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前田利長騎馬像高岡古城公園

やっぱり天才!? 織田信長の生涯とは

その日、歴史が動いた 前田家

前田利長&利常兄弟 偉大なる父・利家を持った2人は関係良好だった?

更新日:

 

【記事概略】
加賀百万石の第2代藩主・前田利長と、3代藩主の利常。
織田&豊臣政権で中枢に位置していた前田利家を父に持つ2人は、いかにして大藩を継ぎ、運営していったか? 両名の関係は良好だったか?
エピソードから利長&利常の人柄、関係を推し量ってみたところ……。

【本文】
大名家の兄弟といえば、家督争いがつきものです。本人同士の仲が悪くなくても、周りが囃し立てることもありますしね……。
しかし、悪い話ばかりが目立つのは、逆に「うまくいったケースほど記録が残らない」からなのかもしれません。
本日はそんな視点で、とある大大名家の内側を少々推測してみましょう。

永禄五年(1562年)1月12日は、前田利長が誕生した日です。

利家の長男であり、その後継ぎとして知られている人ですが、江戸時代にはほとんど彼の話が出てきません。代わって話題に登るのは、鼻毛の殿様・利常ばかりです。一体、いつ世代交代が起きたのでしょうか。
その辺も絡めつつ、今回は利長の生涯をみていきましょう。

前田利長/wikipediaより引用

【TOP画像】前田利長像(高岡古城公園)

19歳で信長の娘(永姫・このとき7歳)を娶った利長 

利長が生まれた頃は、前田家も織田家もまだまだ黎明期にあたりました。
利家は織田家に帰参を許されて1年程度しか経っていませんでしたし、織田信長はまだ清洲同盟を結ぶ直前。しかし、その中で次代を担うであろう男子が生まれたことは、利家にとっても信長にとっても喜ばしいことでした。

利長は幼いうちから安土城で信長に仕え、19歳で信長の四女・永姫を正室にもらっています。信長が自分の娘を与えるということは、「お前には期待してるから、よく励めよ」というサイン。利長は晴れがましく、また気の引き締まるような気持ちになったことでしょう……たとえ、当時永姫がたった7歳だったとしても。

これは別に利長がそういう趣味だったとか、信長がテキトーに選んだというわけではなく、信長の娘の中で永姫より年上の人は、既に全員お嫁に行ってしまっていたからです。長女の徳姫は徳川家康、次女の冬姫は蒲生氏郷、三女の藤姫(秀子)は筒井定次に……という感じでした。

しかし婚儀の翌年、舅の信長は本能寺に斃れてしまいます。

 

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本能寺の変が勃発! このとき利長の動向は不明なり……

利長は近江で本能寺の一報を聞き、直ちに永姫を前田家の領地へ逃しています。
むしろ利長がその後どうしていたのかがわかっていません。信長次男・信雄に合流したとも、蒲生賢秀(氏郷のトーチャン)と一緒に蒲生家の本拠・日野城にいたともされています。
普通こういうときって、奥さんの動向がわからなくなるものですけどね。不思議なこともあるもんです。

その後は父とともに柴田勝家につき、秀吉と敵対することになります。しかし急転直下で前田家ごと秀吉についた後、利家は利長をまつに預けて(置いて)行こうとし、まつはこれに反対しました。
利長の手勢はたった2騎しかいなかったそうですから、利家は兵の不足や、自分が討ち取られたときのことを案じたのでしょうか。
一方、まつには「ここで嫡男を残して行ったら、秀吉殿に疑われてしまう」と思えたのでしょう。家族ぐるみで付き合いの長い者同士ですし、悪い言い方をすれば前田家は鞍替えしたばかり。保身に走るより、精一杯秀吉に尽くしたほうが家のため、とまつが考えてもおかしくありません。

勝家が自刃した後は、父共々正式に秀吉に仕え、九州征伐や小田原征伐で戦功を挙げていきます。その甲斐あって、26歳のときには豊臣姓を許されました。
しかし、それだけに利家が亡くなった後は、五大老の一角と秀頼の傅役という重責を担うことになります。

 

機転を利かせたまつが人質となり江戸へ

利家は「俺の死後、三年は上方から離れるな」と遺言を残して世を去りました。
利家が亡くなったとき秀頼は7歳。ということは、三年経てば10歳、数え年なら12歳になります。秀頼は3歳で元服させられていましたが、12歳であれば他の大名家でも元服する頃合。
つまり、まだまだ幼いとはいえ、秀頼が名実ともに豊臣家を担っていくことができる年齢ということになります。利家は「それまで秀頼様のそばを離れるな」と言いたかったのでしょう。

ですが、利長にはそこまでの意図がわかりませんでした。いや、わかっていたのかもしれません。
いずれにせよ、相手はあの家康。なんだかんだと言いくるめられ、利長は父の死から半年後に金沢へ帰ってしまいました。

