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その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代

軍艦造りのプロフェッショナル・平賀譲 海軍の歴史と共に歩んだ職人魂を綴る

更新日:

「職人魂」という言葉がある通り、何か一つのことに秀でた人は、なかなか頑固なところがありますよね。
固い意志があるからこそ、その道で一家言持つほどの存在になれるわけですので、一般人からするととっつきにくい感じが出てしまうのは仕方のないことかもしれません。
しかし、国と他人の命運がかかるようなときには、その辺を少し調整していただければ……とも思ってしまうので。本日はそんな感じで、旧海軍のとある人物を中心に、当時の情勢をみていきましょう。

明治十一年(1878年)3月8日は、旧海軍の造船設計を担当した平賀譲が誕生した日です。

良くも悪くも逸話に事欠かない人ですので、ミリタリーファンの方には「あの人ね……」と思われることが多いでしょうか。
ぶっちゃけワタクシも、某これくしょんの嫁艦の設計者でなければゴニョゴニョ。

まあその辺はいいとして、彼の生涯を見ていきましょう。
例によって技術用語等は最低限に省略しておりますので、ミリタリーファンの方々には物足りないかと思われますが、あしからずご了承ください。

平賀譲/wikipediaより引用

 

兵役試験で落とされるも東京帝大を主席で卒業し……

平賀の家は海軍と縁が深く、幼い頃から猛勉強して海軍に入ろうとしました。
が、勉強のしすぎで極度の近眼になっており、兵役試験で落とされてしまいます。
消沈しながらも工学系の勉強に励んでいたところ、お兄さんに「兵としては無理でも、造船で海軍に関わるテがあるぞ」と言われ、気を取り直して船の設計者を目指すことになります。

よほどやる気が出たものか、なんと東京帝大を主席で卒業。念願叶って造船官として海軍に入ります。
そこでまずは横須賀工廠で船の修理などに携わりました。
その経験は早くから認められ、根室湾で座礁した通報艦「八重山」、初代戦艦「武蔵」の救助担当の一員に。海軍ファンの方にはよく知られていますが、どこの国でも同じ名前の艦がたくさんあるのでややこしいですよね。大体の場合使われていた年で区別がつくのですが、中には初代のほうが二代目より長持ちしているケースもあったりして……。

ときは日露戦争の真っ最中。兵も船も戦術も劣る明治の日本が、最初に直面したデカすぎる壁でした。
旅順港閉塞作戦では多くの船が失われ、急遽それを穴埋めする船の建造が決まります。外国から輸入してる暇と金がなかったからです。
平賀も代替船の一隻、装甲巡洋艦・筑波の建造に関わることになりました。

 

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イギリス留学中に日本海海戦が勃発! 勝利が話題となる

筑波の起工を見届けた頃、平賀にイギリス留学の命が下ります。
その直前に帝大の同級生・原正幹の妹・カズと見合い結婚しました。カズがそろそろ行かず後家になりそうな年齢であり、原の父が病身だったため結婚を急いだのだとか。
とはいえ、カズは美人だったので平賀もまんざらでもなかったようですが。リア充(ry

慌ただしく式を済ませた後、平賀はアメリカ経由でイギリスへ留学しました。
この頃には日本海海戦で日本が勝利を収めており、その話はイギリスでも広く語られていました。
その理由の一つが「砲戦で戦艦が沈むことがある」という点です。これによってイギリスで建造中だった戦艦・ドレッドノートは、従来に比べて高速かつ重武装化され、世界の戦艦の標準となります。
日本でも「ドレッドノートと同等を目指す」という意味で「弩級」という言葉が生まれました。後に「超弩級」という言葉も使われるようになります。

留学先の大学では基礎的な事が多く、思うようには勉強できませんでしたが、ここでも平賀は持ち前の切り替えの早さを発揮します。「学校で学べないなら、他で勉強すればいいんだ!」と思い直し、造船所見学等で補ったのです。
完成間際のドレッドノートや、巡洋戦艦インヴィンシブルも見学しました。

