毛利元就の長男・毛利隆元は卑屈なれど優秀だった!? 失って初めてわかるその偉大さ

 

日本で美徳とされることといえば、「協調」や「謙虚」ですよね。
しかし、何事も「過ぎたるはなお及ばざるが如し」。協調が過ぎれば自主性がなくなり、謙虚が過ぎれば卑屈や嫌味にもとられます。
本日は偉大すぎる身内を持ったがために、卑屈になりすぎてしまったとある戦国武将のお話です。

永禄六年(1563年)9月1日は、毛利元就の長男・隆元が亡くなった日です。

この人について知られていることというと、元就よりも早く亡くなったことや、あまりにも卑屈な手紙・言動を残していることくらいでしょうか。
そのせいで「根暗」「暗愚」との印象も持たれがちですが、生涯を追いかけて行くと、実はそうでもなかったりします。
本当はどんな人だったのでしょうか。

【TOP画像】毛利隆元/wikipediaより引用

 

大内義隆のもとで3年間 色んな意味でのお気に入り

隆元は、大永三年(1523年)に生まれました。
戦国時代というとだいたい信長を中心に語られることが多いですが、信長は天文三年(1534年)生まれとされているので、隆元のほうが歳上ということになります。
割と早い時代の人なんですね。

14歳のとき、当時毛利家のボスだった大内家へ人質に出され、山口に三年間滞在。そこでの待遇は決して悪くはなく、いわば今川義元と徳川家康のような感じだったようです。
隆元が整った顔立ちをしていたので、大内家の当主・義隆には色んな意味で気に入られたとか。

人質になった年に大内義隆のもとで元服し、「隆」の字をもらっているくらいですから、寵愛ぶりがわかるというかなんというか。
隆元も、義隆を主君・恩師として慕っていたようです。

大内義隆さん/wikipediaより引用

大内義隆さん/wikipediaより引用

 

突然家督を譲られるも実権は元就が握っていた

毛利家に戻った後、初陣を果たし、天文十五年(1546年)に突然、元就から家督を譲られております。しかし、実際の権限は元就がずっと持っていました。
これは、大内家での三年の間に義隆の影響を受けすぎて、隆元がすっかり文学好きになってしまったことも影響しているようです。
そのため、毛利家に戻ってからは、元就や家老の志道(しじ)広良によって武将としての心得を叩きこまれています。

おかげで度胸がつき、その後の戦では肝の据わったところをたびたび見せました。
厳島の戦いの際、悪天候で渋る元就に「今やらないでどうします!」(意訳)と活を入れたのも隆元だったとか。かっちょいい。

話が前後しますが、26歳のときに大内家の重臣である内藤興盛の娘・尾崎局と結婚しました。

その後なんやかんやで大内家とのつながりが切れた後も、尾崎局をとても大切にしていたそうです。
どのくらいかというと、「特に用事はないけど、吉田郡山城(当時の毛利家本拠)に戻る人がいたから、ついでに手紙を届けてもらうことにしたよ」なんて手紙を書いたこともあるほどです。
どう見てもノロケです、本当にありがとうございました。

 

弟の吉川元春や小早川隆景とはあまり上手くいかず……

子供は男女ひとりずつで、男の子が後の五大老・輝元です。夫婦仲の良さの割には少ない気もしますが、そういう体質だったかもしれませんしね。

また、隆元は金銭感覚に優れており、内政にも力を発揮したとされています。
毛利家が敵の多い状況であることをよく理解しており、また誠実な人柄で商人たちから多額の融資を受けることができました。

武功なら元春、調略なら元就・隆景というイメージがありますが、腹が減っては……ならぬ、”金が減っては”戦はできないというもの。
他の家族が戦の下準備や戦闘ができるのは、隆元の金銭感覚と信用のおかげといっても過言ではないでしょう。

しかし、一時期離れていたこともあってか、弟の元春や隆景とはうまくいかないことも多かったようです。

これについては、隆元から元就あての手紙で「弟達は自分の家(吉川家・小早川家)のことばかり考えているし、私のことをナメきって、何を相談するにも父上にばかり話すので困っています」(意訳)と書いていますから、おそらく事実でしょう。お兄ちゃんいじめよくない。

 

偉大な父のもとで自らを卑下するクセがついてしまった

そんな状況を危うんで元就が書いたのが「三本の矢」こと「三子教訓状」です。

三子教訓状は弘治三年(1557年)に書かれたものですから、隆元34歳・元春27歳・隆景24歳のときのことでした。ついでにいうと、元就は60歳です。生々しいですね。
現代の基準でも、この歳になって兄弟げんかを親にたしなめられるというのはちょっと……という気がしますが、戦国武将の場合、放置しておくとそのうち分裂したり命が関わったりするので仕方ありません。

その後、父が正式に隠居しても、やはり実権の所在は変わりませんでした。元就が偉大すぎたため、隆元は過剰に自分のことを卑下する癖があったので、そのせいかもしれません。
なんせ「父上が隠居したら、私は家を守っていけません。どうしてもというなら、私も息子(※当時年齢一ケタ)に家督を譲って隠居します」(意訳)とまで言っていたくらいです。

現在残っている書状の数々からも、隆元の自信のなさは見て取れます。
三十代後半の頃には、順々に中国地方各国の守護に任じられていますし、隆元を慕う家臣も少なくなかったので、もっと自信を持ってもいいはずなのですが……。

偉大過ぎた元就さん/イラスト・富永商太

偉大過ぎた元就さん/イラスト・富永商太

 

40歳の若さで急死 その能力が改めて評価される

元就があそこまで長生きせず、隆元が名実ともに毛利家の主となっていたら、自分の実力を正しく評価することもできたかもしれません。
しかし、隆元が40歳の若さで急死してしまったため、その機会は永遠に失われてしまいました。

山陰の雄・尼子氏との戦いに注力している最中、毛利家傘下の国人に饗応された直後のことだっといわれています。
食中毒・毒殺などいろいろな説がありますが、「宴の直後」というからには、急性アルコール中毒という可能性も考えられますね。
元就の父や兄も、酒が原因で若いうちに亡くなっているといいますし、お酒の許容量がかなり少ない家系だったのかもしれません。

隆元が亡くなってから毛利家の収入が減ったり、うまくいかないことが多々出てきて、元就も弟達も隆元の能力を改めて認識したといいます。だったら、普段からお兄ちゃんを褒めてあげてよ……(´;ω;`)ブワッ

一昔前までは「一人だけ無能www」なイメージで語られる一方でしたが、最近では「隆元って結構スゴイじゃん」という評価も出てきました。
世情が変わったからなのか、隆元のいろいろな面が知られるようになってきたのか、どちらかはわかりませんが。

長月 七紀・記

参考:毛利隆元/wikipedia

 


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コメント

    • にわか歴史好き
    • 2016年 9月 04日

    なんとなく、弟たちは兄をATM扱いしてたのかと思ってしまう。現代夫婦かよってね。優秀で人望や人徳があるの人は、どうしても目立たないもんですね。でもどんな時代でも必ず必要な存在だと思います。毛利家ってなんかバランス良く秀でることがないような。専門極める感じが強いですよね。

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