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イギリス その日、歴史が動いた

江戸時代から付いたり離れたりの日英関係 あらためてその歴史を整理してみる

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「歴史は好きだけど、政経は何となく苦手」というのは私だけでしょうか。
学校では科目が分けられているため一緒に学ぶケースはありませんが、歴史=おおむね政治史ですし、大昔にだって政治や経済に関する諸々の問題や教訓があるわけで、決して無関係ではありません。
これが外国とのお付き合いの話になると、より浮き彫りになってきます。「○○年前にこれこれの出来事があって、現代に影響を与えている」ということが多いからです。
今回は日本と長いお付き合いを持つ、あの国との関係を振り返ってみましょう。

元和九年(1624年)1月2日は、平戸にあったイギリス商館が閉鎖された日です。

年明けから景気の悪いことですが、もちろんいきなり決まったわけではありません。
本日はこの件のことも含め、日英関係をサラッと見ていきましょう。

 

航海士ウィリアム・アダムスがきっかけとなり

日英両国のつながりができたのは、慶長五年(1600年)の春のこと。
関が原の戦いの約半年前に、オランダ籍の船に乗っていたイギリス人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)が家康のもとに身を寄せたのがキッカケです。
現在「日英国交樹立○○○周年」というときは、この年を基準にして数えています。後述の通り、130年くらい空白期間があるんですが、細かいことは気にしていないようです。
まあ、それ言っちゃうと第二次世界大戦のときに多くの国と交流が途切れてしまっていますから、70年以上のお付き合いがある国がなくなってしまいますしね。

三浦按針/Wikipediaより引用

それから三年後、今度はジョン・セーリスという東インド会社の人が、イギリス国王ジェームズ1世の親書を持って来日。これを家康が受け取り、国同士のお付き合いが始まりました。
しかし、それから十年後、イギリスは大きなポカをやらかします。
オランダ相手にインドネシアで「アンボイナ事件」を起こすのでした。少々長くなりますが、事件のあらましを説明しておきましょう。

当時のインドネシアはオランダの植民地でした。
が、同時に香辛料の産地として、ヨーロッパにとっては宝の山とみなされていた場所です。そのためイギリスとオランダは、この地の覇権をかけて熾烈(物理)な争いをしていました。
日本人も、交易や商人の護衛を務める傭兵として、多く住んでいたようです。

そんなある日、イギリス軍がオランダの築いた砦を占拠しようという計画を立てていたことがバレてしまいます。元からピリピリしていたところに軍事衝突未遂が起きたわけですから、オランダ人も激おこどころの話ではありません。
オランダ側は、イギリス東インド会社の関係者をただちにとっ捕まえて、身の毛もよだつ拷問の末に計画を自白させ、インドネシアから追い出してしまいました。
これをアンボイナ事件といい、イギリスとオランダが英蘭戦争に突入するキッカケにもなりました。

 

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事件の被害者はイギリスだったが、そもそも火種を作ったのも同国

当時の日本は、オランダとイギリスの両国と交易しておりましたので、当然、英蘭両方の商人がアンボイナ事件のことを日本に伝えます。
そして江戸幕府は検討の結果、「イギリスと国交しててもしょうがなくね? 穏便に出てってもらおう」という結論を出しました。アンボイナ事件での被害者はイギリスですし、日本人も巻き込まれているのですけれども、「そもそも火種を作ったのはイギリスなんだから」と判断したようです。

その他にもこの時期、イギリスとの交易を疑問視する理由がいくつかありました。

・そもそも日英間の貿易であまり儲かっていなかった
・ヨーロッパ人にとって当然の権利(キリスト教信仰など)が江戸幕府にとって良いものではなかった
・アンボイナ事件の前から、当時両方とも平戸にあったイギリス商館とオランダ商館がしょっちゅうケンカをしていた
・イギリスから日本に帰化し、日英両国の仲を取り持っていたウィリアム・アダムス(三浦按針)が亡くなった

こうしてなんだか雰囲気が悪くなってきたため、イギリス東インド会社は「もういいよ! アンタなんかオランダと仲良くしてればいいじゃない!」(※イメージです)と、逆ギレ同然に日本からの撤退を決めました。
江戸幕府も「ウチとしてはキリスト教禁止したいし、どうぞどうぞ」と引き止めることはしていません。
こうして元和九年の年明け早々に、イギリス商館は店じまいをすることになったのです。