「巡洋戦艦」とは、簡単にいえば高速化した戦艦のことです。ドレッドノートは21ノット、インヴィンシブルは25.5ノットを出すことができました。
1ノット=1時間に1海里(約1.9km)進む速度なので、ドレッドノートが約40km/h、インヴィンシブルは時速約48.5km/hとなります。
短距離走の世界記録保持者であるウサイン・ボルトの100m走最大速度を時速に換算すると、約44km/hになるそうなので、あの勢いで戦艦が迫ってくることになりますね。怖すぎ。
最大瞬速とはいえ、戦艦とほぼ同じスピードを出せるボルトもヤバイ(小並感)ですが。
もうちょっと身近な生き物でいくと、猫の最大瞬速が約48km/hだそうです。うわっ、猫速い。

 

そして巡洋戦艦「金剛」が生まれた

平賀は多くを学んで無事大学を卒業し、ついでにイギリスやフランスの造船所も見学して帰国の途に就きます。
弩級戦艦という概念が生まれたことで、日本も新しい戦艦・巡洋艦を作らねばならないという空気になってきていました。
それぞれ8隻ずつ必要だと考えられたので、この計画を「八八艦隊計画」といいます。九九だったらもうちょっと覚えやすかったですかね……。

しかしこの頃の日本には、まだまだお金も技術もなかったので、そのうちの一隻は同盟相手のイギリスに作ってもらうことになります。
同盟中とはいえ、軍事機密である新しいサイズの主砲開発を頼んだりしたので、少々折衝が要りましたが……最終的にイギリスは「ちょっと資料をやって、さらにイイ主砲を日本に作らせれば、結果的にウチが節約できる」(超訳)と考え、了承しました。
こうして巡洋戦艦「金剛」が生まれます。

金剛を国産化したのが姉妹艦の「比叡」「榛名」「霧島」であり、金剛型と同じサイズの主砲を載せた別バージョンが戦艦「扶桑」です。扶桑は日本の古い美称の一つであり、軍部の意気込みがうかがえますね。
帰国後、平賀はこれらの戦艦を造る部署(艦政本部第三部)に配属されました。
ついでに、イギリス帰りの知識を下の世代に伝えるべく、東京帝国大学工科大学の講師も兼務することになります。過労死の予感がしますね。

が、プライベートで子供に恵まれたことなどが幸いしてか、無事乗り切れたようです。
平賀は若いうちに両親を亡くしたためか、家では子煩悩な父親だったそうですよ。旧軍の関係者ってそういう話が意外と多いんですよね。

妻の母や平賀自身の姉、明治天皇崩御などを挟んで、時代は大正時代へ。
大正デモクラシー(大正時代の民主主義化運動)によって軍拡への反対意見が起き、新しい軍艦の建造は一時中止されるというトラブルが起きましたが、最終的に国会で承認されました。

平賀はイギリスから送られた金剛の図面を日本式に書き直して姉妹艦「比叡」の造船にあたります。
そして、比叡を無事完成させたことで、日本の技術がイギリスと遜色ないものであることを証明することになりました。
そしてその改良&完全国産の船として、いよいよ戦艦「扶桑」とその姉妹艦「山城」の建造が開始されます。

平賀は工廠に頻繁に出向いて、机上の計算と現実との乖離を埋める方法を模索していきました。
この頃シーメンス事件(海軍の汚職事件)で首相・山本権兵衛の信頼がガタ落ちし、海軍の予算削減=新艦建造の危機に陥りかけます。
山本は身を引きましたが、八八艦隊計画はまだ折り返し地点であり、「計画があるのに予算がつかない」という非常事態。
しかし、時折しも第一次世界大戦が勃発して、イギリスへの協力&植民地獲得が世論でもあっさり受け入れられ、八八艦隊計画は再開されました。世論なんてコロコロ変わるもんですね。
そんな流れで、さらに改良した戦艦を造るための計画も立てられました。

