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西郷どん特集 その日、歴史が動いた 幕末・維新

島津斉彬50年の生涯~西郷隆盛や大久保利通を発掘した人材育成達人の功績とは?

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「幕末の四賢侯」の一人に数えられる島津斉彬

有名な歴史上の人物って、意外な点も同時に持っていますよね。
成功するまでに何十年も苦労していたり、晩年が悲惨だったり、活躍したのはほんの数年だったり……。詳しく知って「そうだったの!?」と驚いたことがある方も多いのではないでしょうか。
本日はそんな感じの話の中から、とある幕末の大名にスポットを当ててみましょう。

文化六年(1809年)3月14日は、薩摩藩十一代藩主・島津斉彬(なりあきら)が誕生した日です。

「幕末の四賢侯」※1の一人であり、篤姫の義父でもあり……と、大名の中でも記憶に残るポイントが多い人ですよね。ついでにいえば、「なりあきら」という読みも印象に残りやすい気がします。
……室町幕府二代将軍・義詮(よしあきら)の知名度からすると、そうでもないですかね。

また、大河ドラマ「篤姫」で斉彬を演じた高橋英樹さんがドハマリしていましたので、そのイメージをお持ちの方も多いでしょうか。というか、実際の斉彬と高橋さんが似てるんですよねw

島津斉彬/wikipediaより引用

※1 幕末の四賢侯とは以下の4名を指します
福井藩第14代藩主・松平慶永(春嶽)
土佐藩第15代藩主・山内豊信(容堂)
薩摩藩第11代藩主・島津斉彬
宇和島藩第8代藩主・伊達宗城

 

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オランダ贔屓の曽祖父・重豪の影響を強く受け

高橋さんがとても長い芸歴を持つので、斉彬も何となくそんな印象がありますが、実は藩主を務めたのは7年ほど。
それには、斉彬の置かれた家庭環境と、それにまつわるお家騒動が大きく影響していました。

斉彬の人格や価値観は、長命だった曽祖父・重豪(しげひで)の影響を非常に大きく受けて形成されたといわれています。
重豪は自らオランダ語を話せたといわれるほどの「蘭癖大名」で、幼い頃の斉彬も、曽祖父とシーボルトの会見に臨席したとか。
また、当時の大名家としては珍しく、重豪は斉彬と一緒に風呂に入ったこともあったそうです。

さらに、斉彬の母・弥姫(いよひめ・嫁いでからは周子「かねこ」に改名)は、これまた大名家の正室としては異例となる「実母の母乳」で子育てをした人です。
弥姫は、自ら中国の歴史書について子供たちに講義するほどの才女でした。

父・斉興(なりおき)と斉彬の関係についてはビミョーな所です。
後述する「お由羅騒動」その他のイメージが強いため、さぞ昔から仲が悪かったのだろう……と思いきや、周子は斉興の婦人の中で一番多く子供を産んでいます。
となると、両親の仲が険悪ということは考えにくいので、少なくとも斉彬が幼かった頃は良い家庭だったのではないでしょうか。

島津斉興/wikipediaより引用

 

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蘭癖になれば藩の財政が逼迫!? そこで起こった「お由羅騒動」

大名家では家族間だけでなく、家臣との関係も非常に重要です。
曽祖父・重豪に倣って西洋への興味を強めていった斉彬に対し、重臣たちは良い印象を持ちませんでした。
というのも、重豪は蘭癖が過ぎて藩の財政に支障をきたしており、斉興がそれを立て直していたからです。

ここで正室の長男=まず間違いなく跡を継ぐ斉彬が蘭癖になると、せっかくマシになった経済が逆戻りしかねません。幕末へ向かっている時代ですから、西洋に対する嫌悪感なども手伝ったことでしょう。
斉興もその辺の事情を加味してか、なかなか斉彬に家督を譲りたがりませんでした。

斉彬が40歳を過ぎてもそんな感じだったので、側室たちが「あわよくば我が子を藩主に」と考えるのも無理のないことです。
こうして起きたのが「お由羅騒動」でした。
騒動を簡潔に記しますと……。

まずお由羅の方とは、斉興の寵愛を受けていた側室で、後に生麦事件の当事者となる島津久光の母です。
お由羅の方は久光を藩主にしたがりました。
一方で斉彬派の家臣もおり、事を重く見て、お由羅の方と久光の暗殺計画を立てています。
この計画が事前にバレ、首謀者13名が切腹、他50人が流刑や謹慎になりました。
これが事件のあらましです。

薩摩藩内では規模の大きな騒動でしたので、後に歴史に名を残す人も多く関わっています。有名どころだと、大久保利通や西郷隆盛の父親がいます。
詳述すると長くなりますので、また日を改めてお話するとしましょう。

 

洋学を重んじた「集成館事業」を押し進める

お由羅騒動から二年後、事後処理も終わってようやく斉彬が藩主になりました。
やはり洋学を重んじ、造船や冶金(やきん・鉱石から金属を作ること)のための反射炉を作ったりしています。斉彬の主導で行われたこの辺の事業を「集成館事業」と呼んでいます。
特にガラス製品は質が高く、「薩摩の紅ビードロ」として知られ、大名同士の贈り物にも重宝しました。これは一時技術が途絶えてしまったのですが、近年復興され「薩摩切子」と名を変えて再び注目を浴びています。

