医師・高松凌雲の少し独自な博愛「敵も味方もカンケーない!」と箱館戦争で負傷者を治療

 

他者のために何かをすることは尊いものです。
しかし「言うは易し」でいざ実行に移すとなると、なかなか手が出ないことも多いですよね。募金くらいなら気軽にできますけれども、それ以上となるとよほどの準備がなければ難しいでしょう。
そういった活動については、近代化が進む前の時代のほうが盛んに行われているような気もしまして、本日は近代日本の黎明期に、人道的な活動を行ったとある人物のお話です。

大正五年(1916年)10月12日は、高松凌雲(りょううん)という医師が79歳で亡くなった日です。

この時代にこの年齢で亡くなっているということは、当然幕末のアレコレを経験しています。そしてそれが、彼の行動を大きく決めることになりました。
若い頃からみていきましょう。

【TOP画像】高松凌雲/wikipediaより引用

 

22歳のときに藩を出て江戸~大坂の適塾へ

凌雲は、天保八年(1836年)の12月25日に筑後(現・福岡県)の庄屋の子として生まれました。図らずもクリスマスですね。旧暦ですから、西洋の暦とはズレますけれども。

一時は他の家の養子となって久留米藩に仕えたものの、22歳のとき脱藩同然に地元を出て、江戸にいた兄を頼ったといわれています。
凌雲の兄は古屋佐久左衛門(ふるや さくざえもん)という人で、大坂で医学を学んだ後、何を思ったか江戸に出て洋学・剣術を学んで御家人になっていました。この時代に移動距離がパネエ。
凌雲は兄の生き方に憧れたのか、久留米藩でよほどイヤなことがあったのか……どっちでしょうね。

まあその辺はともかく、凌雲は兄と逆に、江戸で蘭方医・石川桜所(おうしょ)に弟子入りした後、大坂の適塾(医師かつ蘭学者である緒方洪庵の私塾)に入りました。
特に適塾に入ってからは目覚ましい才能を見せ、オランダ語・英語を自由に操れるようになったといいます。うらやましい。

 

徳川慶喜の弟・昭武と一緒にパリ万博へ

さて、いよいよ幕末です。
慶応元年(1865年)、凌雲29歳のときには「君、西洋医学に詳しいんだって? ウチのお抱え医師になってよ」と、あの一橋徳川家からお誘いを受けました。
同時期に一橋慶喜が十五代将軍となったため、凌雲も奥詰医師として出仕することになります。久留米藩の人がもし江戸城内で凌雲に会ったとしたら、相当面食らったでしょうね。

この頃は、既に朝廷との関係や討幕運動が起き始めていた時期。幕府は何とかして権威を取り戻すべく、パリ万国博覧会への参加を決めました。
そのために慶喜の弟・昭武を代表とする使節団を送ることにし、凌雲は西洋医学と語学を修めていたことから、使節団一行の随行医を任されます。

万博が終わってからも更に見識を高めるべく、昭武とともに「費用はこっちで出すから、しばらくヨーロッパで勉強するように」と命じられました。加えて、昭武に何かあったときのために、日本人で西洋医学の知識がある医師をつけておいたほうがいい、という面もあったのでしょう。現代でも、欧米で問題なく使われていた薬が、日本人では副作用がひどい……なんてケースがありますし。

凌雲は命に従い、フランスのオテル・デュウ(フランス語で「神の家」という意味)に留学しました。ここは現在でいう医大および附属病院、そして貧民救済施設を兼ねていたところです。
フランスでは革命以降、解剖学が発展していたので、凌雲も麻酔を用いた開腹手術を見学し、大いに学んだと思われます。

パリ万博・日本の派遣団/wikipediaより引用

 

榎本武揚らに合流して箱館戦争の医師となり

技術力の差もさることながら、凌雲が最もカルチャーショックを受けたのは、貧民救済に対する認識の違いでした。
オテル・デュウでは貧しい人々のために無償で医療が提供されており、しかもその運営は富裕層やお偉いさんの寄付金で賄っているというのです。

