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世界一難しい官僚採用テスト「科挙」の歴史 カンニングや替え玉受験は千年前からあった!?

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物を買うにも、人を雇うにもお金が必要です。
では、個人の頭の中を変えるには、一体何が要ると思いますか?
たぶん「本や他人から新しい知識を入れる」か、「それまでやっていたことをやめて別のことをする」と答える人が多いのではないでしょうか。
おそらくどちらも有効ですし、併用している方もおられるでしょう。

しかし、これがどちらかに偏りすぎたり、タイミングがマズかったりすると、あらぬ方向へ進んでいってしまうこともあります。
本日はそんな感じの、お隣の国のお話です。

1905年(明治三十八年)9月2日は、清王朝が科挙を廃止した日です。

「科挙」とは中国の官僚採用試験のことで、お偉いさんや詩人を調べていると、必ずといっていいほど出てきますね。実はこれに合格した天才的日本人もおりますので、よろしければコチラの過去記事【遣唐使の阿倍仲麻呂が天才だったなんて! あの李白ともお友達だったなんて!】を御覧ください。

本日はこの試験がどんな変遷を経てきたのか、見て参りましょう。

【TOP画像】科挙の合格発表/Wikipediaより引用

 

王維や白居易は20代でクリアしていたが……

科挙が始まったのは、隋王朝の初代皇帝・文帝の時代でした。
当時は貴族だけが政治を行っていたのですが、有能な人材が不足しがちになっていたため、それを補う目的で、より広い範囲から優秀な人材を集める目的で設けられたのです。

隋という王朝自体はごく短命でしたが、科挙はその後さまざまな変更を加えられながらも、1300年以上にわたって中国に影響を与えることになります。

続く唐王朝の時代には受験資格が広まり、より多くの人が科挙を受けられるようになりました。
唐といえば中国の有名な詩人が多く出ている時代でもありますが、彼らの多くの詩人が科挙を受けています。有名どころだと、王維・韓愈・白居易・杜牧は20代のうちにクリア。合格者の平均年齢が30代中頃で、70代の人も珍しくなかった試験で、です。

彼らの頭脳が想像力や感受性だけでなく、学問的にも優れていたことがわかりますね。

とはいえ、李白や杜甫、孟浩然のように科挙に合格せずとも優れた詩人になっている人もいるので、「科挙に合格するような人でないと良い詩は書けない」とも限りません。この辺は他の国や時代でも同じですかね。

しかし、唐の時代は貴族層の力がまだ大きく、科挙の合格者が割を食うことも多々あったようです。時代が下るに従って科挙合格者のほうが増えていくのですが。
また、試験の責任者との癒着など、問題が増え始めたのも唐の時代です。全体数が増えれば相対的に不正や問題が増えるものですよね。

 

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皇帝が最終試験を行う「殿試」は宋時代に始まった

中国史の恒例行事・ドンパチ時代(五代十国時代)を挟んで、宋王朝では科挙の制度に幾つかの変更が加えられます。

まず、初代皇帝・趙匡胤の方針で、科挙合格者でなければ高官になれなくなりました。
最終試験を皇帝が行う「殿試」にしたのも趙匡胤からのことです。殿試まで行っても、皇帝の御前で緊張してしまって、実力を発揮できなかった人もいたんでしょうね。

試験内容も整備され、詩作よりも歴史・政治等に関する記述が中心となりました。

また、カンニングや試験官のヒイキ防止策も複数試みられています。
たまに特定地域の出身者ばかりが合格するという不正があったため、上のほうでもそれを防止すべく動いたのですが、防ぎきることはできませんでした。

宋が衰えると、例によって再び戦乱の時代となり、その中で満州系の民族である女真族が金王朝を立てました。
一時スケジュールがズレたこともありましたが、世情が落ち着くと科挙も再開されています。
五代皇帝・世宗の代に学校を整備し、より多くの合格者が増えるように試みられました。漢民族とは文化・学問的地盤が異なる女真族向けの科も作られています。

元寇やヨーロッパへの遠征のイメージが強い元の時代にも、1313年から科挙は行われていました。
しかし、元がもともとモンゴル系の民族の王朝であったことから、科挙以外の方法で登用された知識人が多かったとされています。とはいえ、やはり「科挙」という制度そのものへの尊崇は大きく、科挙の合格者はお偉いさんの中でも別格扱いだったそうですが。
色目人(中央アジア系・ムスリムなど漢民族以外で元の支配下にあった民族)にも枠が用意されていたり、柔軟な体制がとられていたようです。

殿試の様子/Wikipediaより引用

殿試の様子/Wikipediaより引用

 

カンニングや替え玉などの不正行為も増加

明の時代には受験資格を取るための学校ができたり、試験科目が減ったり、より幅広い層が受験できるように整備が進みました。

しかし、そのぶん合格者の質が落ち、カンニングや替え玉受験といった不正行為が増えたとされています。中には、数十万字もの書き込みがされた下着もあったとのこと。見つかると場合によっては死刑もあったというから、やる方も命懸けだったんすね。

続く清王朝の時代には不正の数も顕著になり、対ヨーロッパ政策としても科挙の限界が見え始めます。
政治の腐敗が進み、科挙合格者でもアレな官僚が増えたため、ヨーロッパ人からは「マンダリン」という不名誉なアダ名をつけられてしまいました。
当時の高官がマンダリン=みかんの色の服を着ていたことかららしいのですが、ヨーロッパだと食べ物の名前で「この◯◯野郎!」みたいなニュアンスを持たせることがありますので、多分に蔑視が含まれていたでしょうね。

そしてとうとう、アヘン戦争後に近代化の一環として、科挙が廃止されることになったのです。
科挙は一般常識や儒学・文学の知識を問うものであり、近代化の妨げになるものではなかったはずなのですけれども……西洋の新しい文化を受け入れるために、自国文化を否定しなければならないと考えられたのです。
この辺は日本もよそのことを言えませんね(´・ω・`)

アヘン戦争の前に西洋文化や世界事情に敏感になっていれば、科挙に科目を加えるなり、別の試験を作るなりで対応できたかもしれませんが……中華思想から考えるとなさそうですかね。
科挙の変遷を見ていると、中国の偉大さとアレな部分の両面がよくわかる……ような気がします。

長月 七紀・記

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参考:科挙/Wikipedia

 

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