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その日、歴史が動いた 江戸時代

「国母」と称される後桜町天皇 現代皇室にも影響を与えた最後の女帝、その功績

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人の親になれば、母性や父性が自然と生まれる……と、大多数の人は思いますよね。現実のアレコレを見ると、必ずしもそうとは限らないのが残念なところですけれども。

しかし、中には物理的に親にならなくても、責任感と暖かさで母性や父性を感じさせるような人もいます。本日はその中でも、現代に大きな影響を残した……かもしれない、とある女性のお話。

元文五年(1740年)8月4日は、後桜町天皇が誕生した日です。

可愛らしい諡号(しごう・亡くなった後に贈られる呼び名)ではありますが、”後”桜町天皇は女性で、お父上の桜町天皇は男性という、なかなかややこしい事情があったりします。
どうでもいい話ですが、後桜町天皇の前後は桃園天皇・後桃園天皇なので、やたらとピンク色をイメージする諡号が多い時代でもあります。
この辺の天皇のことはあまりテストには出ないですけども、ちょっと面白いですよね。他に色を連想させる諡号の天皇というのも、あまりいないですし。

後桜町天皇は、2016年現在で最後の女帝でもあります。
一体どのような経緯で位に就き、どんなことをした方なのでしょうか。

 

複雑な事情を経て天皇となることに

女性の天皇というのは、基本的に「中継ぎ」で立つものです。
つまり、「天皇が薨去した際、すぐに跡を継ぐべき人がまだ幼いので、その間しばらくお仕事をしてください」という立場になります。
何だかテキトーな話のようにも思えますし、「古代には少年の天皇もいたじゃないか」という気もしますね。

が、後桜町天皇のときは、これに加えてさらにややこしい理由がありました。
この直前に位に就いていたのが桃園天皇。後桜町天皇の異母弟です。

桃園天皇の側近は、いわゆる摂関家ではなく、別の公家たちでした。
人間、由緒正しい家の見知らぬ人よりも、幼い頃から見知った仲の良い人を信用したくなるものです。「(心境が)遠くの親戚より近くの他人」というところでyしょうか。
当時の摂関家ではほぼ同時期に世代交代が起きたこともあり、「摂関家の威厳を取り戻したいが、ノウハウを知っている人がいない」というもどかしい状況でもありました。

そんな経緯でひと悶着あったので、摂関家では「もう幼い方が天皇になるのは勘弁して下さい」という気持ちが強かったのです。
そこで、まだ5歳だった桃園天皇の皇子・英仁親王がすぐ即位するよりも、22歳の後桜町天皇が一度位に就いたほうが良い、ということになりました。

 

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後桃園天皇は22歳の若さで崩御 光格天皇を擁立する

後桜町天皇は8年間の中継ぎ期間をそつなくこなし、30歳で上皇となります。

しかし、英仁親王改め、後桃園天皇はまだ13歳。一応元服する年齢にになったとはいえ、生来病弱であり、心配は絶えなかったことでしょう。
そしてその嫌な予感通り、後桃園天皇は22歳の若さで崩御してしまいました。

後桃園天皇の子供は、生まれたばかりの欣子(よしこ)内親王のみ。
「まだお若いのだから、これから皇子にも恵まれるだろう」と思っていたであろう公家も皇族も、絵に描いたような皇室存続の危機を迎えて大騒ぎでした。

後桜町天皇は、新旧の関白らと相談し、「欣子内親王と他の宮家の男子を結婚させて、皇統を保つ」ことに決めます。
この男子が、閑院宮(かんいんのみや)家の六男、のちの光格天皇でした。
光格天皇については、既にこちらの記事(過去記事:幕府へ物申した天皇、隠れた名帝・光格天皇崩御す)で取り上げていますので、詳細は割愛しますね。

 

尊号一件で光格天皇を優しく諭し、事態は収拾

光格天皇は、まだ9歳。

図らずも、後桜町天皇は再び幼い新帝を導くことになりました。このとき後桜町天皇は40歳ですから、まさに親子のような雰囲気だったことでしょう。
位から引いた後、後桜町天皇は仙洞御所(現在の京都御所西)に移っていたのですが、光格天皇への教育を直接行うべく、内裏へもたびたび行幸(お出かけ)していたといいます。