集成館事業は、ご想像のとおり相当な費用がかかりましたが、造船事業の一環で、このころ薩摩で作られた西洋式軍艦の「昇平丸」は、明治に入ってからも蝦夷地開拓で活躍するなど、当時としてはかなり高い技術力を持っていました。

また、斉彬の視野の広さは人材発掘においても活かされ、元は下層藩士だった西郷隆盛や大久保利通を登用しています。
本人の才覚もさることながら、こういった維新の功労者たちに尊敬されていたことも、斉彬が名君とされる理由なのでしょうね。
斉彬は、こうした功績・才覚に驕ることなく、家督を継ぐ前から宇和島藩主の伊達宗城や、水戸藩主・徳川斉昭など、同じく名君と呼ばれていた人物とも交流を持っていました。

しかしそれは、幕政に口を出すことにもつながっていきます。

徳川斉昭/wikipediaより引用

 

阿部正弘が亡くなると、大老・井伊直弼と対立

斉彬はまず、ときの老中・阿部正弘に対し、幕政改革の一環として公武合体と開国、それに伴う軍事的準備を訴えました。
正広の許可を得て、琉球王国を介してフランスから兵器購入などを計画していたようです。

そして阿部正弘が安政四年(1857年)に亡くなると、大老になった井伊直弼と次期将軍について対立しました。
この頃の将軍は十三代・家定。篤姫の旦那さんです。
当時の事情は大河ドラマで有名になりましたが、簡単にまとめるとこんな感じです。

家定は生来病弱

正室も側室もいるけど、嫡子誕生の見込みがない

「さっさと跡継ぎを決めておかないと、最悪、家定が先に亡くなってしまう」

急げ!

と、こんなわけで、家定が将軍になった直後から跡継ぎ問題は出ていたのです。
どうせなら家定の父である十二代・家慶がそこまで決めておいてくれればよかったのですが……。家慶は黒船来航で幕閣がてんやわんやしているところを、熱中症でぶっ倒れてそのまま亡くなってしまったので仕方がありません。

家慶はお世辞にも有能とは呼べない人でしたが、まだ二十代半ばの阿部正弘を老中にするなど、人を見る目はありました。もし家慶が早めに「やべえ、このままだとワシが死んだ後に幕府が終わる」ことに気付いていたら、幕末の流れは全く変わっていたかもしれません。

井伊直弼/wikipediaより引用

 

本拠・鶴丸城で閲兵していたところ、急病となり……

この状態を、大名たちも見逃しませんでした。
次の将軍の後見に近い立場になればなるほど、自分の家や藩が有利になります。
そこで斉彬は、かねてから親交のある斉昭の息子・慶喜を十四代将軍にすべく動き始めたのでした。
その一環として、大奥から切り込むために送り込んだのが篤姫である……というのもおそらく大河の通りです。家慶も一時は慶喜を跡継ぎに考えていたようなので、その辺も影響したかもしれませんね。

一方、直弼らは血筋の近さなどから紀州藩十三代藩主・徳川慶福(よしとみ)を擁立しました。
こちらはこちらで英邁を知られており、推される理由としては充分です。

最終的に大奥での斉昭のウケの悪さ、慶福が家定のいとこであることなどにより、慶福が十四代将軍に決まります。

斉彬らの敗北ということになりますが、これに対して彼は武力で対抗しようとしていた……とされています。
そのための準備として本拠・鶴丸城(鹿児島城)で閲兵していたところ、急病となりそのまま亡くなりました。

死因はコレラということになっていますが、斉彬の息子の多くが夭折している(暗殺の疑いがある)ため、「斉興や久光(とその愉快じゃない仲間たち)による暗殺ではないか?」という説も根強く囁かれております。

鶴丸城(鹿児島城)

 

本人はカメラの趣味があり、娘を撮影した写真も残る

次の薩摩藩主の座は、斉彬の遺言で、久光の長男・忠義が継ぐことになりました。
当初は斉彬の息子・哲丸が成人するまでの予定でしたが、当の哲丸が夭折したため、忠義がそのまま藩主を務めています。
そして忠義は最後の薩摩藩主となったのです。

お由羅騒動の経緯からすると意外かもしれませんが、斉彬と久光とは仲が良かったそうなので、弟の気持ちも汲んだのでしょうか。直接久光を跡継ぎに指名すると影響が大きすぎますし、斉彬と久光は8歳しか変わらないので、年齢的な理由もあるでしょうね。
斉彬自身のモットーとして
「愛憎で人を判断してはならない」
「誰にでも好かれる人物は、非常時に的確に判断できない」
といったものもありますし。

幕末の大名であり、幕政にも関わろうとしたことから何となくコワいイメージもありますが、プライベートでは写真を愛するという一面もありました。
斉彬自ら娘を撮った写真もあります。
現代のプロの目から見ても割と腕は良いんだとか。

長生きして普通に隠居していたら、もっと多くの写真を撮り、その道でも名を残していたかもしれませんね。

斉彬が撮影したとされる娘たちの写真(左から典姫・暐姫・寧姫)/wikipediaより引用

長月 七紀・記

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参考:島津斉彬/wikipedia お由羅騒動/wikipedia 国史大辞典

 




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