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その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代

民俗学者・宮本常一が残した庶民の歴史 時の流れに埋もれゆく人々に当てた光

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教科書で習う歴史は、多くの場合は「過去の政治史」ですよね。
しかし、政治を行うということは、一般民衆をまとめて秩序ある社会を作らねばならないということであり、為政者よりもそれに従う人のほうが多いということになります。
つまりは、一般民衆の動向もまた、歴史の一部であることに変わりありません。
本日はその点を最重視した、とある学者さんのお話です。

昭和五十六年(1981年)1月30日は、民俗学者の宮本常一が亡くなった日です。

近年の方ですので、ご記憶の方も多いでしょうか。
学者さんというと、ほとんどの方は特定のテーマや地域に的を絞って深く研究をしていくものですが、宮本の場合はひと味もふた味も違います。
文字通り日本中をくまなく渡り歩き、文字に記されたものだけでなく、その土地に住む人々がずっと語り伝えてきたことを最重視していました。そのため民家に泊まったことも数知れず。
しかし、一体どうしてそういったスタイルを採るようになったのでしょう? 彼の生い立ちから、その辺を探りつつ話を進めて参りましょう。

【TOP画像】宮本常一―民俗学の旅 (人間の記録):日本図書センター

 

16歳で大阪へ 市井の歴史に興味を抱く

宮本は、明治四十年(1907年)に山口県周防大島の農家で生まれました。
裕福な家ではなかったようですが、僧侶や貧しい人を泊める「善根宿」も行っていたといいますので、両親も善良な心の持ち主だったのでしょう。

家業にはあまり気が進まなかったのか、宮本は16歳で「楽な生活をできるようになりたい。そのために都会で勉強しよう」と志して大阪へやってきます。
当初は何を学ぶべきかもはっきりしていないような状態ながら、大阪暮らしの中でさまざまな人に助けられ、市井の人々の生活とその背景にある歴史に興味を抱くようになりました。
おそらくは、善根宿という性質上、実家にいたときから貧しい人や僧侶の話を聞く機会はあったと思われます。将来のことを考えるとき、幼いころ感銘を受けたことを思い出す……ってよくありますし。

その後、一度は郵便局に勤めて、師範学校(現在の教育学部にあたる、教師育成のための学校)を卒業し、教師になりました。が、力不足を感じてもう一度師範学校に入り、再度先生になるというド根性を披露しています。
こういう人だったからこそ、後述のような旅と研究方法を思いつき、実行できたのかもしれませんね。

そんな中、肺結核にかかり、一時休職して実家のある周防大島で療養生活を送った時期がありました。といっても毎日寝込んでばかりでもなかったらしく、病床で論文を書いて発表しています。これが柳田國男の目に留まり、民俗学と関わるきっかけになりました。

 

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渋沢敬三との出会いから民俗学に傾倒し

幸い二年後に快癒して復職し、昭和十年(1935年)に生涯の師となる渋沢敬三(渋沢栄一の孫・三代目)と出会いました。
渋沢は幼いころ動物学者になりたかったけれども、立場上そうもいかずに断念した……という経緯の持ち主。そのため柳田などとも交流し、宮本をはじめとした民俗学界を支援したと思われます。

渋沢は動物などへの興味関心は忘れておらず、私邸の屋根裏に「アチック・ミューゼアム」という私設博物館(コレクション)を作っていました。これは宮本などの協力者のおかげもあって、だんだん充実していき、後に大阪の国立民族学博物館などの母体となりました。つまり、個人の趣味の範疇を超えた収集や研究が行われていたのです。
大英博物館が医師ハンス・スローンの個人的なコレクションから始まったように、こういった例は珍しくありません。美術館などでも、収集家が亡くなった後「処分するには忍びない」というケースから始まった場所がそこかしこにありますよね。
もったいない精神万歳。

宮本は昭和十二年(1937年)にアチック・ミューゼアムの瀬戸内海巡航に参加し、瀬戸内海の島々を周ったことがきっかけで、深く関わっていくことになりました。
教員を退職し、中国山地を皮切りに民俗学の調査でさまざまな土地を訪れていきます。

 

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北は東北から南は九州まで、庶民に密着

宮本は文字通り日本全国を訪れており、北は東北から南は九州まで、庶民に密着した調査を行いました。
彼が調査であちこちをまわるようになった頃、既に日中戦争が始まっていたのですが、昭和十八年(1943年)までは頻繁に出かけていたといいます。情熱のほどがうかがえますね。

調査旅行を控えていた頃は、奈良県や大阪府の嘱託職員として生計を立てていました。しかし、堺市への空襲でそれまでの取材に関するノートや写真などを多く喪ってもいます。学術と文化の破壊ダメ絶対。
そんな中でも、宮本自身に大きな被害がなかったのは不幸中の幸いでした。

戦後は大阪府農地部農業組合課から嘱託されたことがきっかけとなり、農業や漁業に関する指導や調査を行うようになります。その縁で、壱岐や対馬、五島列島などにも行きました。

そして、昭和三十三年(1958年)に佐渡を調査したことをきっかけに、「歴史的な遺産を村おこしに活用しよう」と提唱し始めます。

拡大解釈するとすれば、全国各地の”ゆるキャラ”も宮本の活動から始まったといえるかもしれません。ゆるキャラって、だいたい歴史上の人物や地元の特産品などが元ネタになっていますからね。
梨のアレが非公式でもあんなに露出しているんですし、かつ江さん(封印された鳥取城の非公式キャラ)もいつかそんな感じで脚光を浴びればなあと思います。当コーナーは歴史的観点からかつ江さんを密かに応援し続けております。

 

タブー視されやすいテーマも扱いながら

宮本は漂泊民・被差別民・性などのタブー視されやすいテーマも扱ったためか、柳田とその派閥からはあまり歓迎されませんでした。
まあなんというか、その……学者先生方の世界も、ちょっとでも主張やポリシーが違うと「あんなヤツ、大した事ねーよヽ('A`)ノ」ということはありそうですし。エライ先生ほど寛容であってほしいというか、そのほうがいいんじゃないかと思うのですが。

その一方で、宮本の主義に同調する人たちもたくさんいました。
宮本は離島振興法の制定に関わっていたり、各地の大学から博士号をもらったりもしています。
韓国の済州島や台湾にも渡ったことがありますが、彼が創刊した雑誌「あるくみるきく」が宮本のスタンスを最もよく表しているかもしれません。実にわかりやすいですね。

教科書で扱われる歴史、そして我々が一般的にイメージする歴史は、記録に基づいているが故に、為政者に関することが多くなりがちです。面白いことも多いものですが、立ち位置が遠すぎて面白みが感じられない方のほうが多いですよね。

これに対し、かつて我々と同じように生きていた一般庶民のことは、ほとんど文書での記録に残りません。代わって、言い伝えや伝説、親から子に受け継がれてきた習慣や行事などが記録の代わりを果たします。
宮本は、後者に歴史と文化の醍醐味を感じたのでしょう。

宮本が研究したものの中には、今後受け継がれることが難しいであろう職業なども存在します。
生活環境の変化などが原因ですし、そういった職に就くのを他人が強要することはできませんが、せめて内容や役割など、伝えられるものは伝えていきたいですね。
世界の記憶(旧訳・記憶遺産)は、そういうことにこそ認定していただきたいものです。

長月 七紀・記

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参考:今日は何の日?徒然日記 宮本常一/wikipedia 渋沢敬三/wikipedia

 




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