていました。
    自分の手で岩倉を肉料理にできなかったことが残念がっていた理由です。
    それ程、岩倉は親王に恨まれていました。

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