『吾輩は猫である』ができるまで…… 夏目漱石の人生を変えたあの名著

 

世の中、何をするにしても、「やろう」と思うきっかけがありますよね。
その場でパッとできることもありますし、入念な下準備をして、長い時間をかけてやることもあるでしょう。
本日は誰もが知っているあの有名な作品の、そんな裏事情をみていきたいと思います。

明治四十一年(1908年)9月13日、「吾輩は猫である」(以下、「吾輩」)の主人公のモデルになった猫が亡くなりました。

「それのどこが歴史に残る話なんだよwww」と思った方もおられるでしょうが、この猫が夏目漱石という大作家を生み出したと言っても過言ではないのですから、特筆する意味は充分あるかなぁと。

とても有名な小説ですし、書かれた経緯もよく知られていますが、その辺のおさらいからいきましょう。

【TOP画像】夏目漱石/wikipediaより引用

 

生徒が自殺するなど精神的に追い詰められ……

「吾輩」を書く前後の漱石は、お世辞にも安定した状態とは言えませんでした。
イギリス留学中に引きこもって研究をしており、尋常でない様子に周囲はヤキモキ、漱石を急遽帰国させていたのです。今でいうところのうつ病のような状態でしょうか。人間、一人で考えこむ状態が長く続くのは好ましくありませんからね。

帰国しても、あまり良いことがなく、気分が鬱々としていたのでしょう。
第一高等学校や東京帝国大学の講師として行った英語の授業が「カタすぎる」ということで不評だったことや、受け持ちの生徒が漱石の叱責により自殺してしまったことから、精神はかなり弱ってしまいました。
授業の件については、前任者が小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)という、漱石とは違ったタイプの傑物だったことからであって、漱石がダメダメだったわけではない……はずなんですけどね。八雲については、また別の機会に。

妻・鏡子とも二ヶ月別居するほどだったそうですから、人に会うことそのものが嫌になっていたと思われます。

そんな折、親交のあった高浜虚子の勧めにより、初めて書いた小説が「吾輩は猫である」でした。

 

モデルは飼猫 妻の鏡子は当初嫌っていた

「吾輩は猫である」は正岡子規の「山会」で発表されて好評を得て、明治三十八年(1905年)に雑誌・ホトトギスに掲載されました。
最初は読み切りの予定だったのが、好評のため連載となり、やがて三分冊で出版され、今日に至るまでのベストセラーに。

「吾輩」は、漱石が実際に飼っていた猫がモデルというのも有名ですよね。
その猫が漱石宅に居つくようになった経緯も、小説の冒頭とほぼ同じです。追い出そうとしていたのは、実際には鏡子だったという違いくらいで、「そんならうちへ置いてやれ」というセリフもそのまま漱石が言ったものなのだとか。

鏡子は当初猫嫌いだったそうで、その後、夏目家に出入りする按摩師(マッサージ師)が「この猫は爪まで黒い、大変な福を読んでくる猫ですよ」と言ってから、鏡子も可愛がるようになったといいます。現金な話ではありますが、当時の夏目家のお財布はかなり苦しい状況だったので仕方ありません。

結果として、この猫をきっかけに漱石が作家として大成するのですから、これこそ事実は小説より奇なりというやつですね。
「鶏が先か、卵が先か」のほうが正しいかもしれませんが。

 

ドイツの小説「牡猫ムルの人生観」も元ネタに

もう一つ、「吾輩」の元ネタになったものがあります。
ドイツの作家E・T・A・ホフマンの書いた「牡猫ムルの人生観」という小説です。「吾輩」の作中でも、主人公がムルに言及するシーンがありますね。

こちらは、「教養ある猫・ムルが(猫なのに)人生観を書き綴るものの、飼い主の持っていたヨハンネス・クライスラーの伝記と混ざってしまい、そのまま印刷されてしまった」という奇妙な形式でした。
1819年に第一部、1821年に第二部が発表され、作者死去のため第三部は発表されずに終わっています。
「吾輩」のファンであれば「ムル」のことも知っている方が多いと思うのですが、邦訳は1989年のものが最後で、あまり市場にも出回っていないようですね。そろそろ新訳が出てもいいんじゃないかと思うのですが。

「ムル」はホフマンが1818年~1821年の間、実際に飼っていた猫でした。

ムルが亡くなった際、ホフマンは友人たちに死亡通知を出したそうですから、よほど可愛がっていたか、友人たちに可愛がられていたか、「小説のネタになってくれてありがとう」という感謝の気持ちなのか、はたまたその全部か……。

「吾輩」のシーンでも、夏目家の日常や、文化人とのやり取りから持ってきたものが多々あります。
そのまま書いているものもあれば、当事者に迷惑をかけないように、少し変えたものもあり、当人が読めば当然バレますよね。

「あんな恥ずかしいこと書かないでくださいよ」と抗議されたこともあるとか。そりゃそうだ。

『牡猫ムルの人生観』/wikipediaより引用

『牡猫ムルの人生観』/wikipediaより引用

 

書いて結果が出ることで自信を持てたのかも

さて、ここから先は恒例の私見です。
「吾輩」をきっかけに漱石が作家として歩み始め、やがて物書きが専業になっていくわけですが、その裏には漱石が自分自身を取り戻す過程があったように思われます。

上記の通り、かつて漱石の生徒が、漱石に叱責されたことを引き金に自殺してしまったことがありました。
彼の自殺が明治三十六年(1903年)5月22日。この話が「吾輩」に出てくるのが、十話=明治三十九年(1906年)4月掲載の分です。

この間に、漱石は「吾輩」の他、「坊っちゃん」「倫敦塔」などを次々に発表して一人前の作家に。
生徒の自殺直後は精神的にズタボロだったのが、「吾輩」で作家としての道を歩み始め、その連載と他の作品で高評価を得られたことにより、自信を取り戻していったのではないでしょうか。

妻・鏡子の回想でも、「小説を書くのはいかにも楽しげで、いつも学校から帰って、夕飯以外は十時くらいまで書いていた」としています。「ときには十二時くらいまで書いていた」「短編は五日~一週間くらいで書いていた」そうですから、よほど没頭していたのでしょう。

一般人でも、ブログや日記にとりとめもなく日頃の出来事を書いていったり、親しい友人や家族に愚痴っていると、とんでもない時間が経っていた……なんてことはよくありますよね。
それと同時に、心身の澱が流れていったような気分になるものです。

 

ブラックジョークにできるようになるまで

漱石にとって、「吾輩」をはじめとした執筆活動は、そういったものだったのではないでしょうか。
妻とも別居したくなるほどの状態から、「吾輩」の十話で生徒の自殺をブラックジョークめいた書き方ができるようになるまでの三年間、漱石にとっては原稿用紙の上が自浄の場だったのかもしれません。

そう考えると、その元ネタである猫に感謝し、墓を作り、「この下に稲妻起こる宵あらん」と詠み、友人たちへ訃報を出したのもうなずける話です。
決して「ムル」やホフマンを真似ただけではないでしょう。

とはいえ、漱石はその後も胃病や神経症と思わしき状態になるわけですが……その辺はまた別の要因も絡みますから、またいずれ。

漱石に限らず、作者という一個人に興味を抱いたなら、作品が書かれた経緯や元ネタを探ってみるのも一興かもしれません。

長月 七紀・記

参考:吾輩は猫である/wikipedia 夏目漱石/wikipedia 牡猫ムルの人生観/wikipedia E.T.A.ホフマン/wikipedia

 


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