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江戸時代の大名・豪商たちが憧れた太夫(たゆう)って? 寛永三名妓から見る美女たちの華やかで過酷な生涯

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「この世は地獄」という表現は、文学の中でよく出てきます。
戦場や疫病で荒れ果てた土地など、まさにその通りな状況もありますが、中には「それちょっと悲観的すぎね?」というケースまで、意外と広く使われている表現ですよね。
しかし、中には物理的にも精神的にもまさに地獄な場所もありました。
本日はそうした世界で、数々の逸話を残した人たちのお話です。

延宝六年(1678年)1月7日は、寛永三名妓の一人・初代夕霧太夫が亡くなったとされる日です。

「妓」とつくからには、夜の世界で働いていた女性ということになりますが、その中で一際優れた美貌や芸、人格を持った「大夫」は伝説的な存在でした。今でいうところのスーパーモデルや、ハリウッドスターのようなものです。※江戸時代の吉原遊女は上から「太夫・格子女郎・局女郎・端女郎・切見世女郎」の五階層に分かれておりました(「花魁」もほぼ同義ですが、こちらは18世紀末ごろから使われた説が有力で、次第に遊女全般を指すようになりました)
ちなみに、男性ではいわゆる「岡っ引き」が町娘のあこがれの的だったとか。将軍や大名家といった雲の上に近い人々よりも、人柄が漏れ聞こえてきたり、実際にちょっとでも見かけたことがあるような立場の人が、江戸時代の庶民のヒーローでありヒロインだったんですね。

 

太夫に上り詰めるまでの苦労は苦界そのもの

太夫がいるような、幕府公認のお高い妓楼に通えたのは、大名や豪商といったごく一部の人だけ。
ですから、本当に美女だったのかどうかを知っているのも限られた数人、妓楼の関係者を含めても三ケタにもならないでしょう。

しかし、妓楼の生活を「苦界(くがい)」というように、太夫に上り詰めるまでの苦労は、皆何となく知っていました。だからこそ、「そんな状況で頑張り続けた女は、さぞ美しくて立派なのだろう」ということになるわけです。

現在の夜の世界と同じように、江戸時代の妓楼でも女性たちは芸名を使って働いていました。寛永三名妓は、それぞれ郭の中で特に優れた女性にだけ襲名を許される名前です。
だから“初代”なんですね。
といっても初代夕霧太夫の場合は、本名まで伝わっています。「照」というお名前だったそうです。生まれや妓楼に入った経緯ははっきりしませんが、一説には京都市右京区あたりの出身で、扇屋という妓楼に入ったといわれています。
そして扇屋が大坂に移転したため、「大坂の美女といえば夕霧太夫」と呼ばれるまでになったとか。

美女であれば話のネタにもされやすいもので、夕霧太夫の死後、彼女を巡るストーリーの歌舞伎や浄瑠璃の演目がたくさん作られました。

よしながふみ先生の「大奥」でも、江島生島事件のきっかけとなる場面で「夕霧名残の正月」が演じられていましたね。タイトルをパッとみた感じだと、源氏物語の夕霧(光源氏の息子)を思い浮かべる人もいるかもしれませんが、この「夕霧」は夕霧太夫のことです。

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二代目吉野太夫は豪商へ、高尾太夫は伊達家へ

さて、寛永三名妓の他の二人についても触れておきましょう。

・二代目吉野太夫

夕霧太夫同様、京都に生まれて京都の妓楼に入った人です。
「吉野」というのもまた世襲される名前なのですが、中でも二代目を襲名した女性が才色兼備で知られています。

彼女は小さい頃から妓女の見習い・世話係である「禿(かむろ・ハゲではない)」として妓楼に入り、14歳で妓女として最高の位である太夫になったといわれています。
彼女がいつ頃から客を取るようになったのかは定かではありません。禿の後に「新造(しんぞう)」と呼ばれる見習い期間があり、17歳くらいでデビューするのが平均だったので、二代目吉野太夫はかなり早い年齢でお座敷に出ていたと思われます。成長が早くて大人っぽい感じの人だったのかもしれませんね。

