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「最後の大名」林忠崇が熱い! 辞世の句なんぞ(73年前の)明治元年に詠んだわい

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洋の東西を問わず、どの時代でもたまに「スカッとするような言動をやった(やる)人」というのはいますよね。後世の人々にとっても好ましく映ることが多く、知名度が高くなることが多いものです。
本日は現在そういった途上にある……と思われる、とある殿様のお話。

昭和十六年(1941年)1月22日は、「最後の大名」と呼ばれた林忠崇(ただたか)が亡くなった日です。

この日付は誤植ではありません、誤植ではありません。本当に大切なことなので二回言いました。
そもそも忠崇の生まれた年が嘉永元年(1848年)ですから、長命であることは間違いないにせよ、非現実的な数字でもなかったりします。
まずは彼の背景を簡単に説明するところからはじめましょう。

「最後の大名」こと林忠崇さん/wikipediaより引用

 

幕府に忠誠を誓い、有事に備えた林忠崇

忠崇は、現在の千葉県木更津市あたりにあった請西(じょうざい)藩の藩主でした。
林家は室町時代から松平家に仕えていた譜代の家柄で、江戸時代には旗本として、引き続き徳川本家に仕えていました。
そして十一代将軍・徳川家斉の頃に林家の当主が気に入られて昇進、若年寄(将来の老中候補)となって貝淵藩(かいふちはん)が作られ、藩主となっています。
その後、家斉の死去や天保の改革などのすったもんだの末、藩の中枢を請西に移して「請西藩」と呼ばれるようになりました。

忠崇は請西藩の四代目にあたります。おじである三代藩主が急死→嫡男がまだ若いから、という理由で中継ぎとして藩主となった流れですが、小さい頃から文武に優れ、幕閣にも気に入られて「将来は老中に」と期待されていたそうです。

慶応三年(1867年)に大政奉還がされると、忠崇は西洋式の武器導入や、それに伴う訓練などを行い、有事に備えました。幕閣の覚えがめでたいということは、将軍にも知られていたわけで、そうなると当然忠崇のほうも幕府の中枢に親近感や忠誠心を持っているわけです。

その状態で戊辰戦争が始まったので、いよいよ日頃の成果を発揮しようと意気込みました。

 

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徳川慶喜が戦闘を放棄した!? よし、オレは藩主を辞める!

しかし! 状況は急変します。
「(当の将軍である)慶喜が戦闘を放棄して大坂から船で江戸へ逃げた」と知らされて判断に迷うことになったのです。

船で大坂を脱出する慶喜を描いた月岡芳年の錦絵/wikipediaより引用

忠崇としては最後まで将軍に忠誠を尽くしたいと思っていましたが、それでは官軍に逆らうことになり、領民や藩士を巻き添えにしてしまうおそれがあります。
お世辞にも幕府軍の勝利が見込めない状態で、敗軍の将だけでなく民がどんな扱いを受けるか……。
主君としては、そこを考えねばなりません。

熟考の末、忠崇はウルトラCの手段を取ります。
「俺は藩主をやめるぞ、ジョ(ry」
そう叫んだかどうかは知りませんが、なんと藩主自ら脱藩し、志を同じくする藩士数十名とともに幕府軍の遊撃隊に参加したのです。
なんというリアル無双。
「幕末無双」なんてゲームが出たら、主人公になってもおかしくありません(褒めすぎ?)

きっと前世は東ローマ帝国最後の皇帝・コンスタンティノス11世(コンスタンティノープル陥落の際、オスマン帝国軍に突撃して討ち死にした人)だったのでしょう。

 

敗戦後は20年以上も苦しい生活が続くも他の旧藩士たちの嘆願により

こうして残された藩士や領民はお咎めを受けずに済みましたが、当然のことながら請西藩は改易となりました。

忠崇たちは館山から相模湾に上陸し、箱根・伊豆で戦った後、東北へ移ってさらに転戦。しかし奥羽越列藩同盟の盟主・仙台藩が降伏したこと、徳川家の存続が約束されたと聞き、忠崇は潮時と見て新政府軍に降伏しました。
きちんと引き際を決めているあたり、やはり英邁な人ですね。

林家は甥の忠弘が継ぎ、士族として300石をもらえましたが、忠崇自身は赦免の後も困窮しました。
開拓に行ったり、東京や大阪で下級役人として働いたり、はたまた函館の商家で働いたり、いろいろな職をやっていた時期があります。
剣術師範や警察のほうが向いている気がしますが、そうすると「アイツ反乱でも起こす気か?」と疑われるかもしれない、と考えたのかもしれません。斎藤一あたりと知り合えていたら、ツテでそういった仕事に就けたかもしれませんが。

そうして20年以上も苦しい生活をした後の明治二十六年(1893年)、他の旧藩士たちの嘆願によって、林家の家名復興が認められました。
忠弘は男爵を、忠崇は従五位を授けられ、宮内省(宮内庁の前身)や日光東照宮などに勤務。もう少し早ければ、同じく日光東照宮の宮司を務めていた松平容保とあれこれ語らう機会もあったかもしれませんね。
忠崇が日光東照宮に行った頃には、容保は東京で療養中、もしくは既に亡くなっていた可能性が高いので、おそらく名前を聞くくらいだったでしょうが。

その後は娘夫婦とともに静かな暮らしを送り、昭和十六年(1941年)92歳まで長生きした……というわけです。

 

辞世の句は明治元年にやったから、今はない

最期まで頭はしっかりしており、「辞世の句はありますか」と尋ねられたときは、「(73年前の)明治元年にやったから、今はない」と答えたといいます。カッコイイ。
ちなみにその73年越しの辞世の句は……。

真心の あるかなきかは ほふり出す 腹の血しおの 色にこそ知れ

訳する必要はないほど平易な歌ですが、書き添えるとすれば「(これから切腹する)私の腹から出る血の色を見れば、真心があるかどうかはわかってもらえるだろう」というところでしょうか。
いかにも戊辰戦争時の写真そのままの、忠義に厚い青年の辞世という感がありますね。晩年まで、忠崇はそういう考えの持ち主だったのでしょう。

辞世として詠んだものではありませんが、晩年の作として「琴となり 下駄となるのも 桐の運」という句もあります。
こちらは「同じ桐の木でも、室内で愛でながら使われる琴になるものも、屋外で日常の役に立つ下駄になるものもある(だから人間も、同じ生まれでもエラくなる人もいれば、そうでない人もいる)」という感じですかね。

幕末・明治・大正・昭和と生きてきて、武家の人の中にも総理大臣その他高官まで上り詰めた人もいれば、自分のように市井の一個人として生きている者もいるのだ、と表したかったのかもしれません。
もう少し深く推量するとすれば、「だから、武家が守ってきたものも大切にしてやってくれ」という願いもこもっているような気がします。

最近ではじわじわと知名度が上がってきましたし、そのうち小説や映画などの主人公に抜擢されて、人気が出てくるかもしれませんね。
大河ドラマとなると、「八重の桜」と時期がまるかぶりしてしまうので、しばらくは難しいかもしれませんが。

長月 七紀・記

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参考:林忠崇/wikipedia 今日は何の日?徒然日記

 

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