薩摩治郎八(バロン・サツマ)

書籍『「バロン・サツマ」と呼ばれた男―薩摩治郎八とその時代』/amazonより引用

明治・大正・昭和

パリで活躍した日本人「薩摩治郎八」バロン・サツマと呼ばれた生き方

「宝くじで一億円手に入れたら、何に使いますか?」

よくある仮定の話ですが、その人の価値観がよく分かる質問ですよね。

マンション買ったり、自宅をリフォームしたり、あるいは将来のために貯金とか、事業を起こしたいという方もいらっしゃるかもしれません。

本日はそのどれとも違う大金の使い方をした、とある人のお話です。

明治三十四年(1901年)4月13日は、薩摩治郎八(じろはち)が誕生した日です。

後にパリで「バロン・サツマ」と称されることになるのですが、この人のことを一言で説明するのは、なかなか難しいところがあります。

まずは当人が活動できた理由の一つ・ジーちゃんの話からはじめていきましょう。

 


祖父の薩摩治兵衛が近江商人に丁稚奉公

次郎八の祖父は、薩摩治兵衛という人です。

治兵衛は幼くして父を失い、母・弟とともに小さな畑で小作農をしていました。

収入は決して多くなく、苦しい生活から抜け出すべく、10代前半で一人、故郷の近江を出て江戸に向かうと、江戸・日本橋で織物問屋を営んでいた近江商人の店で、丁稚(でっち)奉公を始めるのでした。

丁稚奉公とは、子供が住み込みで商家で働くことをさします。

現代では児童労働になってしまいますが、給料が出ない、もしくはごく僅かな代わりに衣食住の保証がされるため、かつてはwin-winの雇用形態とみなされておりました。

特に、治兵衛のように貧しい家の子供は、丁稚奉公をしたほうがいいと思われていました。

治兵衛は、仕事のある日はもちろん真面目に働き、休みの日には読み書きの勉強に励みます。給料は雇い主に預け、少しずつ母に仕送りをしていたそうです。泣ける。

その努力が実って、28歳で店の若衆頭を任されました。

 


34歳のときに「薩摩屋」を開く

それなりのポジションになっても苦しい暮らしを忘れることのない治兵。

朝早く起きて後輩にあたる丁稚と拭き掃除をしていたと言います。

夜も仕事に励み、身なりも清潔にするよう心がけていたそうですから、絵に描いたような清貧な人物といえるでしょう。

その甲斐あって、雇い主だけでなく取引先からも信頼され、雇い主の娘を妻にもらって分家の主となりました。

が、この妻はいわゆるお嬢様タイプだったらしく、さほど間を置かずに離婚することになっています。

雇い主は「うちの娘のせいだから、お前はこれまで通り働いてくれ」と言ったそうですが、治兵衛は「離婚したことにはかわりないのだから、家はお返しします」と断りました。

そして再び、住み込みの番頭となり、34歳のときに改めてのれん分けされて、自分の店「薩摩屋」を開きます。

最初は苦しい生活でしたが、毎朝3時に起きて働く(!)という勤勉ぶりが功を奏し、先輩から資金として借りた二千両を、一年ほどで返すことができたそうです。

その後は横浜でキャラコ(金巾とも・インド産の平織り綿布)に目をつけ、外国人から積極的に仕入れて大いに財を成しました。

このため治兵衛は「木綿王」と呼ばれたそうです。

 


パリ留学でアラビアのロレンスとも交流

治郎八の父ちゃん、二代目・治兵衛は、あまり記録がありません。

しかし、おそらく堅実な人物だったのでしょう。

治郎八が大正九年(1290年)に英国・オックスフォード大学に留学しているあたり、きちんと店を切り盛りしていたと思われます。

なんせ次郎八の留学にかかる仕送りは当時のお金で月1万円(現在の価値にして約3,000万円)だったというのですから、現代なら、毎月一戸建てが買える金額。すげぇっすね。

次郎八はギリシア演劇などを学びつつ、「アラビアのロレンス」ことトーマス・エドワード・ロレンスなどと親交を深めていきます。

留学して二年目にはパリへ移り住み、豪華な屋敷とリゾートを行き来するという、実にうらやましい生活をしていました。

その一方で社交も続け、ジャン・コクトーなどの芸術家とも親交を持っています。

豪奢な暮らしぶりから、爵位がないにもかかわらず「バロン・サツマ」と呼ばれていたとか。

ちなみに「サツマ」は英語で「温州みかん」のこともさします。

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