平賀は引き続き八八艦隊計画に携わります。モットーは「船体のバランス」でした。
船を重武装にすればするほど、上の方に重心が偏りやすくなります。砲や機銃などは、上の方にないと発射できないから当然ですね。
輪切り状にするとわかるのですが、船というのは基本的に下のほうが狭くなっています。そのため、上側が重くなるとバランスを崩しやすくなってしまうのです。
平賀はその調整に心を砕きました。

ここで、世界の造船に影響を与える一戦が起きます。

 

「平賀不譲(ゆずらず)」という不名誉なあだ名をつけられて

大正五年(1916年)にデンマークのユトランド半島沖でドイツvsイギリスの海戦が起き、海軍大国であるはずのイギリスの戦艦が三隻も沈んだのです。これは上側の防御を軽視した結果でした。
対して、ドイツ側の船は損傷しながらも、無事に帰港しています。海軍大国であるイギリスが、造船では後進国であるはずのドイツに負けた、ということも大きな衝撃でした。
平賀はこの結果から、戦艦の防御面改善を主張します。これは上層部にも受け入れられ、設計中だった戦艦「長門」の改良案作成を命じられました。

そしてその結果、管制部や弾薬庫などの「砲撃や魚雷が直撃したらヤバイ場所」を船の中央にまとめ、その周りの装甲だけを厚くする(船の前後は装甲を薄めにする)というスタイルが取られました。この部分を「バイタルパート」といいます。
既にアメリカが戦艦・ネヴァダで取り入れていた手法ですが、日本では初めてのことでした。

長門_(戦艦)/wikipediaより引用

設計の見直しにより、最大速度上昇というメリットも得られました。長門の最大速度は26.5ノットで、ドレッドノートやインヴィンシブルを超えています。
公式発表では23ノットということになっていたのですが、関東大震災のとき、長門は被災地の救助に向かう中でうっかり最大速度を出してしまい、イギリスの船に見つかるというオチがついています。
幸い(?)第二次世界大戦時、長門がイギリスの船と戦うことはありませんでしたが。

その代わりに、日本には別の危機が迫ります。
日本同様、第一次世界大戦で本土に全く損害を受けなかったアメリカが、急激に軍備を拡張していたのです。また、中国方面での利権を巡って、外交的にも日本と対立し始めていました。
「アメリカとの戦争が見えてきた」と判断した軍部は、「量より質」で戦力の差を補おうとします。

しかしその矢先に、かつて平賀が携わった装甲巡洋艦「筑波」が謎の爆発事故を起こしてしまいました。原因は「乗務員の中で行跡の怪しい者による放火」まで推測されましたが、完全な解明はできていません。
この調査を受けて、平賀は長門の姉妹艦・陸奥の船体設計変更を計画したものの、工期の遅れなどからボツにされてしまいます。
また、平賀は船体のバランスには心を砕きましたが、乗務員にとってはやっかまれる存在だったということが、この辺から問題になってきます。
というのも、上記の「船の心臓部だけ重装甲」を実現するために、他の部分の重量=設備や武器を削ったためです。

しかも平賀の主張は理に適ったものだったため、上役が平賀を擁護し、下っ端の不満は募るばかり。
そこで「平賀不譲(ゆずらず)」という不名誉なあだ名をつけられてしまいました。子供かよ。

 

部下・藤本との対立がやがて膨らみ関係が亀裂

上からは「次々と移り変わる情勢に対応できる、頼もしい設計者」と見られ、引き続き最新型戦艦の設計を任されていましたが、この頃になると平賀の一本気なところが支障をきたしはじめました。
その最たる例が、部下との関係です。

当時、平賀の主だった部下に藤本喜久雄と田路坦(たじ やすし)という人がいました。
成績では藤本のほうが上だったのですが、平賀は馬が合う田路を重用し、先にイギリスへ留学させています。
が、田路はイギリスでデキ婚するなど、当時の常識的にマズイ行動を取ってしまいました。これも藤本にはビキビキ(#^ω^)ものです。そりゃそうだ。
まだまだ外国人、特に西洋人に対する感情が良くなかった時代です。平賀は世間の冷たい目から田路一家を守ってやろうと、夕食に招待したりいろいろと気遣いました。

