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ローマ その日、歴史が動いた

コンスタンティヌス1世~大帝と称されるローマ皇帝はキリスト教に母の面影を見た?

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歴史の授業では、情勢が大きく動く政治や戦争の話がメインになりますけれども、それ以外の点に目を向けたほうが、より親しみが湧いてくるような気がします。
「歴史的には功績がなくても、逸話の多い人物は人気が出る」ともいえましょうか。
例を挙げれば、西行は文学的な実績はあっても、歴史の流れには大きく影響を及ぼしていません。しかし、彼に関する逸話は日本中にありますよね。それだけ西行が古来から親しまれたということでしょう。まあ、中には「ウチの村おこしのために、西行が来たことにしよう!」というようなものもあるでしょうが、それは西行に限りませんし。
今回はそんな感じで、とある君主の一個人としての面も見ていきたいと思います。

272年2月27日は、後にローマ皇帝となるコンスタンティヌスが誕生した日です。

ローマ帝国皇帝の中でも知名度が高く、また世界史上でも重要な人物ですね。
むしろ彼本人よりも、彼の名前を関した「とあるもの」のほうが出現頻度が高いかもしれません。

コンスタンティヌス1世の頭像/wikipediaより引用

 

将軍だった父・クロルスが死ぬと周囲に後押しされ

コンスタンティヌスは、現在のセルビア領ニシェで生まれました。
父クロルスはローマの将軍で、遠征先の宿屋の娘だったヘレナを捕虜にして連れ帰り、なんやかんやあってコンスタンティヌスが生まれた……とされています。RPGの勇者みたいな出自ですね。

当時ローマ帝国は、その広大さゆえに4つに分割して統治されていました。まず東西に正帝が立ち、それぞれを副帝と呼ばれる補佐官によってさらに二つに分けるというやり方です。これを「テトラルキア」といいます。
コンスタンティヌスが20歳のとき、クロルスがローマの副帝の一人に選ばれました。やがて父は西方正帝(ローマの西半分の正式な皇帝)になりましたが、コンスタンティヌスは政争に敗れたため、このときは副帝になっていません。
しかし、コンスタンティヌス33歳のとき、事件が起きます。
クロルスが、スコットランドへの遠征中に客死してしまったのです。

軍人出身のクロルスは軍に人気が高く、「息子さんなら俺達にふさわしい皇帝になってくれるに違いない」と思い、コンスタンティヌスを皇帝に擁立しようとしました。
が、この時代は「副帝にならなければ正帝にはなれない」ことになっていたので、コンスタンティヌスがすぐに皇帝になるのは不可能。その代わり、副帝の一人に選ばれています。つまり「今はダメだけど、次の次なら正帝になっていいよ」と、暗黙の了解が出たようなものでした。

 

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皇帝になると遷都 町を作り変えて後のイスタンブールに

副帝になったことで将来を約束されたコンスタンティヌスは、軍人として真面目に働きました。
父の領地だったブリタニア・ゲルマニア・ガリア・ヒスパニア(順に現在のイギリス・ドイツ・フランス・スペインに相当)をもらい、内政にも努めています。
特にガリアは、元は肥沃な土地として知られていたものの、これ以前に起きたローマ帝国の内乱で荒れてしまっていました。そのため、コンスタンティヌスは10年ほどの間、内政と再建に注力しています。

一方で、ゲルマン系の民族であるフランク人の制圧には手段を選びませんでした。おそらくは正帝になった後のことを見越して、飴と鞭を意識していたのでしょう。
その後、他の副帝や正帝との争いに武力で勝ち、324年にローマ帝国の唯一の皇帝となります。

この頃になると、テトラルキアを維持しようとする考えは廃れていました。コンスタンティヌスもそう思っていたようで、6年後には帝国の中心からだいぶ東に離れた、ビュザンティオンに遷都しています。
ここは元はギリシア人の交易都市だったところを、コンスタンティヌスが整備した町です。そのため、後に彼の名を冠して「コンスタンティノープル」と呼ばれるようになります。
現在はイスタンブールと呼ばれていますね。
コンスタンティヌスの時代から数えると、ゆうに1000年以上の歴史を持つ町です。「首都として新しく作った町」ではなく、「元々あった町を首都にふさわしく作り変えていった」というのは、割と珍しいかもしれません。

