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ニッコロ・マキャヴェッリ/Wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた イタリア

「君主論」のニッコロ・マキャヴェッリが描いた理想の君主とは?

更新日:

何かを比較することは冷静な判断のために必要ですが、自分自身の過去と現在を比べるのは、あまり得策ではない気がします。
無邪気に楽しかった学生時代とか、給料が良かった頃とか、付き合いたてや結婚してからの時期と現在を比べてしまうと、いろいろと滅入りますよね。今回は、おそらくそんな気分を味わったことがあるのではないかと思われる、著作家のお話です。

1469年(日本では応仁の乱真っ最中)5月3日は、「君主論」などを著したニッコロ・マキャヴェッリが誕生した日です。

イタリアの偉人というと、ローマ皇帝か芸術家であることが多いですから、そういった意味でも異彩を放つ存在ですね。
どんな生涯を送った人なのでしょうか。

 

ご本人は貧乏だったと仰ってますが……

ニッコロは、フィレンツェの法律家の父のもとに生まれました。

当時のイタリアは統一されておらず、都市国家がたくさんあった時代です。フィレンツェも現在のようなフィレンツェ市ではなく、「フィレンツェ共和国」という国でした。
マキャヴェッリ家はフィレンツェ共和国の名家であり、それなりの収入を得ていたと考えられています。

その割に、ニッコロは「私の家は貧乏だったので苦労した」と後々書いているのですが……”身分の割に”なのか、ニッコロが世間知らずだったのか、どっちでしょうね。
三男で充分な教育を受けることができているあたり、本当に貧しかったわけではなさそうです。

青少年期は、フィレンツェで大きな政治的動乱があった時代でもあります。
多感な時期に地元の有力者・メディチ家の興亡を間近で見た彼は、勉学に励みながら「理想の君主・国とは何か」を考えるようになっていきました。

そして、29歳のときフィレンツェ共和国の「第二書記局」という部署の局長につきます。
ここは内政・軍事のお目付け役のような部署で、ときには外交官のように他国と交渉することもありました。なかなか忙しそうな部署ですね。

 

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フランスと手を組み再びピサへ

この頃、フィレンツェ共和国のお偉いさんは、90kmほど西の町・ピサ(斜塔で有名なところ)を支配下に入れたいと考えていました。
フィレンツェ共和国の勢力圏は全て内陸部なので、交易ができる港を確保することは必須だったのです。

また、ピサはかつてヴェネツィアやジェノヴァと同じくらい栄え、商人の持つ海軍によって自治をしていた町でしたが、この頃には衰えていました。
フィレンツェから見れば、「ちょっと手を出せば手に入る」という感じだったでしょうね。

ニッコロも「ピサはフィレンツェの傘下に入るべき」と考え、戦略を書き記しています。
彼の生まれ育ちと職務が戦略への関心を育てた、といえるでしょうか。

そして1499年からいよいよ、フィレンツェの傭兵軍によるピサ侵攻が始まりました。

しかし、「傭兵軍の中でマラリアが発生したから」という理由で、あっさり撤退してしまっています。
伝染病の大流行防止策としては正解でしたが、残念なことに当時はそういう考えがありません。フィレンツェのお偉いさんは激おこ状態になり、傭兵隊長をしょっぴいて処刑しました。

それから二週間後、フィレンツェはフランスと手を組み、改めてピサ侵攻を計画します。
日本人からすると、「なんで他国が出てくるのかがよくわからん」というところですが、当時フランスはミラノを占拠しており、お互いに兵を融通することでWIN-WINになると考えられたからです。

 

借りた兵が働かない 更には味方を誘拐して身代金要求

そして翌1500年、ピサ攻略軍が再編成されました。

内訳はフランスから借りたスイス兵4000・ガスコーニュ兵2000。なかなかの大所帯です。
”ガスコーニュ”とはフランス南西部の地名で、傭兵になって生計を立てようと考える人が多かった地域でした。それだけに、フィレンツェ側でも期待していたと思われます。
ニッコロはこの軍の副官として参加しました。

が、進軍の段階からスイス兵もガスコーニュ兵も命令に従わず、やっとピサに着いても戦闘ではなく略奪を始めるというgdgdぶり。
フィレンツェ側では「傭兵のレンタル料ヤバイ。借りた人数で何とかなりそうだし、ウチの軍はいっか」(超訳)という理由で自前の兵を用意しておらず、レンタル兵がやる気を出してくれるまでどうしようもありませんでした。
このためレンタル兵はますます調子に乗り、ピサ侵攻を拒否した上に、フィレンツェのお偉いさんを誘拐して身代金を要求するという暴挙に出ます。
「援軍が自ら足を引っ張る」とは斬新な戦場ですね。

ニッコロはこのカオスの中、フィレンツェやフランスへの連絡を取ったり報告書を作ったりと、忙しくしていました。ただでさえ忙しいのに、傭兵たちのアレっぷりに対しては苦々しく思っていたでしょうね。
そのうちレンタル兵たちは勝手に引き上げてしまい、フィレンツェの計画は完全に失敗します。