日本でも戦国時代に格安で治療を行った「十六文先生」こと永田徳本などはおりました。が、それはあくまで個人の善意による活動であり、オテル・デュウのような民間施設にまではなっていません。
留学中には、おそらくキリスト教の宗旨や理念について教わったり、クリスマスのお祝いに参加したこともあったでしょう。凌雲自身の誕生日も暦の違いこそあれ、12月25日であり、縁や使命感を感じたのかもしれません。
詳しい心境の変化については本人のみぞ知るところですが、オテル・デュウでの見聞は、凌雲のポリシーを大きく変えました。

さて、大政奉還・戊辰戦争勃発により、この留学は二年も経たずに中断されます。
凌雲が帰国したときは既に江戸城が明け渡された後で、慶喜は水戸で謹慎中というどうしようもない状態でした。凌雲は、幕府への恩を返すため、榎本武揚たちに合流して箱館戦争に医師として参加します。
……むしろ恩を感じるべき相手は一橋家や慶喜のような気がするのですが、言うだけ野暮ですかね。

箱館では、武陽の依頼で箱館病院を設立。
「今こそ、ヨーロッパで見たあの姿を実現するとき」と考え、「私のやり方に一切ケチをつけないこと」(超訳)を条件に、戦傷者を敵味方問わず治療します。
治療されるほうは互いに「敵と一緒にされるのはどうしてか」と混乱や反発したが、凌雲は構いませんでした。
場所や細かな時代のズレはあるものの、ソルフェリーノの戦いにおけるアンリ・デュナン(過去記事:赤十字社を創設したアンリ、その名言 「なぜ、敵も味方も助けるのか?」「人類は皆兄弟だからだ」)と似たような心境だったのかもしれません。
いくらきな臭い時代とはいえ、医師の凌雲が実際の戦傷者や戦死者を直に見たことはなかったでしょうし。

 

「武陽に降伏するよう勧めてくれないか」

また、兄の佐久左衛門も旧幕府軍の一人として箱館戦争に参加しており、重傷を負った後に亡くなっています。
もしかしたら凌雲が治療し、看取ったのかもしれません。

実は、佐久左衛門が負傷してから亡くなるまでの間に、新政府軍から凌雲に「武陽に降伏するよう勧めてくれないか」という使いも来ております。新政府軍に凌雲の治療方針が伝わり、アテにできると思われたのでしょうか。
凌雲はその通りに武陽を説得にかかりましたが、返答は「私の持っている貴重な洋書が失われるのは惜しいから、新政府軍にお譲りしよう」というもの。つまりNoです。
本だけじゃなく自分の命も惜しめと。まあ、「命を惜しむな、名を惜しめ」が武士の常識だから仕方ないといえば仕方ないですがね……。

最終的に新政府軍の黒田清隆が「優秀な人材を死刑にしてしまっては、これからの日本のためにならない」と主張したことで、凌雲も武陽も助命されました。結果オーライ。

榎本武揚/wikipediaより引用

榎本武揚/wikipediaより引用

 

政府には入らず鶯渓病院を設立

凌雲は江戸改め東京に戻り、政府には入らず鶯渓病院を作ります。今度こそ、かつてフランスで見たオテル・デュウの日本版を作ろうとしたのです。
ここで治療費が払えない人については無料で診察しました。しかし、一人でできることには色々と限界が出てきて、他の医師に協力してもらう方法を考えます。

そして明治十一年(1878年)に「貧しい人々を無料で診る会を作ろう」と医師たちに呼びかけました。運良く多くの医師から同意を得ることができ、翌年「同愛社」という団体を作り、貧民救済のためにより大きな規模で活動できるようになります。

この前年には西南戦争をきっかけとして、日本赤十字社の前身である博愛社が設立されていました。
なぜ凌雲がそちらに合流しなかったのかについて少々疑問ですね。貧民救済と戦傷者の救命という目的の違いや、距離による情報伝達の差によるものでしょうか。
……二度と戦場に行きたくなかっただけだなんて、まさかそんな。

長月 七紀・記

参考:高松凌雲/wikipedia 日本赤十字社北海道支部 一般社団法人小郡三井医師会

 


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