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飛鳥・奈良・平安時代 その日、歴史が動いた 藤原家

花山天皇と「寛和の変」と藤原家 そして道長の権力は絶大となり、歴史がまた一歩進む

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人生、いつどこでどう転ぶかわからないものです。
生涯を保証されているような身分の人でも、いわゆる青天の霹靂で失脚・没落することは珍しくなく、それは日本で最も尊い家柄であっても同じことでした。
本日はそんな事件で歴史に大きなインパクトを残した、とある天皇のお話です。

安和元年(968年)10月26日は、花山天皇(かざん)が誕生した日です。

ご本人の知名度はさほどではありませんが、間接的にこの時代の重要人物に影響を与えた天皇といえます。
一体何があったのでしょうか。

【TOP画像】月岡芳年「花山寺の月」/wikipediaより引用

 

生後間もなく皇太子となり16歳で即位

花山天皇が生まれたとき、叔父の円融天皇にはまだ皇子がいませんでした。
そのため、花山天皇は生まれた翌年皇太子になっています。

乳母は、将来清少納言の夫となる橘則光の母・右近尼。後述する事件といい、何かと次の天皇(一条天皇)の中宮・定子と繋がりがあったようです。縁は異なもの……というやつですね。

そして16歳で即位するのですが、それからたった三年後にいきなり出家してしまいました。当時の寿命がいかに短いとはいえ、この若さで世を儚むのには相応の理由があるはずですよね。
本人は明言していなかったらしく、いくつかの説があります。

一つは、「寵愛していた女御が身籠っている間に亡くなってしまったから」というもの。これはむべなるかな、という話ですよね。

もう一つは穏やかならぬ話で、「藤原兼家が自分の孫である一条天皇を即位させるためにやった」というものです。後々の流れからしても、こちらの説のほうが信憑性はありますね。
兼家の三男・道兼がそそのかしたともいわれています。

 

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「月が明るいから恥ずかしいな」と呟いたら……

花山天皇は道兼と共にこっそり御所を出て、元慶寺というお寺に向かいました。
このとき、藤原家に仕えていた清和源氏の源満仲らが警護したといいます。むしろ、花山天皇の逃亡阻止だったかもしれませんね。考えすぎでしょうか。

その日は月が明るい夜だったそうです。花山天皇が思わず「月が明るいから恥ずかしいな」とつぶやくと、雲が月を隠し、「やはり今日か」と覚悟を決めたのだとか。
神様も自分たちの子孫に対して意地悪なものです。皇室の先祖は天照大神の系統とされていますし、月=月読尊だから関係ないんですかね。

天皇が御幸以外で御所を出るなど、本来ならそれだけで大騒ぎになるはずのことです。ですから、事は慎重に進められましたが、安倍晴明にはバレていたとか。
晴明の屋敷の前を通ったとき、目に見えないもの(式神?)が花山天皇一行の前にやってきて、晴明に「たった今そこを通っていきました」と報告したそうです。

よくある“晴明スゲー伝説”の一つかもしれませんが、晴明は何をしたかったんですかね。式神の報告によっては、すぐ参内して花山天皇を止めようとしたのでしょうか。

月岡芳年「花山寺の月」(/wikipediaより引用

月岡芳年「花山寺の月」(/wikipediaより引用

 

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そして「寛和の変」と呼ばれることに

花山天皇一行は無事元慶寺にたどり着き、出家も滞りなく果たせました。
道兼は「父(兼家)に報告してきます」と言って出ていってしまい、花山天皇は「謀られた」と思ったものの、とき既に遅し。
天皇の外戚として権力を握っていた藤原義懐らは、慌てて花山天皇を探したものの、既に出家した後と知り、共に仏門へ入ったといいます。

この事件は「寛和の変」(かんなのへん)ともいわれました。
ドンパチが起きたわけではありませんが、異変といえば確かに異変ですよね。

花山天皇は在位中から「アホとちゃうか」(超訳)という評判でしたが、絵画や和歌などの芸術的才能には恵まれていたそうですし、当時の評価通りとは言えない気がします。「拾遺和歌集」を自ら編纂した説もありますので、周囲からも文化的な人物と思われていたのでしょう。
とすれば、「政治的センスに欠ける」くらいの評価が適切のような。もしくは「花山天皇をアホ扱いしたい人の声がデカかっただけ」ということでしょうね。

出家後は摂津の中山寺(現・兵庫県宝塚市)で紛失したと思われていた“観音霊場三十三ヶ所の宝印”を見つけ出し、自らこの法印の霊場を巡礼して、強い法力を身につけたといいます。「お宝を見つけてパワーアップした」って書くと、なんだかRPGの主人公みたいですね。

 

藤原道長の権力が絶大なものとなり歴史は進んだ

現在でも花山天皇の巡った場所が「西国三十三所巡礼」として伝わっており、各地に花山天皇の御製が書かれているとか。
花山天皇はこの巡礼の中で、摂津国の東光山(現・兵庫県三田市)を特に気に入り、巡礼が終わって京に帰るまでの十数年間を過ごしたといいます。
そのため、東光山には御廟所も作られ、西国三十三所巡礼の番外霊場ともなりました。

が、おそらく巡礼から帰京した後に少々良からぬ事件が起きてしまいます。
花山天皇が29歳のとき、こっそり通っていた女性の屋敷で、とある貴族に恋敵と勘違いされて矢を射かけられてしまったのです。
相手は藤原伊周(これちか)と隆家の兄弟。伊周のほうが花山天皇のお相手の姉に通っていたため、勘違いされたといわれています。それにしたって、いきなり物理的手段に出なくてもいいものを……。

運悪く、伊周は叔父の藤原道長と大政争を繰り広げていたとき。
花山天皇は出家の身で煩悩を捨てきれていないことへの後ろめたさや、単純に命を落としかけたという恐怖で、自らこの件を表沙汰にすることはありませんでしたが、人の口に戸は立てられません。
どこからか噂が立ち、下手人は誰それだという話も広まり、伊周・隆家は流罪となります。
そしてこの二人の姉・妹である、ときの皇后・定子は目の前で兄弟が引き立てられていくのを見て、自らその場で髪を切って仏門に入るほどの衝撃を受けています。

これにより道長の立場は絶大なものとなり、また歴史が進んでいくことになるわけです。
花山天皇自身にはあまり責任はありませんが、なんとも後味の悪い話ですね。

その後、花山天皇は再び修行に励んだものか、12年後に亡くなるまで特に逸話はないようです。
40歳で亡くなったことになりますから、当時の寿命としてもおかしくはないですし。そのせいで、襲撃された事件のことが余計に目立つのかもしれません。

長月 七紀・記
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参考:花山天皇/wikipedia

 




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