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ローマ その日、歴史が動いた

暴君に囲まれたローマ帝国セウェルス 息子はカラカラ帝だし、親類にはヘリオガバルスがいるし

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「本人は決して悪くないのに、周りからの評価が芳しくない」
そんな状況はまま起こります。最もピンと来るケースは「その人の家族がアレだから」というものではないでしょうか。極端な例かもしれませんが犯罪者の家族が肩身の狭い思いをする――というようなパターンです。
本日はそれにあてはまる……かもしれない、とある君主のお話。

146年4月11日は、後にローマ帝国皇帝となるセプティミウス・セウェルスが誕生した日です。

ローマといえば五賢帝……ほどの知名度はありませんが、彼もどちらかといえば優秀な部類の皇帝に入るでしょう。
しかし、次代が悪い意味で有名なために、割を食うことになってしまいました。
セプティミウス・セウェルスの生涯とともに、「次代」も一緒に見ていきたいと思います。

カピトリーノ美術館のセウェルス胸像(photo by antmoose)/wikipediaより引用

 

父も母も出自は良好 あとは本人の頑張り次第!?

セウェルスは、なかなか恵まれた環境で生まれ育っています。
父・プブリウスはポエニ戦争(ローマ帝国とアフリカ北部にあったカルタゴという国の戦争)の功績で領地を得た貴族の家系であり、母・フルウィアはローマの没落貴族の出身でした。

他にも、父方の親戚にはときの皇帝であるアントニヌス・ピウス帝の元で重職についていた人が何人かいます。
将来を約束された……とまでは言い切れないにせよ、本人の努力次第で出世も夢ではない立場だったといえますね。

子供の頃の暮らしぶりははよくわかっていませんが、ラテン語・ギリシャ語の他にポエニ語を話すことができ、弁論についても学んでいたとされます。
16歳ぐらいからセウェルスは帝国中枢での出世を望むようになり、故郷を出てローマにやってきました。着いて程なく、親戚のツテで元老院に出入りできる立場になっています。

しかし、まだ若すぎたゆえに、当初はなかなか出世できませんでした。ローマ帝国の登竜門にあたる役職はいくつかありますが、そのうちの「財務官」については、25歳以上という年齢制限があったからです。
現代の日本でいえば、総理大臣を目指す高校1年生がいたとして、選挙に出るためには最低25歳(衆議院議員の被選挙権が得られる年齢)まで待たなければならない、といったところでしょうか。

そうして地道な努力を続けていたセウェルスでしたが、思わぬトラブルに見舞われます。
ローマで疫病が大流行したのです。

 

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運良く「アントニヌスの疫病」を免れ、後に護民官の職に就く

当時の皇帝はマルクス・アウレリウス・アントニヌス。疫病の正体は、彼が西アジアの大国・パルティアへの遠征から持ち帰ってしまったと思しき「天然痘」でした。
後に「アントニヌスの疫病」と呼ばれる大流行がローマを襲い、セウェルスは命からがら一時地元へ。幸い、感染前に離れることができたようです。

そして25歳になると、晴れて財務官選挙で当選し、元老院の一員に迎えられています。
「アントニヌスの疫病」によって元老院議員の多くも死亡しており、人手不足でてんてこ舞いだったようで、当人にとっては不幸中の幸いでした。
おそらくセウェルスも様々な仕事をしていたと思われますが、その記録は乏しく、おそらくや人員の余裕もなかったことが窺えます……って、生々しいですね。

その後、イベリア半島南部の属州であるヒスパニア・バエティカに赴任することになったのですが、父の急死により実家へ。しかも、セウェルスが戻る前にヒスパニア・バエティカで反乱が起きてしまい、任地に行けなくなってしまいました。
27歳になると、彼の親戚が属州アフリカの総督になり、その代理官に選ばれているので、経歴的に大したマイナスにはならなかったようですが。
もしかすると日頃から親戚づきあいが上手い人だったのかもしれませんね。でないと、こんなに色々と取り計らってもらえないでしょうし。

その後、ローマに戻ったセウェルスは、護民官の職に就きました。
護民官とは、ローマ帝国の役人の中でもとても強い権限を持つ役職の一つです。
・元老院の決議を取り消す権利
・身体の不可侵権
・平民会の召集権
などを持っていました。

 

神官の娘と結婚 その妹が、史上最悪ヘリオガバルスの……

少々バタバタしていたせいでしょうか。セウェルスの結婚は、当時としてはかなり遅いものだったようです。
30代に入ってから同郷の女性と結婚したものの、子供が生まれないまま亡くなってしまうという不運。その頃、彼は既に40歳になっており、跡継ぎを得るために再婚を急ぎます。

その相手が属州シリアの神官の娘であるユリア・ドムナでした。
神官とはいえ、かなりの資産と地位を持っており、豪族といっていい家柄だったようですね。

この人の妹が、後に史上最悪の皇帝・ヘリオガバルスの祖母となるユリア・マエサです。

セウェルスはユリア・ドムナの頭脳を買い、政治的な話をすることもあったといいます。これが後にユリア・マエサを勢いづかせることになった気がしますね。
「女でも、やりようによっては政治に介入できる」と。
もちろん志と資質があれば女性が政治を推し進めたって悪くないですが、いかんせんユリア・マエサの場合は……(´・ω・`)

