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やっぱり天才!? 織田信長の生涯とは

その日、歴史が動いた 長宗我部

関ヶ原の戦いで負けた長宗我部盛親 その後、土佐では浦戸一揆が勃発し、幕末まで遺恨を残す

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会社勤めをしていると、一度や二度は異動などの際、後任者に引き継ぎをしなくてはいけませんよね。
ところが、性格が合わなかったり、想定外の事態になったりして、うまく引き継げないこともままあります。
本日はそんな感じの、戦国末期のお話です。

慶長五年(1600年)12月5日は、浦戸一揆が平定された日です。

この年でこの時期といえば、もちろん関が原の後。この一揆も関が原の戦いに大きく関係している……といいますか、まさにその余波というか。

 

「宰相殿の空弁当」で関ヶ原の戦いに実質参戦できず

浦戸ということで、舞台は四国・土佐(高知県)です。
この時期の土佐の主は、長曽我部盛親。元親の四男ですが、家督を継いだときに一悶着あった上、晩年の父(というか長男・信親の死後)がアレすぎたため、豊臣政権の中ではあまり信用を得られていませんでした。

盛親としては、関が原の戦いで戦功を挙げ、名実ともに長宗我部家の当主であることを認めてもらいたかったようです。
しかし、味方する先を間違えました。盛親は三成、つまり西軍についたのです。
西軍も緒戦では勝利を収めたことがありましたので、「頑張ればイケる。むしろ、ここが俺の腕の見せ所だ!」と意気込んでいたのかもしれません。
さて、ここでおなじみ、関が原の布陣図を見てみましょう。

関ヶ原の戦い布陣図/wikipediaより引用

関ヶ原の戦い布陣図/wikipediaより引用

当日の信親は、手勢を率いて戦場の東南の端にいました。近くにいた西軍の仲間は、長束正家・毛利秀元・吉川広家といったところ(画面右下)。
……おわかりいただけたでしょうか。
盛親が布陣した位置は、手前に吉川広家&毛利秀元がいて、モロに「宰相殿の空弁当」の場面だったのです。
空弁当(通称・空弁)を簡単に説明しますと、家康に通じた吉川広家が動かず、これにより進軍できなかった秀元が、背後の盛親に「早くしろ!」とせっつかれたときに、「今、兵が弁当食ってるから動けんのじゃ!」(超訳)と言い訳したというエピソードです。

このため、正家も盛親もうかつに動けず、気付けばたった半日で勝敗が決まってしまっていました。
盛親は何とか大坂まで逃れ、その間に島津家などから西軍壊滅の経緯などを聞いたといわれています。そして、一度は土佐へ帰りました。

 

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家康に呼び出されると、一時帰国も叶わずそのまま改易

家康が戦後処理を始めると、上方に呼び出された盛親はそのまま改易。土佐で諸々の支度や引き継ぎすることも許されず、そのまま京都に留め置かれることになりました。ちなみに後に大坂の陣へ参加するまで、盛親は京都で寺子屋などをやっていたとも言い伝えられます。

ともかく盛親が土佐へ帰れずにいるとなると、国元では当然、安否が心配になるわけです。
そしてその知らせが来ないまま、「今日から土佐は別の領主のものになるから、お前ら大人しく従うように」なんて使者が来たものですから、長宗我部家の家臣たちが「ハァ?」と反発するのも無理はありません。

彼らは城の引き渡しを拒み、家康の使いが宿にしていた雪蹊寺(せっけいじ)を取り囲みます。現在では、四国八十八ヶ所霊場の一つとしても有名ですね。
実はここは、元親が再興させたお寺でした。しかも元親の法名である「雪蹊恕三大禅定門」から名を取られていますので、長宗我部家にとっては大切なお寺なのです。
家臣たちからすれば、元親の位牌を人(物)質に取るような行為に思えたかもしれません。

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この知らせは家康のもとにも届き、討伐の軍が起こされるかに見えました。
しかし、討伐軍がやってくる前に、肝心の長宗我部家の中で意見が割れてしまいます。
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