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その日、歴史が動いた 真田家

真田信之とは? 昌幸&信繁(幸村)の壮絶キャラに囲まれた兄・真田信之は93歳まで生きた

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超有名な人がいれば、周りの人の陰は薄くなるものです。
しかし、そうした一見地味な人のことも、よくよく調べてみると「実はスゴくね?」と思えることが少なくありません。そして結果的に「一族まるごとチートじゃねーか!」となったりして。
本日はその一例である、あの一族のあの人のお話です。

万治元年(1658年)10月17日は、真田信之が亡くなった日です。

一昔前までは弟の信繁(幸村)の人気に押されたり、父・昌幸のはらぐr……謀略の陰に隠れがちでしたが、最近はドラマ『真田丸』の影響で徐々に知名度や人気が上がってきましたね。
本日は改めて、彼の生涯を見てみましょう。

※「初名は信幸だったが、関が原で父・兄と決別することを示すために”幸”の字を”之”にした」というエピソードがありますが、この記事では最初から”之”のほうで統一させていただきます。
彼の信念を買う、ということでここはひとつ。

【TOP画像】真田信之/Wikipediaより引用

 

長篠の戦いで真田当主が亡くなり昌幸が家督を……

信之は、永禄九年(1566年)に真田昌幸の長男として生まれました。
当時、昌幸は別の家を継いでいたのですが、長篠の戦いで真田家の当主とその弟が亡くなってしまったため、実家に戻り再び真田姓を名乗ることになります。
また、このとき信之は父の長兄・信綱の娘(※大河ドラマではおこう)を妻に迎えました。昌幸にとっては、「もう真田家はワシが当主だし、次はワシの息子だから!」という意思表示ですね。

信之は母の山手殿としばらく武田家に人質として預けられました。そして織田信長の武田征伐の際、上田にいる父・昌幸のもとへ逃げて難を逃れています。
その信長もスグに本能寺の変で倒れ、次は旧武田領を巡る後北条家vs徳川家の争いが始まりました。このとき真田家は後北条家についています。

また、同時に信之は上杉景勝を川中島で攪乱してもいました。このとき川中島の要となる海津城は上杉側のものでしたが、後々”松代城”と名を改め、信之と子孫の居城となります。数奇な縁ですね。

真田昌幸/Wikipediaより引用

真田昌幸/Wikipediaより引用

 

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約185cmの大男が先陣切って突入する!?

しかしその後、親戚や武田遺臣の勧めにより、真田家は後北条家と敵対し、徳川家につきました。信之も騎兵800を率いて城を奪還したといいます。
また、父と力を合わせ、謀略・暗殺・戦闘のあらゆる手段を講じて、真田家の地位を保ちました。

数十年後に弟が家康に切り込んでいったときのエピソードが強烈なので、信之には温厚というイメージが強いようですが、戦の時は率先して敵陣に突っ込むタイプだったそうですよ。血は争えないということですかね。

また、信之所用とされる着物や鎧から、約185cmくらいの身長と推測されています。そんな人が先頭で突っ込んできたらコワイどころの話じゃないですよね。
“長身”で知られる他の戦国武将と比較すると、前田利家<真田信之<加藤清正の順になります。おそらく秀吉時代にこの三人が一堂に会することもあったでしょうけれども、周りの人からすれば「壁がしゃべってる」感じに見えたのではないでしょうか。

閑話休題。
こうして後北条家よりも徳川家寄りになった真田家でしたが、沼田の領有を巡ってまたしても鞍替えし、上杉につくことになりました。
このときの真田家vs徳川家の争いが第一次上田合戦です。信之は上田城の支城・戸石城に入って、徳川軍をおびき寄せ、戦力を分散させて戦いました。

※第一次上田合戦の詳細については【関連記事:第一次上田合戦とは? 真田昌幸が勝利を掴むために仕掛けた「油断と地形、砥石城」】をご覧ください。

 

関ヶ原で兄弟と別れ、弟の篭もる砥石城へ

その後、真田家は上杉景勝を介して豊臣秀吉に臣従し、作戦勝ちを収めます。
家康は昌幸について「あの野郎いつかシメる」(※イメージです)とハラワタ煮えくり返っていたでしょうが、信之の戦ぶりについては賞賛しました。本田忠勝の娘・小松姫と結婚したのも、その現れと思われます。

