音吉

モリソン号と音吉/wikipediaより引用

江戸時代

江戸時代にイギリス人となった音吉~帰国叶わず数奇な漂流人生を送る

「ふるさと」について、皆様はどのような気持ちを抱いてらっしゃいますか?

「毎年帰ってるよ」という方もいれば、「あんまりいい思い出がないな……」という方まで、さまざまでしょうが、なんとなく懐かしいという気分は共通かと思われます。

本日はふるさとについて、常人とは一風変わった印象を持っていたと思われる、とある一般人に注目。

慶応三年(1867年)1月18日は、音吉(おときち)という船乗りが亡くなった日です。

名字がない=庶民ということになりますが、彼は当時の武士や公家などのお偉いさんでも体験しないような、数奇かつ壮大な人生を送りました。

生い立ちから振り返ってみましょう。

 


1年2ヶ月も太平洋をさまよい米国西海岸へ

音吉は、現在の愛知県知多郡美浜町に生まれ、江戸へ向かう商船で働いていたといわれています。

しかし天保三年(1832年)の秋、遠州沖(静岡県沖)で暴風に遭い、1年2ヶ月もの間太平洋をさまようことに……。

その間、食料とか水はどうしてたんですかね。

ジョン万次郎は、江戸から500km以上離れた鳥島に流れ着き、そこでアホウドリなどを食しながら生き永らえましたが、音吉はずっと船上で漂流していたようなので、食料確保が相当厳しそうです。

まぁ、魚をとって、雨水でしのいでいたとしか考えられませんが。

※以下はジョン万次郎の生涯まとめ記事となります

ジョン万次郎
頭脳明晰ジョン万次郎 14才で無人島に漂流 アメリカで学を修めて帰国

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こんな調子ですから、当然ただでは済まず、生き残ったのは音吉と岩吉、久吉という、偶然「吉」の字がつく三名だけ。

たどり着いたのは、なんとアメリカ西海岸の北端、フラッタリー岬です。

 


珍しい奴隷としてイギリスへ

フラッタリー岬とは、現在ではカナダとの国境にあたるところで、当時は僻地もいいところ。

運良く三人はインディアンに拾われたのですが、それで万々歳とはいきませんでした。

インディアンたちは音吉らを「珍しい奴隷」として使い、その後、イギリスの商社・ハドソン湾会社に売り飛ばしたのです。

しかし、これが結果としては良い方向に働きました。

ハドソン湾会社は「どうやらこの奴隷たちは日本の漂流民らしい」ということを知り、ロンドンへ連絡して「本国に返してやるべきだろう」と言ってくれたのです。

「なんだ良い奴じゃん」と思いたいところですが、残念ながらそうではありません。

当時イギリスは日本を開国させるべくアレコレやっていたので、「漂流民を届けてやれば、交渉の場くらいは作ってくれるだろう」という打算がありました。

夢のない話ですね。まぁ、国益なんてそんなもんでしょう。

ともかく、これで帰れる……そう思いたいところですが……。

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