ユリア・ドムナは心身ともに頑健だったようで、結婚からそう年月を置かずに子供に恵まれました。
後のカラカラ帝やゲタです。
こうしてみると、この一家強烈すぎますね。

望み通り跡継ぎを得たことで一層やる気も出たのが、セウェルスは順調に出世していきます。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝が亡くなり、コンモドゥス帝に代替わりすると、属州パンノニアの総督に任命されました。
パンノニアは現在のオーストリアやハンガリーなどにまたがる地域で、ヨーロッパの要衝の一つです。つまり、そこを任されるほど皇帝の信頼を得ていたことになります。

 

軍事独裁政権なれど、評判は悪くナシ

その後コンモドゥス帝が暗殺され、皇帝を名乗る者が複数現れるなど、帝国はしばらく混乱に陥りました。
セウェルスも帝位を求めて名乗りを上げ、兵を動かします。

そして他の帝位請求者を退け、元老院からの支持も得て皇帝に即位しました。

同じく帝位請求をしていたシリア総督ペスケンニウス・ニゲル、ブリタニア総督クロディウス・アルビヌスの二人が反対したのですが、セウェルスは剛柔を使い分けて対応。クロディウスを副帝(=次の皇帝候補)にして懐柔し、ペスケンニウスは武力で押さえつけました。
しかし、ペスケンニウスを倒した後にクロディウスとも戦って勝っています。
つまり最終的には「力こそ正義」というやつです。

こうして皇帝としての立場を固めたセウェルスは、そのままシリア周辺の国を恭順させ、さらに東のパルティア王国と戦争を始めます。
この国とローマ帝国はたびたび戦争をしていましたが、セウェルスは首都クテシフォン(現・イラク)を陥落させ、パルティアからティグリス川沿岸までの領地をぶんどりました。
勝利を記念して、「セプティミウス・セウェルスの凱旋門」も作っています。
凱旋門というとナポレオンが作ったパリのものが有名ですが、ローマ帝国の時代からあったものなんですね。

軍を動かして皇帝になった人ですので、セウェルスの治世はいわゆる「軍事独裁政権」です。
汚職をした者を粛清したり、軍を優遇して支持を保つことにも気を配っていました。具体的には、軍の規模を大きくし、兵の給料を1.6倍に引き上げ、属州の市民による補助軍の増強も行っています。
この結果、軍の士気とセウェルス帝への支持は非常に高まりました。そりゃ、雇用拡大と給料アップを両方やってくれる社長がいたら、現代でも大人気ですよね。
セウェルス帝のこの方針は、軍人から皇帝になる人が増える理由にもなりました。

彼はそれだけでなく、民衆からも「強くて気前のいい皇帝」として受け入れられています。
優秀な人ならば、独裁は決してマイナスばかりでもありませんね。
歴史上「独裁」という言葉はマイナスイメージが先行しますが、悪名高い独裁者が単に人格的&能力的に壊れているから――という要素が多いんですよね。

 

「子供は親を選べない」……その逆もまた然り?

50代半ばあたりから、セウェルス帝は属州アフリカに攻め込んでくる異民族との戦いに力を入れはじめます。
実際に兵を指揮したのは別の将軍たちでしたが、彼らの働きによってアフリカの地中海沿岸部におけるローマの領地は広がりました。

62歳のときには、久々に親征を敢行。
行き先は属州ブリタニア(現在のイギリス南部)で、さらに北方のカレドニア(現在のスコットランド)にも向かい、ブリテン島の北端まで行ったといいます。これほど強ければ、民衆や軍からの人気が高まるのも当然ですね。

しかし、セウェルス帝も万能ではありません。
自らもかつて働いていた元老院からのウケが悪くなり始めたのです。汚職者の処罰を行ったからには新しい人を入れなければなりませんが、そこに自分で選んだ人を入れたからです。
元老院からすれば「汚職をしたとはいえ、ベテランを処罰してどこの馬の骨ともわからんやつを入れやがった」ことになるわけです。そりゃ面白くないはずですよね。汚職のほうが問題なんですけども。

近衛隊についても同様だったようです。
同時代の歴史家によると、51歳頃からセウェルス帝は友人であり近衛隊長でもあるガイウス・フルウィウス・プラウティヌスに内政を任せきりだったといいます。
こうしたやり方や外征の多さから、より元老院の心象を損ねたのでしょう。

ガイウスはセウェルス帝に厚く信任され、娘を長男カラカラの妃にするほどでした。つまり、次の皇帝の舅になったわけですが、増長しすぎたのか、セウェルス帝の親族によってガイウスは暗殺されてしまっています。
その後もセウェルス帝が親政を行うことはなかったようですが、女剣闘士同士による試合の禁止、キリスト教への迫害などを命じていますので、この辺は彼の意志が反映されているものと思われます。

セウェルスが亡くなったのは、生涯最後の親征となった二回目のブリタニア遠征中のことでした。
当時カラカラとゲタは既に険悪な仲になっており、どちらかをローマに残しておくことは危険だったため、両方連れて行っています。

そして、今度こそブリタニア全土を支配下にしよう!と意気込んでいたセウェルスですが、すでにこのとき痛風にかかっており、行軍の間に病状が悪化。悲願を果たす前にヨークで亡くなってしまいました。
カラカラとゲタは即座に作戦を中止し、父を火葬して骨壷を持ち帰っています。息子たちは父の遺志はどうでもよかったようです。
まあ、カラカラのほうは「この遠征中に父を刺し殺そうとした」なんて俗説もあるくらいですしね……。

息子たちがまともな人だったら、もうちょっとセウェルス帝の功績も有名になったかもしれません。
「子供は親を選べない」とはよく言いますが、その逆もまた然り……ですかね。

長月 七紀・記

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参考:セプティミウス・セウェルス/wikipedia


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