その隙に利長と浅野長政などが家康の暗殺容疑をかけられ、前田家も征伐寸前まで行っています。
ここで機転を利かせたのが、利家の死後、仏門に入っていたまつ(芳春院)でした。彼女は自ら「私が江戸へ行けば、家康は前田家を潰すことはできないでしょう」と、人質になることを申し出たのです。

人質というのは、相手が手を出してきたときのために生かしておくもの。この場合だと前田家のほうから家康にケンカを売らない限り、まつの身に何か起こることはありえません。
傷心の上に老いた母を差し出すことを、利長は最初ためらいました。しかし、熟考の末、他に方法がないことを悟り、まつを江戸へ送ります。

加えて、異母弟で養子にしていた利常と、家康の孫(秀忠の娘)の珠姫を結婚させました。人質を出した上に縁戚になったからには、前田家も徳川家も互いに手荒なことはできません。
むろん大きなデメリットもあり、力関係の上で前田家は、徳川家の傘下に入ったも同然になりました。

前田利常/wikipediaより引用

 

妹・豪姫の夫である宇喜多秀家の助命を嘆願

関が原の戦いに関して、利長の意図ははっきりしていません。
出陣はしているのですが、「丹羽長重を討とうとした」のか、「西軍本隊に対処するためだった」のか、その真意を測りかねるのです。
丹羽軍と戦っているうちに本戦の決着がついてしまったものの、西軍方の長重と戦っていた前田家に対して、家康からの処罰は受けずに済みました。
途中でサボり始めた弟・利政の領地6万3000石を与えられ、前田家は122万石もの大大名となります。
これは家康が「一応お前の家は信用しといてやるよ」と言ったも同然でした。

利長はそれを読みとったのか、関が原の後に少々強気な行動に出ています。
薩摩へ逃れていた宇喜多秀家の助命を嘆願したり、秀忠の乳兄弟をブッコロしてトンズラしていた本多政重(正信の次男)を召し抱えたりしているのです。
秀家の正室・豪姫は利長の妹ですので、前者は自然なことですが、後者はなかなかの度胸と言わざるを得ません。

政重はその後、一度前田家を離れて上杉家にいたことがあるのですが、利長が隠居してから出戻ってきています。その後はまだ20代前半の利常をよく支えました。
このとき藤堂高虎が間に入って話をまとめたといわれています。さすが転職王。

 

鼻毛だけでなく利常には情の濃さがうかがえる逸話が多い

利長と利常二人に関するエピソードで目立つものはありません。ただし、少しだけ推測できそうなポイントはあります。

利長は大坂冬の陣の半年ほど前に亡くなったため、冬・夏ともに利常が参戦しました。そして夏の陣の後、家康は利常に「恩賞として四国まるごとやるよ」と言われたのですが、利常はこれを断固拒否しているのです。
豊臣家を滅ぼして絶頂にある(ただし一年後には死ぬ)家康に堂々と逆らうのは、どう見ても得策ではありません。その危険を犯してまで利常が四国行きを拒んだのは、利家や利長が守った加賀の地を、自分も守りたいと思ったからなのではないでしょうか。
もちろん、江戸から離れれば離れるほどデメリットが大きいですし、そもそも国替えにはトラブルがつきものですので、そういう点を避けただけ……という可能性も高いですけれども。

そこで気になってくるのが、「利常には情の濃さがうかがえる逸話が多い」というところです。
利常というと、鼻毛を伸ばしていた話や傾いた言動に関するものが有名ですが、それ以外の逸話ももちろんあります。

中でも、正室である珠姫との仲睦まじさや、「関が原の際、丹羽家に人質として行っていた頃、丹羽長秀が手ずから梨を剥いて食べさせてくれたことに感謝し、晩年まで梨を食べるたびにそのことを思い出していた」という話からは、利常がいかに細やかな心の持ち主であったかをうかがい知ることができるでしょう。

ただし、このことは家康にも見抜かれていました。
死の床にある家康を利常が見舞った際、「お前のことは何度もブッコロそうと思ったけど、秀忠がその度に嫌がるから生かしておいた。だから、秀忠によくよく感謝するように(そしてこれからも裏切るなよ)」と言われています。利常が恩を全く感じないようなヤツだったら、家康はもっとぶっとい釘を差したことでしょう。

前田利常開基の瑞龍寺(富山県高岡市)・仏殿

利常は同母兄弟がおらず、年の近い異母兄弟との関係や、自身の生母である千代保(寿福院)とまつとの仲の悪さで気まずい思いをすることもしょっちゅうでした。
その利常が加賀にこだわったのは、長兄である利長との関係が悪くなかったことや、感謝していた証拠になるのではないでしょうか。

利長と利常は32歳差(!)ですから、兄弟というより親子ですし、年の近い兄弟よりも良好な関係であった可能性は低くないと思われます。
まあ、ホントのところは当事者同士しかわかりませんけれども。

加賀百万石の礎に、そういう温かい裏話があってもいいのではないか……と思った次第です。

わざと鼻毛を伸ばしたという武者・前田利常(富永商太・絵)

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長月 七紀・記
参考:前田利長/wikipedia 前田利常/wikipedia

 

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