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意外と優しい!? 織田信長さん

その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代

マンガの神様・手塚治虫はやっぱり凄すぎ! 天才的頭脳と功績、その人生を振り返る

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しばらく前に「世界がもし100人の村だったら」という文章が話題になりましたよね。
内容としては世界平和をテーマにしたものですが、これになぞらえて「もし自国の歴史に残る人物を10人選ぶとしたら」と考えてみましょう。
皆さんはどんな人を選びますか?
おそらくや聖徳太子、織田信長、明治天皇あたりは多くの人が選ぶのではないかと思うのですが、もしも文化人からチョイスするとしたら、まず間違いなくこの人の名前も候補に挙がると思われます。

1989年(平成元年)2月9日は、漫画の神様・手塚治虫が亡くなった日です。

もはや説明する必要がないほどの有名人ですが、例によって作品よりもご本人に焦点を当ててみたいと思います。
公式サイトやファンの方々によって、研究されている人なので、既にご存じの方も多そうですが、こまけえこたあいいんだよ。

【TOP画像】手塚治虫 マリン・エクスプレス 2 (ホーム社書籍扱コミックス)

 

明治天皇の誕生日に生まれたことから「治」の字を

手塚は、昭和三年(1928年)11月3日に現在の大阪府豊中市に生まれました。
明治天皇の誕生日に生まれたことから、「治」の一字をいただいて名付けられたのだそうです。
もしかしたら「明」になってたかもしれないんですね。たぶん遠慮して二番目の字を使ったのでしょうけれども。

手塚の祖父・太郎は司法官、父・粲(ゆたか)は住友金属の会社員で、芸術とはあまり関わりのない家系でした。
しかし、父はカメラや映写機の愛好家で、日曜日には家でチャップリンの喜劇やディズニーの上映会をしてくれたといいます。

母方の祖父が陸軍中将だったため、母・文子も厳しくしつけられて育ったそうですが、とても漫画好きな人でもありました。そのため、幼い頃から手塚が漫画を描くことを応援してくれていたそうです。
粲もかつて文子に宛てたラブレターに漫画を描いたことがあり、200冊もの漫画本を持っていたという漫画好きでした。
こういう両親のもとに生まれた手塚が、漫画家になったのは必然といえるでしょう。

後年、手塚は父について悪い印象が強く、母はその逆に書いているのですが、これはエディプス・コンプレックス(思春期の男子が父を異様に嫌い、母を慕う)と思われます。
何かのきっかけで父にこっぴどく怒られたとか、そういう嫌な思い出があって、父=悪という連想が焼き付いてしまったのかもしれませんね。手塚の妹は「父は決して厳格ではなく、家族サービスも熱心だった」と言っていたそうですから。

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マンガを描き続けて先生や級友から認められる

手塚5歳のとき、一家は現在の宝塚市に引っ越しました。
宝塚大劇場(宝塚歌劇団の本拠)ほか、行楽地が多く立ち並ぶ風景は、手塚の漫画の世界観に大きく影響したと考えられています。
両親も宝塚の町のあちらこちらへ手塚を連れて行き、宝塚歌劇団の女性たちと交流することも多かったそうです。初恋の女性が宝塚歌劇団の人だった……というのも、いかにもありそうな話ですね。

7歳で現在の大阪教育大学附属池田小学校に入学しましたが、母が東京出身だったことから手塚は近畿方言が話せず、それをキッカケにいじめられていたといいます。
しかし、漫画を描き続けてクラスメイトや先生から認められ、いじめられなくなったそうです。そして、誕生日には20人もの友人が手塚の家にやってくるほどに。子供ってシビアというか現金というか……遠慮がないってことですかね。

小学生の間に同級生から影響を受け、昆虫や天文学などの自然に興味を持ち、自宅の庭で虫を観察するようになりました。
そのうち「オサムシ」という虫の存在を知り、気に入ってペンネームを「治虫(おさむし)」にしたのだそうです。

手塚が中学に上がる頃には戦争が始まっており、世の中もそういう雰囲気になっていきました。
小学校では先生からも漫画を描くことを黙認されていたのですが、中学校では見つかって殴られたことも多々あったとか。
それでも漫画を描き続け、オリジナルの昆虫図鑑なども作っていたそうです。本当に好きなことってやめようがないですものね。

昭和十九年(1944年)には病弱な者向けの強制修練所に、同年9月からは軍需工場に駆り出されました。
この年には徴兵年齢が19歳に引き下げられていたため、手塚もあと3年早く生まれていたら、徴兵されていたでしょう。
その場合、日本のアニメが今日ほどの地位になることはなかったのかもしれませんね。