そんなこんなで、田路をかわいがるのと反比例して平賀と藤本は仕事上でも対立するようになっていき、いつしか藤本は反平賀派の旗頭のようになってしまいました。
平賀も各地の工廠への視察ついでに、料亭で一杯やりながら歌うという陽気な面や、兄の未亡人を気遣う優しい面もあったのだから、それを仕事が終わった後にでも見せてやれば、もう少し丸く収まったかもしれませんね……。
まあ、当時の社会常識的に「職場で甘くしてはいかん」という概念があったのは仕方ないことです。軍ですし。

実は、平賀と藤本が和解できなくもない雰囲気になったことが一度だけあります。
八八艦隊計画を進めるうちに、造船費用があまりにも膨大になってしまい、さすがに政府からもツッコまれました。
求められたのは「費用を減らしつつ、戦力を落とさない」船の設計。そこで平賀が基本設計、藤本が詳細設計を担当して作られたのが軽巡洋艦「夕張」です。

夕張 (軽巡洋艦)/wikipediaより引用

が、平賀が藤本の設計図を無断で書き換えるなど、またしても火種を作っています。
夕張自体は無事完成し、世界の海軍関係者を驚かせる小型&重武装の船として海軍史に記録されたのですが……その一方で平賀と藤本の決定的な亀裂も生んでしまったことになります。
何だこの「子供が生まれた途端、育児への不理解が元で離婚した夫婦」みたいな流れは。
そして、このタイミングで世界は軍縮の動きへ突入するのでした。

 

ワシントン軍縮条約で突きつけられた厳しい条件とは

ワシントン軍縮条約の交渉で、日本は「艦隊規模を米英の6割にしろ」という条件を突きつけられます。
これは、日本がこれまで進めてきた「米英の7割の規模を保っていれば、もし両国と戦争になったときも応戦するに充分」という基本路線を完全に台無しにされるものでした。
日本代表は当然ながら「7割じゃないとイヤです」と主張します。が、イギリス側から「何かオマケしてあげるから、6割を飲んでよ」と言われ、うなずかざるを得なくなります。
そのオマケが、98%竣工済み=「現在建造中の船を破棄する」としたこの条約によって廃棄対象とされた戦艦・陸奥を保持できるようにしたことでした。引き換えに、アメリカとイギリスに新しい戦艦二隻ずつの保持を許すことになったのですが……。

さらに、このころ満期を迎えていた日英同盟の更新が否決され、代わりとは名ばかりの四カ国条約(参加国は日・英・米・仏)を押し付けられています。
どちらかというと、日英間の協力関係を解消させるための条約であって、何かを協力するためのものではありませんでした。
つまり、オマケの割にはハズレ感が強い感じになってしまったのです。

当然、日本ではこの結果に官民揃って大反発。
日露戦争でも大したうまみがなかった上に、第一次世界大戦が終わった途端に大恐慌、ついでにこの後起きる関東大震災と東北の不作などによって、社会全体が暗く鬱屈した雰囲気になっていくのもやむないことでした。
そしてその中で、怒りを滾らせていた一団がいずれ五・一五事件や二・二五事件を起こすことになります。その話はここでは触れませんが。

お偉いさんの中でも「なんでアメリカなんかにウチの行動を制限されなきゃいけないんだ! いつかブッコロス!」と思っている人たちはいました。そのくらいワシントン軍縮条約は衝撃的なものだったのです。
この頃ドイツが第一次世界大戦の賠償で喘ぎ、後に最悪の悲劇に繋がっていくことといい、日本含めた当時の戦勝国のやり方は、「窮鼠猫を噛む」事態を自ら生むものだったといっても過言ではありません。まあ、後世から見た話ですけれども。