遷都という大仕事をやり遂げたコンスタンティヌスは「唯一の皇帝」の地位を保つべく、内政に力を入れました。
金貨の発行や農民の移動禁止による税収確保など、豊臣秀吉や徳川家康のような政策もしています。もしかしたら、秀吉たちは西洋の宣教師を通じて、コンスタンティヌスや西洋の政治の話を聞いたことがあったのかもしれませんね。

もう一つコンスタンティヌスの政治で特徴的なのは、キリスト教に対して寛容策を取ったことです。

 

「母ヘレナがキリスト教を信仰していたから」という説

ローマ帝国は広大な領地ゆえに、それぞれの土地に土着の信仰があったからか、宗教に関してはかなりアバウトな方針でした。一応ローマ神話の神々や皇帝の像などを崇めることは決まっていましたが、それ以外に何を拝んでも、お咎めはなかったのです。

ただし、キリスト教……というか一神教は「ウチの神様以外は神様じゃないし、神を騙るものは全部悪魔!」といった考え方がありますので、公的にはメジャーになっていませんでした。
また、コンスタンティヌスとの争いに敗れた皇帝の中には、キリスト教徒を迫害したために、結果的に追いつめられた人もいます。いつの時代でもあることですが、人を救うための宗教が争いの種となり、結果的に多くの人を不幸にする、というのは皮肉なものですね。

そうしたことから、コンスタンティヌスは宗教による対立を生むよりも、帝国内の安定を優先するため、キリスト教に対しても寛容な政策を採りました。

「母ヘレナがキリスト教を信仰していたから」という説もあります。ヘレナはかつて、クロルスに強制的に離婚させられていたのですが、この頃には皇太后として認められていて、キリスト教を厚く信仰し、私財を投じて教会建設などの布教に努めています。
カーチャンがそんな感じだと、息子のコンスタンティヌスがキリスト教を弾圧したがらないのも頷けますよね。キリスト教を厳しく弾圧すれば、いずれカーチャンを捕らえなければならなくなりますから。

他の説として、「陰謀で殺してしまった息子への贖罪である」というものもあります。
コンスタンティヌスが他の副帝たちと戦ったときの功労者の一人に、息子のクリスプスという人がいました。最初の妻・ミネルウィナとの子供で、この頃は20代の青年です。
ミネルウィナはこの頃までには亡くなっており、コンスタンティヌスは二人めの妻・ファウスタを娶っていました。
このファウスタとクリスプスがだいたい一回りくらいの年の差だったといわれていて、いつしか不義密通の疑いがかかるというスキャンダルが起きます。あるいは、ファウスタがクリスプスに言い寄ったものの、拒まれたため、腹いせにクリスプスに罪を着せて処刑させたとも。

ヘレナがこの件についてコンスタンティヌスを厳しく追求し、罪の意識が強くなった彼は、信仰に救いを求めた……という話です。
ありえない話ではありませんが、クリスプスが可哀想すぎやしませんかね……。ちなみに、ファウスタもその後自殺しています。何がしたかったんだ。

 

亡くなる前に洗礼を受けたのは母を追ってのこと?

そうしたトラブルもあったものの、外征も相変わらず得意で、コンスタンティヌスはアレマンニ族・ゴート族(ゲルマン系民族)、サルマティア人(イラン系遊牧民族)などと戦って勝利を収めています。

その勢いに乗って、南方の大国・ササン朝ペルシア征伐のため遠征しようとしたところ、コンスタンティノープルから100kmほど西にあるニコメディア(現在のトルコ・イズミット)で客死しました。
図らずも、トーチャンと同じような経緯・状況で亡くなったことになります。
こう書くと何やらアヤシイかほりがしますが、亡くなる直前にキリスト教の洗礼を受けているので、暗殺などによる即死ではなかったようです。

コンスタンティヌスの洗礼/wikipediaより引用

「亡くなる直前に改宗した」というと、まるで平安貴族が晩年に出家するのと似たような感じがしますね。
もしかしたら、この7年前に亡くなった母に会いたかったのかもしれません。
「同じ神様を信じていれば、死んだ後に会えるかもしれない」と思うのは不自然な話ではないですよね。それに、もっと前から信仰していたのなら、その時点で改宗していたでしょう。

戦場で母を呼ぶ兵士は多いといいますし、偉大な皇帝も一人の人間ということでしょうか。

長月 七紀・記

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参考:コンスタンティヌス1世/wikipedia

 

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