 

アンタがよこした兵のせいで散々なんだよ(#^ω^)

ニッコロはこの経験から「やっぱり傭兵はダメだ。自前の軍隊をきちんと持たないと」と強く思うようになりました。そりゃそうだ。

傭兵たちの悪行のせいで、フィレンツェ共和国そのものの評判も落ちてしまっています。しかもフランス王ルイ12世は一方的に同盟破棄を通達してくる始末。フィレンツェ側はさぞ「アンタがよこした兵のせいで散々なんだよ(#^ω^)」と言いたかったでしょうね。
ニッコロはフランスまで使者に赴いたそうですが、こんな出張嫌すぎる。

一段落した頃、ニッコロはお偉いさんたちに「傭兵には頼らず、自前の軍事力=国民軍を保持すべき」と進言しました。反対意見もありつつ、国民軍は無事組織されたのですが……。
戦果を挙げる前に、メディチ家の再興を狙う人々によって政権が倒され、ニッコロも第二書記局長をクビになってしまいます。

その後、メディチ家の再興を不本意とする人々によって暗殺計画が立てられたものの、事前にバレて頓挫。これにニッコロも関わっていたため、指名手配されてしまいました。自首したのに、彼は聴取という名の拷問を受けたそうです。もしかして、看守の趣味?

当時のメディチ家の中心人物・ジョバンニが教皇になったため大赦を受けることができましたが、ニッコロの年収10年分もの金額を保釈金として払わなければならなかったといいます。
このときは、自身の年収と比べて約3倍だった友人達にお金を借りて、ピンチを乗り切ったようです。しかし、そんな階層の人たちと、よく付き合えていたものですね。
というか、このとき自分でお金を用意できなかったせいで、「幼い頃から私は貧乏だった」と思い込んだのかもしれません。

 

「君主論」とは? リーダーの技量や軍備が大事なり

その後はキャンティ地方の別宅に家族とともに移り住み、晴耕雨読の日々を送りました。
ワイン用のぶどう畑も持っていましたが、当時はキャンティ・クラシコはなく、また「ワインで一山当てる」という概念が薄かったため、マキャヴェッリ家の生活は慎ましいものだったようです。

ニッコロは、政治・軍事に関する著作を続けていました。また、生活のためなのか、劇の脚本も書いています。特に喜劇は人気となり、その道で名声を得ていたとか。

学者や政治家というと堅苦しい人物をイメージしますが、素のニッコロはどちらかというとイタリア男性のステレオタイプみたいな人だったようです。
つまり家族愛が強く、飲む・打つ・買うことを好み、陽気でおしゃべり……というような感じです。著作で名を残した人にしては、なかなか珍しいタイプのような気がします。
しかし、この頃が彼の一番幸せだった時期かもしれません。

そのうち気を取り直して、メディチ家政権に戻ったフィレンツェ政府で再び働きたいと思うようになりました。

「君主論」はこの頃に出されており、メディチ家に献上したともいわれてますが、詳細は不明です。

「君主論」をはじめとした彼の持論をまとめると、だいたいこんな感じになります。
・君主には運命を引き寄せる技量が必要
・軍備は大事
・傭兵より自前の軍を持って維持すべき
そのほうが訓練もしやすいし、実戦での統率もしやすい
・司令官には高貴な血筋や権威よりも、統率力が必要
そのためには演説をする能力が不可欠

 

イタリア戦争で勝つには国内がまとまらねばならない

また、この頃スペインとフランスがイタリアを狙って争った「イタリア戦争」が起きていました。

ここからニッコロは「イタリアがこのまま都市国家ばかりでは、いずれどこかの国に征服されてしまう」と危惧を抱き、イタリア半島統一が必要だとも感じていたようです。
19世紀まで「イタリア統一」という概念はほとんどなかった中、ニッコロは数少ない視点を持っていたといえますね。惜しむらくは、支配者層や教皇にそういう視点がなかったことですが。

ニッコロ個人としては、チェーザレ・ボルジア(ルクレツィアのにーちゃん)を理想の君主としていたようです。メディチ家のシマでボルジア家を目標にするって、割と度胸が要る話ですよね……。

一度は復帰し、1520年にジュリオ・ディ・メディチ(後の教皇クレメンス7世)の依頼で、フィレンツェの歴史書を書いたこともありました。
しかし、そのために1527年にメディチ家が再度追放されたとき、思わぬ煽りを受けることになります。「メディチ家に近かったヤツは皆叩いておk」とみなした共和制派から、ボロクソな誹謗中傷をされたのです。

この頃ニッコロは既に60歳近くなっていたこともあってか、そのまま病気になり、亡くなってしまったようです。
なんとも寂しいというか、悲しい最期ですよね。

別の時代か別の国に生まれていれば、もう少し良い主に出会えて、重んじられたかもしれません。

長月 七紀・記



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参考:ニッコロ・マキャヴェッリ/Wikipedia

 

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