軍縮によって技術者の腕が衰えることも恐れた

設計者である平賀にとって、新しい発想を詰め込んで船を造ることは愛児を世に送り出すも同じであり、破棄や建造中止は我が子を失うも同然のことでした。
新しい戦艦のうち二隻だけは空母に路線変更して残すことができましたが、最新式戦艦になる予定だった船は数隻が破棄。平賀は気を取り直し、保持を認められた十隻の船から成る「六四艦隊」の防御面を改装して、外国と渡り合えるよう備えるべきと提言しました。

また、ワシントン軍縮条約によって新しい船を作れない=工廠の技術者の腕が衰えることを案じていたのも理由の一つです。六四艦隊の改装は、彼らの技術を保つためでもありました。
意気消沈しすぎて引退してもおかしくないところで、こういうとこに頭が回るのはスゴイですよね。その気遣いがもうちょっと温かい形で表に出てきていたら、平賀の敵はずっと少なくなったかもしれません。

それでも軍縮によって兵や技術者らを大量にリストラしなければならなくなり、これもまた不況に拍車をかけました。
企業(この場合は国)が自分の存続だけを考えれば、いずれ社会が立ち行かなくなるのは昔も今も当たり前の話ですよね。そうした理不尽な解雇を受けた人々は、当然元凶であるワシントン軍縮条約とアメリカを恨み、欧米諸国への嫌悪を募らせていきました。
幕末のあたりには外国人を化け物と思っていた人も多かったが、半世紀ほどでその頃と同じくらいの認識になってしまったわけです。

平賀が目をかけていた部下・田路も、この風潮の中で「イギリス人である妻が白眼視されるのは耐えられない」と、退官を決意しました。
平賀は田路の才能と家族愛とを評価し、三菱造船にかけあって再就職先を案内しています。天下りといえばそうですが、この場合は平賀の優しさを評価すべきでしょうね。
三菱造船でも「英語ができて知識もある人なんですか! ならロンドン駐在員の椅子を用意しますよ!」と受けあってくれています。

平賀が田路を送り出した後くらいの時期に、世界は「条約に引っかからない範疇で最高の軍艦を造る」ことに腐心するようになりました。条約あってもなくても変わらんやん(´・ω・`)
平賀もそういった命令を受け、夕張を大きく&その他改良を加えて古鷹型重巡洋艦を設計します。重巡洋艦というのは、簡単に言うと「戦艦よりは一回り小さく、ギリギリまで武装を詰め込んだ軍艦」とったイメージの船です。言葉の定義が決まったのはまた別のタイミングなんですが、こまけえこたあいいんだよ。

しかし、重巡洋艦計画を軍議に出した際、平賀は自らの首を絞める発言をしてしまいました。
「魚雷を減らして砲に主眼を置く」という方針を明らかにしたことで、魚雷を扱う技術者たち(俗に言う”水雷屋”)の怒りを買ってしまったのです。
それは日頃からくすぶっていた反平賀派を勢いづかせ、平賀はメイン設計者の座を追われることになりました。技術者としての失敗ではなく、人間としての失態が災いを招いた形です。
ちなみに、魚雷を減らしたのは「もし魚雷の保管場所に敵の砲撃が当たった場合、一気に誘爆して船が沈む可能性が非常に高い」というきちんとした理由がありました。実際、第二次世界大戦中にそうした理由で沈んだ船は複数あります。
が、水雷屋の人々にとっては自分の仕事を取り上げられるも同然ですから、彼らが反発するのもまた自然なことでした。

 

二度目の留学で80ヶ所以上の施設を巡り、帰国したら席がないって!?

