岩崎弥太郎の孫娘・沢田美喜 大富豪の家に生まれた令嬢はなぜ慈善の道を進んだか

 

「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉がありますよね。
窮地に陥ったとき、どこからか救いの手が伸ばされることを、昔の人は「神のご加護」と感じたのでしょう。確かに、“八百万の神”というのですから、ある神様には「コイツ嫌い」と思われたとしても、別の神様には「私は気に入ったからちょっと贔屓してやろう」となる可能性もありますよね。神が実在するかどうかは別として。
本日はそんな感じ……だったかもしれない、戦後の混乱期のお話です。

明治三十四年(1901年)9月19日は、事業家かつ慈善家の沢田美喜(みき)が誕生した日です。

字面だけだとちょっとわかりにくいですが、女性です。
彼女は三菱財閥3代目・岩崎久弥の長女として生まれた超絶お嬢様でした。そんな人が、どのようにして慈善の道を進んでいったのでしょうか。

祖父の岩崎弥太郎/Wikipediaより引用

祖父の岩崎弥太郎/Wikipediaより引用

【TOP画像】沢田美喜/Wikipediaより引用

 

家庭教師は津田梅子 欧米の教えに触れる

美喜は、この時代の女性としてはやや変わった教育を受けています。
当初は東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中・高)に通っていたのですが、15歳のときに中退、家庭教師の津田梅子らに学んでいたのです。
梅子は、あの津田塾大学の創設者にして日本初の帰国子女の一人です。おそらく、美喜は梅子から欧米の価値観やキリスト教に関する教えも受けたことでしょう。
【関連記事】6歳で渡米した頭脳明晰の才女・津田梅子 「身分にとらわれない女子教育」は実現したか?

その後、21歳のときに外交官の沢田廉三と結婚。彼がクリスチャンだったため、美喜もキリスト教に改宗しています。
夫の転勤に伴い、アルゼンチンや中国、アメリカ、ヨーロッパ各地を転々とし、行く先々で子供を産めたのは心身ともにタフだったからでしょう。

ロンドン滞在中にはドクター・バーナードス・ホームという孤児院を訪問したり、パリやニューヨークでは、後の活動を支援してくれるような人々と親交を結んだりと、まるで将来の下準備のようなことをしていました。
「縁は異なもの味なもの」とはよくいったもので、この「クリスチャン」である「西洋人の協力を得ることができた」ということが、後日、多くの人を救うことになります。

 

美喜が乗り合わせた電車で混血児の死亡事件

35歳のとき日本へ帰国。間もなく敝之館(へいしかん)と瑞穂館という施設の設立に関わったことで、美喜は慈善事業への一歩を踏み出します。
留学生としてやってきた日系2世のための施設で、美喜は入館者の相談役や、野球チームのマネージャーなど、積極的に働いていました。

終戦直後のことであり、岩崎家の屋敷が進駐軍に接収されるなど、窮屈な生活をしていたこともあります。しかし、進駐軍の日系人一家に子供が産まれ、その世話をすることで気分が紛れていたようです。

そんな折、美喜がたまたま乗った電車で混血児が死亡するという事件がありました。

この辺の事情はまさに戦争の影響といいますか、生々しいので、気分が悪くなりそうな方は飛ばしてくださいね。

終戦直後、国内の女性を守るため、「特殊慰安所」というものが作られた時期がありました。
進駐軍の夜のお世話をする女性を予め募り、場所も限定することで、病気の蔓延や望まない妊娠を避けようとしたものです。戦災で身寄りをなくした女性の最後の働き先としても機能していました。
道徳的にもアレだし、気分の良い話ではありませんが、人類の歴史上最古の職業であるだけに、極限状態でもできる仕事という面もありますからね。

しかし、この施設は「そんなものは必要ない」と進駐軍側に言われ、昭和二十一年(1946年)3月という早い時期に閉鎖されてしまっています。
設置中も性犯罪がなくなったわけではなかったでしょうが、閉鎖後は街娼や通りすがりに……という事件が増え、結果として混血児が増えました。

