借金に苦しみながら学問を頑張り続けた水戸藩 四代徳川宗堯から八代斉昭に引き継がれて幕末へ

 

「家に帰って、家族を愛することです」
かの聖女マザー・テレサが、「世界を平和にするには、どうしたらいいでしょう?」と聞かれたときの返答だそうです。
我々凡人は一瞬「んんっ?」と聞き返したくなってしまいますが、彼女はおそらく「身近なところで、できることからはじめましょう」と言いたかったのでしょう。地に足がついていないと現実味が薄れてしまいますよね。
本日はそんな感じで、とある大名のお家事情を見ていきましょう。

享保十三年(1766年)2月14日は、水戸藩五代藩主・徳川宗翰(むねもと)が亡くなった日です。

水戸藩といえば御三家の一つであり、水戸黄門こと二代藩主・光圀や、十五代・斉昭とその息子である慶喜など、幕末のアレコレでも話題に事欠かない家ですよね。
でも、その間のことはあまり知られていません。今回はそこに着目してみましょう。

 

光圀が大日本史に財を投じ過ぎてからの借金苦

当コーナーでも度々取り上げている通り、江戸時代の大名というのは、武家というより政治家としての仕事と立場を強く持っています。
そして、度重なる災害や借金のため、どこもかしこも家計は火の車。「200年以上も平和だったのは、武士の皆さんがビンボーだったからなんじゃないの?」と思いたくなるような有様です。

御三家や将軍家ならその手のトラブルとは無縁かと思いきや、そうは問屋がおろしません。特に水戸家の場合は、偉大であるはずの光圀、そしてその息子である三代・綱條(つなえだ)の時代に、転がり落ちるどころか自由落下レベルの財政難に陥っていました。
なんでそんなことになったのかといえば、答えは実にシンプル。光圀が「大日本史」の完成を重視するあまり、編纂事業に多大なお金と人手を費やしたからです(TOP画像は大日本史の編纂が行われた彰考館跡・水戸市)。

悪化した財政を改善すべく、跡を継いだ綱條は水戸藩領内に運河を掘り、江戸との交通を便利にすることで、商業を盛んにしようと考えました。しかし、よりによって農繁期に農民を駆り出した上、給料の支払いを渋ったために非難轟々。その上年貢の取り立てを厳しくしたというのですから、これはもう自ら蒔いた種としか。
畑仕事を滞らせておいて、「米を出せ!」も何もないですよねぇ。

最近は「魚は切り身の状態で泳いでいる」と思っている人がいるそうですが、もしかして綱條も「米は土の中からわいて出て来る」とでも思っていたのでしょうか。アイタタタ(´・ω・`)

徳川光圀像

 

四代・五代と頑張ってはみたものの

綱條の次、四代藩主になったのは、初代・頼房の長子である松平頼重の血を引く宗堯(むねたか)でした。何だかややこしいつながりですが、端折って言うと「黄門様のニーチャンの子孫」です。
当初は宗堯も松平姓で、綱條の養子になってから徳川姓になっています。

宗堯は藩主の座を継いだとき、まだ11歳でした。幼い頃から英邁で知られており、かつ非常に真面目で責任感の強い人だったようで、自ら毎日の食事を一汁三菜とし、倹約に努めて財政改善を図っています。
が、まだ体が出来上がっていないような年齢のうちから粗食が常態化していては、健康によくありません。跡継ぎを残すことはできたものの、宗堯は24歳の若さで亡くなってしまっています。

その跡を継いだのが、息子である五代目の宗翰でした。
父親がこんなに早く亡くなったため、宗翰もまた若年で藩主の座に就くことに。数えで3歳、満年齢で1歳という、若いよりも幼い、幼いというより乳飲み子同然のときから、藩主の重責を背負うことになったのです。

もしこれが家綱~家継(四代~七代将軍)の時代であれば、いかに御三家といえど、何かしらの処分があったでしょう。運良く、ときの将軍は八代・吉宗。リアリティと費用削減を身上とする吉宗は、水戸藩を処罰しませんでした。移封するにしろ、後釜の大名をどこかから連れてこなければなりませんし、手間とお金がかかりすぎます。
吉宗は水戸藩の家老たちを江戸城へ呼び、「家中一丸となって宗堯を守り立て、良い藩主になるよう育てよ」と直接命じました。