このタイミングで、平賀に二回目の留学が命じられました。その間に平賀の席を物理的になくしてしまおうというわけです。
更迭計画が進んでいるとも知らず、欧米で80ヶ所以上の工廠・造船所・研究所等をまわり、各国の最新情報を収集。ロンドン滞在中にはかつての部下・田路と再会し協力を受け、そのお陰で最初の留学時の恩師や学友に再会することもできました。
恩師はこっそり最新戦艦・ネルソンの設計図を見られるようにしてくれたりと、かなり危ない橋を渡ってまで平賀に協力してくれています。ネルソンは就役後、イギリス本国艦隊所属になっているのですが、まさかこの「取り計らい」が原因ではない……ハズ……。
まあ、それと同じくらい日本側の情報も筒抜けだったのですけれども、さすが堂々と諜報機関を設置している国は違うぜ(当時は否定してたけど)

とはいえ全てがうまくいったわけではなく、旧知の人間が多いイギリスでは多くの情報を得られたものの、アメリカではほぼ門前払い状態だったとか。そりゃ、地理的に考えて日本と真っ先にぶつかるのはイギリスじゃなくてアメリカですしね。

こうして出来る限りの情報を集めて帰ってきたものの、留守にしている間に平賀の荷物や机は職場から片付けられてしまっています。実績と技術・知識ある人間に対して実に陰険なやり方ですね。平賀の性格がキツすぎたのも一因ですけれども。
全く予想していなかった事態に、さすがの平賀も一時は転職か、いっそブラジルにでも移住するかとまで思い詰めたとか。
が、ここで持ち前の切り替えの早さが、またしても彼自身を助けます。「趣味として設計することまで禁じられたわけではない」と。

平賀が追い出された後、主だった設計は藤本に任されました。
元々主席卒業という俊才であり、平賀と比べて人当たりがいいので、当初はうまくいくかに見えました。最新の技術を理解し、それを実地で活かそうという気概もありましたしね。
その結晶が「特型駆逐艦」と呼ばれる新しいタイプの船です。これも夕張同様「小さな船体に積めるだけ武器を積み、可能な限り軽量化する」という幕の内弁当のような狙いの設計でした。やっぱり欧米からガラパゴスジャパン扱いされています。
平賀と藤本がもうちょっとお互いに引き立てあっていれば、より良いものが作れたのではないかと思うのですが……まあ、そういうのに向かないからこそ斬新な設計ができたんでしょうね。

 

徳川昭武(慶喜の弟)の息子・武定に差し出された救いの手

しかし、最新の技術とは、=まだ欠点がはっきりしていない技術、という意味でもあります。
その最たる例が電気溶接でした。当時船を造るときには、リベットというネジのような部品で鉄板をつなぎ合わせる”鋲工法”が主流。これに対し、電気の熱で溶かしてつなぐのが電気溶接(まんま)です。
平賀は「今の日本では、電気溶接の技術が未熟過ぎる」と考えており、軍と乗組員の命運がかかっている軍艦に使うには危険だと考え、電気溶接の使用を制限していました。

が、藤本は「電気溶接を多用すれば、軽量化&速度アップ&その他に都合がいい! ジャンジャン使おう!」と考えました。これが後々とんでもない事件を引き起こすことになります。

特型駆逐艦を生み出したことで藤本の名声が高まると、平賀もその前任者としてふさわしい肩書が与えられました。が、実務をやらせてもらえないのは相変わらず。
左遷されていた間も元部下・徳川武定(たけさだ)に「ウチの庭に実験用の水槽作ったんでぜひ使ってください^^」(超訳)とダイナミックな協力を得て、各数値の測定実験や研究を続けてはいましたが。
二度目のロンドン滞在中やこのときのように、「あいつは譲じゃなくて不譲(ゆずらず)だ」と陰口を叩かれていた平賀にも、いざというとき助けてくれる人が出てくるくらいの人望はあったのです。

名字でピンときた方も多いかと思いますが、武定は最後の将軍・徳川慶喜の弟である昭武の息子で、松戸徳川家の人です。割と柔軟な思考の持ち主だったらしく、築地の魚を眺めて新刊ならぬ新艦のアイディアを得、潜水艦の設計に活かしたことがあるとか。
「海を自由自在に泳いでるものが最大のヒント」という考えはわからないでもないですが、当時その発想に至ったのがスゴイですね。

