岩倉具視

岩倉具視/wikipediaより引用

幕末・維新

岩倉具視・幕末の下級貴族がなぜ日本を代表する政治家になれたのか?

「維新十傑」の一人であり、その中では最後まで長生きした貴族出身の政治家――岩倉具視

幕末から頭角を現し、明治十六年(1883年)の7月20日まで享年59という天寿を全うしており、実は日本初の国葬が行われた方でもあります。

大河ドラマ『青天を衝け』では、朝ドラ『あさが来た』で大番頭の好演も話題になった山内圭哉さんがキャスティングされましたね。

近代日本史には欠かせない重要キャラである岩倉具視は一体どんな方だったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

 


岩倉具視~奇抜な性格で身分は低い貴族だが

岩倉は、堀河康親(やすちか)という公家の次男として生まれました。

幼少時から公家らしからぬ言動で浮いていたそうで、本名で呼ばれるよりも、「岩吉」という少々小馬鹿にしたアダ名で呼ばれるほどだったそうです。

13歳のとき岩倉家へ養子入りしましたが、岩倉家は公家とはいえ、江戸時代にできた分家だったため、多くの大名と同じ程度の家格でした。

つまり、公家の中では身分が低かったのです。

奇抜な性格・言動で身分が低い……となると、考えの足りない人であればあらぬ方向に行きかねません。

しかし、朝廷で儒学を教えていた伏原宣明(ふせはら のぶはる)が「こいつはただ者ではない」と見込んでくれたため、グレずに済みました。

公家の人もおとなしいばかりでなく、ときにダイナミックすぎる行動に出ますからね。

※以下は幕末の過激な公家に関する考察記事です

意外と過激な幕末の皇族&公家18名!武闘派は戦争にも参加している

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また、ときの関白・鷹司政通に和歌の弟子にしてもらったことで、朝廷にパイプができました。

政通を通じて、岩倉は学習院の充実や身分にとらわれず実力主義の教育を訴えるなど、なかなか大胆なことをしています。

当時の公家は生まれで99%人生が決まるようなものでしたので、朝廷の会議にも特に身分の高い家の人しか参加できませんでした。

岩倉はそれを打開したかったと思われます。

この時点では漠然としたものだったでしょうが、おそらくは今日の議会のように、もっと多くの人が政治に関する話し合いに参加できるようにするべきと考えていたのでしょうかね。

当時は既に黒船がやってきており、岩倉も風のうわさでアメリカのやり口などは聞いていたのかもしれません。

政通は即答は避けたものの、大筋には同意してくれました。

 


公家では日米の条約に絶対反対!

それから五年後、老中の堀田正睦が「アメリカと通商条約を結んでもいいでしょうか」という、お伺いを立てに京へやってきました。

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このときの関白だった九条尚忠(ひさただ・後の貞明皇后のジーちゃん)は割と頭が柔らかい人でした。

孝明天皇に「勅許をお出しになって、異国とも付き合いをするべきです」という意見を出すのですが、岩倉を含むほとんどの公家がこれに大反対。

88人もの堂上公家が抗議をして【廷臣八十八卿列参事件】と呼ばれるまでになります。

さらに、地下家(じげけ)97人による反対の意見書も出されていました。

堂上公家は、天皇の住まいである清涼殿の殿上の間に入ることが許されている家のこと。大雑把に言えば、「公家の中でも特にエラい人たち」です。

地下家はそこに上がれない身分の公家をさします。

そんなわけで、このとき関白以外の公家は上から下まで「異国とオツキアイだなんて絶対反対!!!」という空気になっていました。

孝明天皇も条約締結には反対だったので、以降、条約に対する勅許を出さない方針を固めてしまいます。

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まあ、当時の人からすれば

「髪の色も眼の色も違うよくわからん民族と互いに行き来するなんて恐ろしい。後にどんな災いが起きるかわからない」

というところでしょうか。

 


幕府は潰すのではなく上手に使って国防を

この騒動から間もなく、岩倉は孝明天皇に意見書を出しました。

だいたいこんな感じです。

・あっちこっちの港を開くのは危険だが、一ヶ所だけ港を開いて付き合うのならいいのではないか

・ただし日本国内で異人が移動することと、キリスト教の布教は禁ずるべき

・向こうが何を考えているのか知るために、欧米各国に使節を派遣してはどうか

・徳川家を潰すのではなく、国を守る仕事をさせましょう

前半の二つはともかく、後半二つはさすがの慧眼というところでしょうか。そのまま現実にはなりませんでしたが。

朝廷が許さなかったにもかかわらず、幕府はアメリカの威勢に負けて、独断で日米修好通商条約を結んでしまいます。

孝明天皇は激怒。

水戸藩などへ【戊午の密勅】で「幕府がこっちのいうこと聞かないからヤキ入れてこい!」(超訳)と命じます。

この辺の政治的ゴタゴタが起きた後に、井伊直弼が【安政の大獄】を行使、さらには幕府と朝廷の間の溝が深まることにもなりました。

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岩倉は上記の意見書の通り、幕府をうまく使って国を守るべきという考えだったので、朝廷vs幕府という構図はよろしくないと考えていました。

そして京都所司代や伏見奉行といった上方にいる武士と相談し、親しくなってなんとかしようとします。

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