戦争では手塚も命の危機に直面しています。終戦直前の6月、手塚は勤労奉仕中に大阪大空襲に遭い、頭上に焼夷弾が落とされたことがあるのです。まさに危機一髪。
ただし恐怖は消えず、家にこもってひたすら漫画を描くようになったといいます。当時の状況でよく引きずり出されなかったものですが、元々体が弱かったからでしょうか。

 

医師国家試験を控えながらジャングル大帝や鉄腕アトムを執筆って……

旧制高校を受験したものの不合格となり、その後、大阪帝国大学医学専門部に合格。当時は軍医を早く育てるため、旧制中学の卒業後に入れる医学専門部が設けられていたのです。
手塚も医師に助けられたことがあり、医学専門部を目指したという経緯があったため、合格できたのでしょう。
普通の高校がダメで、医療系に受かるというのも不思議なものですが、やはり興味関心の差でしょうか。

しかし、医師国家試験の受験期間には既に漫画家としてデビューしており、「ジャングル大帝」や「鉄腕アトム」の連載をしていたそうです。
しかもそれで合格しています。頭どうなってんだ(褒め言葉)。

そんな状態だったので、医師と漫画家、どちらとして生きていくかについては相当迷ったようです。最終的には母に相談し「好きなほうをやりなさい」と言われて、漫画家を選んだといわれています。
また、恩師からも「君は、このまま医者になっても患者を殺してしまうだろう。世の中のためにならないから、漫画家になれ」といわれたそうで。
「どんだけ~」とツッコミたくなりますが、手塚自身「患者の顔を見ると、どうしてもカルテに似顔絵を描いてしまう」と、医師には向かないことはわかっていたようです。それはそれでスゴイ話ですが、当時の情勢では「個性派医師」として評価されるより、ぶん殴られるか、クビになるか、両方かの三択だったでしょうね。

また、もしも父親が手塚の回想通り「イヤな親父」だったら、このとき漫画家をやらせてもらえなかったでしょう。この頃はまだ父親が健在ですから。

 

人気作品を生み出す一方でノイローゼになることも

有名なトキワ荘にやってきたのは、昭和二十八年(1953年)のこと。
この頃は東京の出版社に持ち込みを続け、雑誌連載を手がけるようになっていました。それまでは描き下ろし単行本だけで、そのおかげで少々複雑な物語でも割と自由に作ることができていたので、連載で見せるための手法に当初は困ることもあったようです。
しかし、もともと柔軟な頭脳をお持ちなのでしょう。手塚は連載という形式に合わせて、キャラクター作りや構成を変えていくことも対応できるなど、自分のやり方にこだわりすぎないのも大きな長所でした。

その後、人気作品を次々と生み出していくのですが、1950年代後半からは他の漫画家や、劇画人気に押され、ノイローゼになったこともあります。手塚ほどの才能と実績を持つ人間でも、精神の健康を保つのは難しいのです。いわんや凡人をや。いや、凡人ならばそこまで悩まないか……。
手塚は劇画の手法を取り入れたりして、徐々に折り合いをつけていったようです。

また、1960年代から自分のプロダクションに動画部を作り、アニメーション制作を始めます。
上記の通り、幼少期からディズニーに慣れ親しんでいたため、アニメーション制作は一つの目標でした。当時はたった6人のスタッフで、給料や制作費も全て手塚の原稿料で賄われていたといいます。

こうして日本初の30分枠アニメとして「鉄腕アトム」が作られました。

 

スランプからの脱却は、読み切り連載のブラック・ジャック

しかし、まだ日本社会にアニメが完全に受け入れられていたとは言い切れず、次々に他社が進出してきても、アニメ関係者の給料は安いままでした。これは現在も続いていますね。

当時は安くしなければ売れなかったから、手塚も他者もそうしたのですが……手塚存命中から「手塚治虫のせいで、アニメは儲からない」といわれていたそうです。手塚のせいじゃなくてスポンサーや制作会社のお偉いさんのせいですよね。そもそも自分たちの職を生み出してくれたも同然の人を逆恨みするとは、筋違いにもほどがあります。
現在のアニメ業界が過酷な状況にあるのは、実に由々しき事態ですが。まあ、アニメ業界だけじゃなくて他の業界でも多々ある話ですけれどね……。

アニメ制作を成功させた後も、漫画を積極的に発表していた手塚。彼ほどの大漫画家でも、むろん全てがうまくいったわけではありません。
安保闘争など、時勢に影響された暗い内容をテーマにした時期や、業績不振で多額の借金を抱えたこともありました。
1968~1973年の間は、自ら「冬の時代」と称しているほどです。