徳川武定/wikipediaより引用

ついでに、この辺の時代に軍絡みのことで関わった徳川家の人を軽く紹介しておきましょう。
篤姫が後見した徳川宗家十六代当主・家達はワシントン軍縮条約の全権の一人でした。
御三卿の一つ・清水徳川家の末裔である好敏(よしとし)は、日本国内で初めて飛行機を飛ばした人です。
さらに、ロンドン軍縮会議での日本全権は松平容保の息子・恒雄でした。
江戸幕府は遠くなっていましたが、まだまだ幕末の人が存命、かつ目立たないながらに国へ影響を与えていた時代だったといえますね。歴史は繋がっている……ということがよくわかります。

平賀は武定などの支えてくれる人々からパワーを貰い、密かに新艦設計を進めました。
とある会議で藤本の案に真っ向から対立するものとしてそれを提出したことで、また評判は下がってしまいましたが。
こういった設計者同士の対立に加え、ワシントン軍縮条約の更新版ともいえるロンドン軍縮条約での不首尾が重なって、海軍の中でも対立が起きます。
「もう決まったことなんだから、条約遵守しないと今すぐ戦争になるだろjk!」(超訳)な”条約派”と、「なんで欧米のポチにならないかんのじゃ! いざとなったらいくらでも殺ったるわボケナス!」(超訳)な”艦隊派”の対立が絡んで面倒なことになっていくのです。
戦争が始まる前から仲間割れしてて、なんで敵に勝てると思うんですかねぇ……(´・ω・`)

 

旧日本海軍屈指の損傷事故「友鶴事件」が起きる

そのうちに平賀は定年退職を迎えました。
予備役として軍と関わりを持ち続けましたが、その後は講師を務めていた東京帝大が主な活躍の場所となります。現代風にいえばセミリタイアですかね。
海軍を去っていた時期は、次男の修学旅行先に親ばか丸出しの手紙を乱発したり、菊いじりや映画などの趣味を楽しんだりしていたとか。娘に初孫が生まれたと聞いて、嫁ぎ先の関西まですっ飛んで行ったこともあります。だから、その穏やかさを現役のときに少しでも出しておけと。

しかし、平賀は思わぬ機会で戻ってくることになります。
「友鶴事件」と呼ばれる、旧日本海軍屈指の損傷事故・事件です。

これは、「友鶴」という名前の水雷艇(条約に引っかからないように、駆逐艦より小さく作った軍艦の一種)が荒天の中で転覆したことにより、軍艦設計の致命的なミスが判明した事件です。
計算上この船は90~110度傾いても大丈夫な設計になっていたはずなのですが、たった40度の傾斜で転覆してしまいました。
予期せぬ事態に、総員113名中100名が死亡・または行方不明になるという大惨事。その上に、原因が全幅の信頼を得ていた藤本の設計ミスだったということは、彼の評判と立場をズタズタにしました。
藤本は平賀と同じような経緯で左遷され、翌年脳溢血で亡くなっています。まだ47歳でした。
亡くなるまでの間、藤本は自責の念に苛まれる元部下を慰めたこともあるので、平賀同様優しい面もあったのでしょうね。本当に惜しい話です。

ともかく、こうした流れがあって平賀は再び海軍で造船に携わることになりました。
定年退職から3年、左遷されてから11年が経っています。「待てば海路の日和あり」とはよく言ったものですね。友鶴事件の犠牲者を考えれば、あまり喜べなかったでしょうが……。

水雷艇「友鶴」/wikipediaより引用

 

「やっぱり日本ではまだ電気溶接の基礎研究ができていない」

平賀は部下たちを鼓舞し、欠陥が見つかった船の改良にかかります。
昭和天皇に友鶴事件の報告・改善案をご進講(皇族への講義)したり、三度目のイギリス留学(学会参加)を命じられたりと完全復活という様相。帰ってきたドラえもん状態ですね。