半世紀ほどしてイギリス側から「もう一回お付き合いしましょうよー」的なおねだりをしてきていますが、幕府は「前にあんな帰り方した上に、今ポルトガルとももめてるって聞いたよ? ヤダ」(超訳)と断りました。
幕末にもそのくらいハッキリ物を言える度胸があればね……(ボソッ)

 

途絶えていた国交はフェートン号事件によって動き出す

それから130年近く、日本とイギリスの国交はほぼ断絶状態でした。
主に、イギリスがインドという新しい生産・市場を手に入れた&ヨーロッパ・アメリカでの戦争でドタバタしていたためです。

その状態は、19世紀の初頭に起きたフェートン号事件によって破られます。出島のオランダ商館がイギリス船に襲われ、幕府の海防のつたなさがバレてしまったのです。
その状態で例の異国船打払令が出されても、大した抑止力にはならず、日本近海に清(当時の中国)とオランダ以外の船がちょくちょくやってくるようになりました。

そうこうしているうちに今度はアヘン戦争が起き、イギリスの軍事力と外交方針の黒さが明らかになります。

幕府は異国船打払令を撤回し、対外融和路線を探すものの、不平等な日英和親条約を結ばされました。
さらに生麦事件→薩英戦争の流れで薩摩とイギリスがタッグを組んでしまい、あれよあれよという間に倒幕されて明治時代へ。薩摩とイギリスは「江戸幕府ブッコロ!」という点で意気投合した……と見ることもできますね。

条約改正には時間がかかりましたし、ノルマントン号事件(イギリスの船が難破した際、日本人だけを見捨てた事件)などのトラブルもあったものの、岩倉使節団の訪英などによって、明治以降の日英両国は結び付きを強めていきます。

そして明治三十五年(1902年)に日英同盟が結ばれて、イギリスのバックアップを受けた日本は日露戦争に勝つことができました。
それから6年後には、不平等条約も改正されています。

 

EU離脱で対日関係の強化を狙ってる?

しかし、こうして一人前の国として認められることは、ヨーロッパの争いに巻き込まれていくことでもありました。
その最たる例が第一次世界大戦です。

国内では反対の声も強かったものの、日本政府は日英同盟の条項とイギリスの要請に応じ、地中海への海軍派遣や潜水艦対策、ドイツが中国から借りていた青島侵攻などを行います。

しかし第一次世界大戦が終わって二年後には、日英同盟破棄から始まって、どんどん両国の仲が悪くなっていきます。民間でも「アメリカもイギリスもクソ食らえ!」なムードが高まり、そんな団体も発足しました。
そして第二次世界大戦が始まった後、1941年にはイギリスが日英通商航海条約の破棄を通告。日本が真珠湾攻撃と同時に、英領マラヤ(現・マレーシア)を攻撃したことで、ついに全面対決となってしまいます。

戦時中は敵国同士だったので、印象最悪なのは仕方がありません。
戦後も、イギリスの植民地だったミャンマーやインドなどの独立に日本兵が大きく関わったことについて、気に食わないイギリス人が多かったようです。

しかし、徐々に王族・皇族同士のお付き合いやスポーツでの交流によって、双方の印象は回復していきました。その合間に不幸な事故や酷い事件も起きていますけれども……基本的に日英関係は良好だといわれています。

ブレグジットでEUとの関係が怪しくなりつつあること、トランプ大統領就任でアメリカを頼れなくなりそうなことなどもあってか、最近のイギリスは「第二次日英同盟」でもやりたいのかな、と思わせるところがあります。まだあちらの首相が代わったばかりなので、なんとも言えませんが。

もしそういう話になったら、今度はこっちがある程度ふっかけてもいいんじゃないですかね。イギリスに進出している日系企業は約1000社ありますし、イギリスだけでなく英連邦諸国への影響も考えると、日本にとってかなりのメリットが見込めます。

日米・日中関係のニュースが多いですけれども、日英関係についても注目してみると、歴史と現代の接点や影響が見えてきて、面白く感じてくるのではないでしょうか。
歴史をはじめ、文系の学問は「社会に出たら役に立たない」と思われがちですけれども、こういう視点があると、実用的になる……はずです。

長月 七紀・記



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参考:イギリス商館/Wikipedia 日英関係/Wikipedia 外務省

 

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