そんなドン底の中で、「週刊少年チャンピオン」の編集長が最後のチャンスとして連載をさせてくれることになりました。
「ブラック・ジャック」です。

当時の漫画は長く引っ張る形式が多かった中で、ブラック・ジャックはあえて毎回読み切り形式にしたことが読者にとって新鮮に写り、大成功を収めます。
続いて「週刊少年マガジン」で「三つ目がとおる」の連載も始まり、ようやく苦境から脱却。
「売れる作家」とみられると、出版社も積極的に動きます。
過去作の再刊や全集の刊行によって、手塚は「漫画の第一人者」「漫画の神様」として認識されていくのです。

 

【すごいよ! 手塚先生伝説】

さて、ときには6本もの連載を抱えていた手塚は、どのような日常生活を送っていたのでしょうか。
漫画に関することだけでも「超人」の一言です。

・超速読家
手塚は「500ページの本を20分で読む」という離れ業を持っていました。なぜそれで内容が頭に入るのか知りたいところです。むしろそれを描き残して欲しかったものです。
速読家として有名な人物としては司馬遼太郎がいますが、どちらが早かったのでしょうかね。比べるものでもありませんけれども。

・アシスタントの始まり
ときにベタ塗りを編集者などに手伝わせていたのが、漫画家のアシスタントのはしりになったとか。
アシスタントから経験を積んで漫画家になった人も多いですから、「マンガの神様」だけでなく「漫画家の祖父」と言ってもいいかもしれません。

・ショートスリーパー
手塚はいつも一日4時間程度しか眠らず、全盛期は月に数日しか眠らなかったそうです。ナポレオンも驚くでしょうね。
それで60歳まで生きられたのだから不思議なものです。良い子も悪い大人も真似してはいけません。慣れる前に多分死にます。

・頭の回転がおかしい
漫画を描きながら、電話で別の雑誌(当然別の漫画)の話をしていることがあったそうです。
一時期医師と漫画家、二足のわらじを履いていたことからしても、異次元レベルに頭が良かったことは間違いありません。医学界からしても不思議だったと思うんですが、IQ測らなかったんですかね。
こういう人間としておかしい(褒め言葉)生活をしている中でも、手塚は家庭をとても大切にしていました。誕生日とクリスマスには必ず家族でレストランに行き、ディナーを楽しんでいたそうです。また、正月と夏休みにも必ず家族旅行をしていたんだとか。
簡単に真似ができることではありませんが、仕事を言い訳に家族との時間を蔑ろにする人は、一つくらい手塚を見習ったほうがいいでしょうね。家族に限らず、「情けは人のためならず」ですし。

 

病床で描いた「ネオ・ファウスト」は自身の胃がんがテーマ!?

異次元レベルの力を持つ手塚にも、悲しいかな限界は訪れました。
昭和六十三年(1988年)、まず胃を壊して手術を受け、その後も激務を続けていたため、中国でのアニメーションフェスティバル終了直後に倒れてしまったのです。
帰国と同時に半蔵門病院に入院し、診察を受けたところ、重病が明らかに。この時点で胃がんと診断されていたものの、当時は患者本人に病名告知をしないのが普通だったので、手塚は亡くなるまでそのことを知らなかった……ということになっています。

しかし、自分のプロダクションの社長が来たときに「代わりに病状を聞いてきてくれ」と頼み、結果を聞くと
「そうか」
と頷いたそうです。
なんだか本能寺の変で織田信長が(相手が明智ならば)「是非もなし」と答えたというシーンを思い出してしまいましたが、医者である手塚ならば少しは見当もついていたでしょう。

その四日後からは、昏睡から回復する度に「鉛筆をくれ」と言っていたそうですし、最期の言葉も「頼むから仕事をさせてくれ」だったとか。
また、それまで病床で描いていた「ネオ・ファウスト」は、「主要人物が胃がんになり、周囲は知らせないが、本人は気づいていた」というストーリーになっています。

やはり手塚は悟っていたのでしょう。
それでも生きる希望を持っていたからこそ、こうした話を描いて、退院後に「皆あの時教えてくれなかったけど、僕は気づいていたんだよ」と笑って話したかったのではないでしょうか。
「100歳まで描き続けたい」と言っていたそうですし。

仮に、手塚が100歳まで生きていた場合、亡くなるのは2028年。当然、今も漫画やアニメに携わっていたでしょう。もしかしたら、東京オリンピックのプロモーションにも関わったかもしれませんね。
考えても詮無きことではありますが、いろいろと期待した上で、惜しい人だと改めて思ってしまいます。

長月 七紀・記



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参考:手塚治虫/wikipedia TEZUKA PRODUCTION

 

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