後桜町天皇は和漢さまざまな書籍や歌に造詣が深く、書も得意としていました。おそらくは天皇としての心構えの他に、そういった指導も含まれていた気がします。

この方の影響が最もうかがえるのは、“尊号一件”の時だと思われます。
光格天皇が「私の父が宮家の人間だからといって、摂関家より格下なのはおかしい」として、松平定信と対立した事件です。
きなくさい空気の中、後桜町天皇は優しく「称号や身分を高くすることよりも、貴方様の御代が長く続くことが、お父上に対する一番の孝行ですよ」と諭しました。
まだ20歳そこそこの血気盛んな光格天皇も、大先輩かつ母代わり、と二重に頼りにしている後桜町天皇の意見は無視できなかったようで、身を引いたとされています。

 

幕府も気を遣うほど能力が高かった

幕府のほうでも、後桜町天皇に対しては気を使っていたようです。
天明八年(1788年)の京都大火のとき、そんな感じの逸話が残っています。

「大火」とつく通り、この火事はかなりの規模で、京都の町が80%も焼けてしまいました。
内裏や御所も例外ではなく、後桜町天皇は仙洞御所を出て、青蓮院というお寺に仮住まいすることになります。そして、母である青綺(せいき)門院が隣の知恩院に移っていました。幕府がこの間に廊下を作って、気軽に母子の行き来ができるようにしているのです。

地図を見ると「この距離で廊下作るとか過保護か!」とツッコミたくなりますが、何せ上皇のお出かけとなると、庶民の散歩とは訳が違います。自分の母親を見舞うにも、いちいち整えるものがわんさかあるわけです。

この辺のことは、後光明天皇がお父上の後水尾天皇を見舞おうとしたときの話と比べるとわかりやすいですかね。詳細はこちら→過去記事:武家を相手に一歩も引かずの後光明天皇 江戸時代の剛毅なエピソードにホレボレ

幕府の権威がダダ下がりであるというのも分かる話ですが、それ以上に「後桜町天皇には気を使わなければ!(そうしたほうがいろいろうまく行きそう)」と判断したからこそ、こういった“配慮”がされたのでしょう。
知恩院は徳川家とのゆかりがあるお寺なので、いろいろやりやすかったのかもしれません。

京都大火は尊号一件でゴタゴタしている最中の出来事でしたから、その辺も絡んでいると思われます。あまりにも規模が大きかったため、定信が上洛して朝廷と協議し、対応を行ったほどです。
もしかしたら、後桜町天皇から定信へ何かしらの連絡があったかもしれませんね。

 

光格天皇の血筋を通して、現代の皇室へ

後桜町天皇が崩御したのは、文化十年(1813年)のこと。
おそらく尊号一件の後は大きな出来事もなく、穏やかに過ごしていたものと思われます。
この間は、伊能忠敬や間宮林蔵などによる国土の測量等が行われた時期でもありますので、その辺を楽しみにしていたかもしれませんね。
一方で、ゴローニン事件などにより、異国の脅威が迫りつつあることも感じていたでしょう。

自らの血を残さないのが女帝のならいです。
しかし、後桜町天皇の教えは光格天皇の血筋を通して、現代の皇室に伝わりました。
そのことから、後桜町天皇を「国母」と称することもたびたびあるようです。日本の場合、正式には天皇の生母を指す呼称ですが、後桜町天皇が現状最後の女帝かつ、現在の皇室の方向性を決めたとみると、最もふさわしい呼び名でしょう。

たびたび「女性は子供を産んで一人前」「帝王切開は甘え。下から産まないと母性は生まれない」なんて話が出ますが、子供を産まなくても、母性にあふれた人はいるものだ……という最たる例が、後桜町天皇ではないでしょうか。

長月 七紀・記

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参考:後桜町天皇/wikipedia 今日は何の日?徒然日記

 



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