必要ないと断じるなら、それなりの根拠を出すなり、自分たちで代案を考えるなりしろという気もしますが、当時の日本がそこまで強気に出られるはずもなく……。
とはいえ、味方であるはずのフランス奪還時も、連合軍側の兵士によって相当数の性犯罪が起きたそうですから、黄禍論まっしぐら&ついこの前まで殺し合ってた相手に対して、この手の犯罪が起きないわけがないですよね。嫌な話です。

当時は「連合国・進駐軍を批評するもの、不信を煽るものは出版禁止」ということになっていたので、性犯罪もほとんど報道されませんでした。

ただし、抜け穴として「大きな男」という表現を用いて、少しでも事実を伝えようとする記者もいたとかいなかったとか。
当時の日本人男性の平均身長は170cmもなかったので、目に見えて大きな男=西洋人=連合軍という暗喩ができたというわけです。

混血児の中には自由恋愛で生まれた人もいましたが、当時の日本では「異国人の血が混ざる」事自体が受け入れられにくいものでした。冷たい話ではありますが、そもそも日本全体が食うや食わずだった頃ですから、誰か・何かに不満をぶつけないと精神が保てなかったのでしょう。
日本はほぼ単一民族かつ島国である故に、異質=脅威に繋がりかねない、という本能的なものなのかもしれません。
エグい話終わり。

 

混血児向けの孤児院を設立 グレース・ケリーの協力も得る

そんなわけで、混血児に対する認識が現在と全く違っていた時代です。
「彼らが安心して成長できる場所を作ろう」と考えた美貴は、かつて岩崎家の別邸だった神奈川県の家を買い戻して、「エリザベス・サンダースホーム」という混血児向けの孤児院を作りました。
エリザベス・サンダースとは、最初に寄付をしてくれた聖公会(英国国教会系のキリスト教の宗派)の信者の名だそうです。
この辺から、美喜が「一度強い印象を受けた出来事を忘れない」という性格だったことがうかがえますね。

慈善事業という時点で立派なことですが、当時の情勢では進駐軍からも日本政府からも睨まれ、かなり厳しい経営状態だったといいます。しかし、1949年と1950年にアメリカで講演会を行い、少しずつ寄付を得られるようになって、経営状態は好転していきました。

ニューヨークでグレース・ケリーと親交を持てたことも幸運でした。グレースは20世紀における世界的な美女の一人であり、エルメスの「ケリーバッグ」の由来にもなった人ですので、ご存じの方も多いでしょう。彼女はモナコ公妃になったその後も美喜の活動を支援してくれました。

 

昭和天皇・皇后も聖ステパノ学園を来訪している

1953年には入所していた子供たちが大きくなったため、小学校と中学校を併設し、学校法人聖ステパノ学園として新たなスタートをきっています。

「ステパノ」は、海軍に入って戦死した美喜の三男の洗礼名からきているそうです。
ステパノ自体はキリスト教における最初の殉教者とされる人物で、英語では「スティーヴン」、ロシア語などのスラブ系言語では「ステファン」、ドイツ語では「シュテファン」となります。西洋の有名人でもよく見かけますね。

1950年代には世間の目もずいぶん変わってきており、昭和天皇・皇后も聖ステパノ学園を来訪しました。
美喜は卒業後のことも考え、1962年にはブラジルのアマゾン川流域で開拓を進め、農場を開いて卒園生の就職先を確保しています。
すべての卒業生がブラジルへ渡ったわけではないと思われますが、いずれにせよ、美喜に感謝していたでしょう。

実は、美喜本人はこの間、兄や夫など家族に先立たれて辛い思いもしていました。
それでも前を向き続けることができたのは、ひとえに「母の強さ」なんでしょうね。

長月 七紀・記

参考:沢田美喜/Wikipedia エリザベス・サンダース・ホーム/Wikipedia 特殊慰安施設協会/Wikipedia プレスコード/Wikipedia

 








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