ロンドンでの論文発表では質問に窮する場面などもありましたが、またしても恩師や学友に助けられています。
イギリス人の国民性として「気を許すまで時間が掛かるが、一旦信用したらとことん味方する」という評価をどこかで見た覚えがあるのですが、平賀と恩師・学友の関係はまさにそんな感じがしますね。二十年以上、しかも会っていない期間のほうが長い間柄と考えると胸熱な話です。
平賀は学会の報告書末尾に「この結果が造船学界のみならず、国際的親善に繋がると思います」(意訳)と書いているほどです。
本当に、そうなればよかったのですが……。

学会発表の後、平賀はフランス留学中だった元部下の案内で、ヨーロッパ各地を旅行しました。もちろん造船所なども訪れ、ヨーロッパの電気溶接技術を特に見聞しています。その結果「やっぱり日本ではまだ電気溶接の基礎研究ができていない」と感じました。
イギリスであまり電気溶接が使われていないことも、平賀の自説を裏付けるものでした。

また、ロンドンでは最新の客船クイーン・メリー号の進水を見学しています。これは排水量8万トン(戦艦・長門の二倍)を超える超巨大船で、上からも特によく見てくるようにと命じられていたものです。
帰国後、平賀は「昔『このままでは戦艦はとてつもなく巨大化してしまう』と危惧したことがあったが、クイーン・メリー号を見て杞憂だったと感じた」といった内容のコラムを書いています。つまり、そのくらいの大きさの軍艦を造ることもできる、というわけです。

この間、日本は国際連盟脱退・軍縮条約破棄といった国際的孤立へまっしぐらに進んでいきました。日本史の中で一番気が滅入る時代の始まりです。
平賀たち造船分野の人々もその空気を感じ取り、新たな巨大戦艦の計画を始めました。あの戦艦「大和」です。

戦艦大和/wikipediaより引用

 

戦艦大和&武蔵の建造に平賀はどれだけ関わっていたのか?

この超有名な戦艦も、設計には一悶着ありました。
当時はまだ飛行機が登場したばかりで、主力になるとは考えられていなかった頃です。

しかし、中には「戦艦に空母を護衛させて、飛行機からの爆撃で敵艦を沈めよう」という戦略を推す人もいました。
そのためには、空母の速度に戦艦を合わせなければなりません。しかし、それはどうしても不可能でした。それでも大和は27ノットを記録しています。つまり長門より速い上にデカイ戦艦だったわけです。
飛行機軽視の風潮や平賀の得意とした保守的な設計は、太平洋戦争が始まってから問題が表面化することになりますが、それはまた別の話です。

大和や姉妹艦「武蔵」も、「重要な施設を中央に集め、その部分の装甲を厚くする」という構造になっていました。つまり、船の前後は装甲が薄いのです。
武蔵が沈んだ理由も、バイタルパートより前の部分に魚雷を何発も食らったことでした。このため、「平賀式の設計がマズかったせいで武蔵が沈んだ」とする人もいますが、それまでの間に武蔵は魚雷・爆弾・砲弾をそれぞれ20発前後ずつ食らっているので、一概に平賀が悪いとはいえないのではないかと。
平賀自身は晩年、帝大で教育者としての活動に専念し、大和建造についても後任者に任せていたので、武蔵の建造にもほとんど関わっていないと思われますしね。

その帝大でもまた大きな事件に関わることになるのですが……だいぶ長くなったので、その話はまた日を改めましょう。

どうでもいいですが、この記事はめでたく当コーナーの最多文字数を更新しました。
全部読んでくださった方、お疲れ様です&どうもありがとうございましたm(_ _)m



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長月 七紀・記
参考:平賀譲/wikipedia 藤本喜久雄/wikipedia 友鶴事件/wikipedia 夕張_(軽巡洋艦)/wikipedia ワシントン海軍軍縮条約/wikipedia ロンドン海軍軍縮会議/wikipedia

 

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