二代目吉野太夫は和歌や音楽はもちろん、書や茶・香・華道にも優れ、囲碁やすごろくといった遊びも極めていたとされます。外見だけでなく、知性の成長も早かったのでしょうか。
もちろん美貌もかなりのもので、「寝起き姿でも他の太夫と一線を画していた」とか、「名声が明(当時の中国)まで届いた」といわれるほどでした。

それだけに競争率も非常に高く、後陽成天皇の皇子で近衛家に入った近衛信尋と、豪商かつ文化人である灰屋紹益が取り合い、最終的に吉野は紹益に買われる形で郭を出ました。
信尋は非常に落胆したといわれていますが、もしかすると近衛家や皇室・宮廷の誰かが紹益に有利になるよう仕向けたかもしれませんね。臣下になったとはいえ、皇室の血を引く人が娼妓を身請けするというのは、あまり好ましい話ではなかったでしょうし。
まあ、当時の公家や皇室の困窮ぶりからして、ただ単に信尋より紹益のほうがお金を出せた可能性も高いですが。夜の世界は、昼間にも増して金の力が物を言いますからねえ。

吉野はそれから12年ほど人の妻として過ごし、穏やかに亡くなったようです。

・高尾太夫

こちらは上記の二人とは違い、江戸の吉原で高名だった娼妓の世襲名です。
何代目まで続いたのかは定かではなく、少ないものだと6代説、多いものだと11代説まであります。ちょっと幅広すぎやしませんかね。
歌舞伎のように確実に代々受け継がれていくものではなく、「この名にふさわしい者が現れたら襲名させる」というスタイルだったので、「あれ、この子は何代目だっけ?」みたいな感じだったのでしょうか。
一方で、「誰それに身請けされました」という話が多いのも、代々の高尾太夫の特徴です。

例えば、二代目の高尾太夫は仙台藩の三代目・伊達綱宗に身請けされたといわれています。「仲睦まじく暮らしました」という説と、「川遊びの際に綱宗の機嫌を損ねて惨殺された」という酷すぎる説の二つがあるので、幸せだったかどうかはわかりかねますが。
いくらなんでも落差がありすぎやしませんかね……。

また、八代将軍・吉宗の頃にいたとされる六代目・七代目の高尾太夫は、いずれも大名に身請けされたといわれています。
そこまではいいものの、身請けした大名が「このご時世に大枚はたいて女を買うとはいいご身分だな^^」(※イメージです)と吉宗に怒られ、僻地に移封されたとか、隠居させられたというエピソードを持ちます。
あまりにも話が似すぎているので、「同じ人物に対する別の説なのでは?」ともいわれています。
襲名という制度は誇り高いものでもありますが、こういうときにはややこしいですね。

伊達藩3代藩主・伊達綱宗/Wikipediaより引用

 

明治の元勲たちは元妓女を娶るケースも多かった

夕霧太夫や吉野太夫もそうですが、なまじ皆のあこがれであるだけに、憶測が憶測を呼んで、挙句の果てに芝居に仕立て上げられ、いつしか作り話のほうがメジャーになり、さらにそっちのほうが真実だと思われるようになってしまうのですから、世知辛いものです。
中には、太夫を情け深く誠実な女性と描く話もありますが、数としては多くありません。

彼女たちは、女の地獄と称される妓楼の中で、美貌だけでなく誇りと芸によって確たる自我を持っていたからこそ、最高位である太夫になったのでしょうね。
明治の元勲の妻に元妓女というケースが多いことからしても、夜のお勤めや芸事だけでなく、しっかりとした考えを持っていた女性は珍しくなかったはずです。

太夫にまでなれなかった妓女たちの多くが不幸な最期を遂げたといわれていますから、せめて太夫になった人だけでも、年期明けや身請けの後は穏やかに過ごせていたことを願うばかり……。

長月 七紀・記

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参考:国士大辞典 夕霧太夫/Wikipedia 吉野太夫/Wikipedia 高尾太夫/Wikipedia

 

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