小田原征伐の際、信之は上野松井田城攻めで戦功を挙げ、その褒美として沼田城をもらい、官位も順調に進んでいきます。
朝鮮の役では半島までの渡海はなく、拠点の名護屋(佐賀県)へは行っています。

そして関が原の戦いでは、妻が徳川家の人間であることから東軍につき、第二次上田合戦にも参加しました。信之については、この辺の動向がよく知られていますね。

【関連記事:決戦!第2次上田城の戦い~なぜ真田昌幸は2度にわたって徳川の大軍を撃退できたか

かつて信之自身の居城だった戸石城に、このときは弟の信繁がこもっています。信之は真田の兵同士が戦うのを避けるために、弟へ使者を出して開城を勧めました。
信繁も開城に応じ、上田城へ入っています。最初からそうすればよかったんじゃ……。

真田信繁/Wikipediaより引用

真田信繁/Wikipediaより引用

 

関が原後は浅間山噴火や天候不順で内政の建て直しに腐心

関が原の後は父が改易になったため、その分と戦功を加味されて上田藩約10万石の大名となります。
ただし上田城は破却を命じられたため、居城は沼田城のままでした。

家康や秀忠は昌幸の処刑を希望しておりましたが、信之の熱意を感じ取った舅・忠勝が「昌幸らを斬るならば、殿と一戦仕る」と家康たちをきょうは……説得したため、九度山への流罪で済みます。
また、信之は日頃節倹していたため、父と弟に仕送りをすることができました。それでも生活は苦しかったようで、昌幸はかの有名な真田紐を編んで売ったり、信之へ「もうちょっと仕送り増やしてくれない?(´・ω・`)」(超訳)という手紙を送ったりもしています。
信之からすれば「ウチも苦しいんだけどな(´・ω・`)」と思ったでしょうね。

当時の上田は戦だけでなく、浅間山の噴火や天候不順で荒れ果てていたので、その再建のためにもお金が必要でした。信之は町並みや灌漑の整備、年貢の減免などによって立て直し、内政面でも才能を見せています。

昌幸が九度山で亡くなったときは葬儀もしたかったようですが、幕府から許可は下りず、涙をのむことになりました。
まあ、葬儀をきっかけ(という名の口実)に真田の旧臣が集まって謀反の企てでもされたら……と考えれば、幕府としてはたまったものじゃありませんからね。

 

孫たちの御家騒動収束を見届け死す

今日でこそ長命だったことでも有名な信之ですが、大坂の役では病気で出陣できなかったため、息子の信吉・信政を出陣させました。
彼らは派手な戦功はなかったものの、しばらく経った元和八年(1622年)に真田家は松代藩に加増・移封され、13万石となっています。

父や弟との決別を除けば順調に見える信之の生涯ですが、最後の最後まで仕事から逃れられない人でもありました。
嫡男・嫡孫に先立たれていたため、明暦元年(1656年)に次男の信政へ家督を譲って隠居したのですが……。すぐに信政も亡くなってしまったため、お家騒動が起きてしまうのです。

具体的には、信政の次男・幸道が家督を継ぐことに対し、信吉の次男・信利が「いや、その理屈はおかしい」と異を唱え、幕府や他の大名も巻き込んで大騒ぎになりました。従兄弟同士なんだからもうちょっと穏便に話し合えと。まあ、血縁者の争いってこじれると長引くもんですよね。

最終的には、信利の領地である沼田を別の藩として独立させる代わりに、三代目の藩主を幸道にすることで落ち着きました。そして、この騒動の終結を見届けるかのように、信之は93歳で亡くなっています。家臣も孫達も、もうちょっと晩年を穏やかに過ごさせてやればいいのに(´・ω・`)

松代藩は信之が来るまでたびたび藩主が変わっていて、落ち着かない状況だったので、領民もこの騒動ではヒヤヒヤしたでしょうね。幸い、この後はずっと真田家で落ち着きました。

幕末では最初から倒幕派に加わり、戊辰戦争を生き延びて爵位を与えられています。こういうのも家風なんですかね。
信之の墓は長野県長野市の大鋒寺ですが、松代町の白鳥神社にも「武靖大明神」の神号で祀られているそうです。「武」はいわずもがな、「靖」は安らかにするという意味があります。

前半生では戦で、後半生は内政で才能を発揮した信之にふさわしい神号といえるでしょうね。

長月 七紀・記



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参考:真田信之/Wikipedia 真田宝物館

 

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