父の血と家老たちの教育により、成長した宗翰もまた、十代中頃から藩政改革を第一と考えるようになりました。しかし、親族や家老とともにあらゆる策を講じたものの、そう簡単には行きません。
三十代後半になってからは、あまりの行き詰まりようで自暴自棄になり、酒や遊興にふけってしまうようになったといいます。亡くなる二年前には水戸城が全焼するという追い打ちのような出来事もあり、すっかり気落ちしてしまったようです。

遅すぎた反抗期というか、真面目な人が道を踏み外すと歯止めがきかないというか……。宗堯がせめて40歳くらいまで生きていて、宗翰が父から直接教えを受けたり、親子で協力して改革へ取り組んでいたら、もう少し良い結果になったかもしれません。

 

そうだ、徳川宗春だ! お金を使えば経済も回るゼ!

宗翰の死後、長男の治保(はるもり)が六代藩主となりました。このとき15歳でしたので、父のときよりマシとはいえ、やはり若年と呼ぶべき歳です。
財政悪化や父の時代に頓挫した改革事業、そして天明の大飢饉という最悪のコンボをくらいつつも、治保は地道に頑張ります。

藩士の給料半減(借上げ)や、献上金をした者は郷士として取り立てるようにし、さらに「三人以上子供がいる農民は、稗(ひえ)を支給する」として、人口(働き手)と改革事業のためのお金を確保しました。
稗は今でこそ健康食品扱いですが、当時は米を食べられない貧しい人々の主食。現代でいえば「最低限の食料はタダであげるから働いてね」というお達しが出たような感じです。
当時は貧しさから子供を間引くことも珍しくなかったため、それによってますます田畑が荒れることを防ぐための施策でした。

治保はおそらく、父の失敗の原因を自分なりに調べて、よくよく検討したと思われます。
消費促進、つまり領内にお金を回らせるため、芝居や相撲の興行を藩内で行ったのです。尾張藩七代の徳川宗春と似た考えですね。
どこかで宗春のアレコレを聞いて、「ウチでも、試しにそういうのやってみよう。皆気持ちが明るくなって、よく働くようになるかもしれない」と思ったのでしょうか。宗春のことは、色んな所で語り草になっていそうですしね。
案の定、幕府からはお咎めを受けてしまったので、消費促進策はすぐに取りやめられてしまいましたが。一方、紙やタバコ、こんにゃくなどの殖産興業による、地道な商業政策は続けられています。

 

自ら大日本史の編纂に携わった治保さん

治保は、何かをやり始めるときに自ら率先して動くタイプでもありました。
まだ終わっていなかった「大日本史」の作業を学者たちとともに自身の手で行った他、本もいくつか書いています。
こうすることで、藩士に学問を勧めやすくしたのです。そりゃ、お殿様が大人になっても勉強熱心なのに、下がサボるわけにはいきませんものね。

水戸藩では学問が奨励され、政治に学者が関わるようになっていきます。
そして、この流れは幕末まで続きました。

水戸藩主には代々中国風の諡号がつけられているのですけれども、治保は「文公」とされています。理想的な君主に与えられる、最も好意的な諡号です。
また、「文」を「あや」と読むと、「表面的には見えない、社会や世の中のしくみ」という意味があります。
諡号は大げさに美化したものになることも多いのですけれども、治保の場合はまさにその通りですね。

残念ながら、水戸藩の財政は江戸時代が終わるまで、好転したとはいえません。
しかし、治保が残した学問奨励の気風は、息子で七代藩主の治紀(はるとし)、さらにその子である八代・斉昭の時代に結実し、倒幕の一角を担っていくことになります。

水戸藩の歴史からは、財政再建の難しさと、学問の大切さがじわじわ伝わってきますね。

長月 七紀・記

参考:徳川宗翰/wikipedia 徳川治保/wikipedia

 


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