江戸時代’(江戸城内)の朝鮮通信使/wikipediaより引用

江戸時代

当時はピリピリしていたの? 朝鮮通信使は室町~江戸時代まで続いた

慶長十二年(1607年)5月6日は、朝鮮通信使徳川秀忠の将軍就任祝いのため、初めて江戸を訪問した日です。

まだ豊臣家が存在していた時期ということを考えると、なかなか危なっかしい感じもしますね。
豊臣秀吉が半島へ攻め込んだ【文禄・慶長の役】は1592年から1598年にまで至っておりますので、終結から10年程度しか経過しておりません。

しかし、日本と朝鮮とのお付き合いの歴史は、どちらかというと秀吉時代のほうがイレギュラーとも思えます。

今回はそのお付き合いの一端である、朝鮮通信使についてざっくりみていきましょう。

 

倭寇(海賊)をどげんかせんといかん!

現在、朝鮮通信使の話をするときは、江戸時代のことがほとんどです。
しかしその始まりはもっと前、室町時代のことでした。

当時、朝鮮半島を含めた大陸沿岸部では、日本人の海賊である倭寇に頭を悩ませていました。中には大陸側の人間もいたそうですが、当時は現代ほど国籍の吟味はしていなかったでしょうからね。

そこで、「日本人の海賊がこっちの海で暴れてるんで何とかして(´・ω・`)」というお願いをするために、朝鮮から使者がやってくるようになったのが、通信使の始まりです。
14世紀から朝鮮と貿易する日本人が現れ始め、朝鮮政府に仕える者や定住する者も増えていたので、話は進みやすかったと思われます。

まず九州探題(幕府から派遣される九州方面の役人)または少弐氏が接待し、その後は大内氏が同じく接待と警護を請負ました。そのついでに、通信使と各大名との間で政治的交渉も行われていたようです。

西国大名は朝鮮との貿易をしている者も多く、倭寇への影響力も無視できないと考えられたからでした。

大内氏が大陸との貿易で莫大な利益を上げ、根拠地である山口を「小京都」と呼ばれるほど発展させました。残念ながら、最後の当主・大内義隆が残念だったせいで陶晴賢と、ひいては毛利元就に滅ぼされてしまいましたが。

この頃は室町幕府が京都にあったため、適当なタイミングで「京に入ってもいいか」という確認の使者が幕府に送られ、許可が出てから京へ向かっていたそうです。
なかなか面倒なことですが、何せ京には天皇もいるので、そう簡単に異国人を通すわけにはいかなかったのでした。

応仁の乱以降は通信使が中断したものの、西国大名のうちいくつかの家との交易は続いています。

 

内紛長引く李氏朝鮮に対し、秀吉「道案内せーや」

次に朝鮮と使者が行き来するようになったのは、秀吉時代のことです。

当時、朝鮮半島にあった国である李氏朝鮮では、この時期、内紛が続いていました。
しかもその続きようが数年とか十数年とかいうレベルではなく、世紀単位だったものですから、民衆はすっかり「ダメだこの国……はやく何とかしないと」(※イメージです)という気分になっていたといいます。

日本に滞在していたルイス・フロイスが知っていたくらいですから、秀吉やその周辺の大名も知っていたでしょうね。

こうして大陸へ攻め入ることを計画した秀吉は、朝鮮とツテを持つ大名に「明を攻めるから道案内ヨロシク^^」(超訳)という意向を伝えるよう命じます。

絵・小久ヒロ

しかし、そうした大名は朝鮮との交易で稼いでいますから、戦になれば一大事。
何とか侵攻を取りやめてもらおうとアレコレ策を図り、全て失敗してしまった上、秀吉の機嫌を損ねてしまいました。

そんなわけで、李氏朝鮮と戦をおっぱじめることになったわけです。

結果は言わずもがな。
小西行長らが板挟みにされ、秀吉は更に再出兵を計画していたようですが、その前に寿命が来たため、実現しませんでした。

代わって朝鮮との和平交渉に動いていたのは、徳川家康と対馬の大名・宗氏です。

 

家康が伏見城で会見

関が原の後、家康が実質的な最高権力者になったのは、これまた皆さんご存知の通り。

朝鮮から見れば「違う家がトップになったのだから、秀吉のようにまた攻め込んでくることはないだろう。何回も和平の意向だと言ってきているし」となります。

慶長十年(1605年)、朝鮮の使者が対馬にやってきた際、家康は「直接会って話したいから、京へ来るよう伝えてくれ」と連絡、伏見城で会見しました。
そして慶長十二年のこの日(5月6日)、正式に和平を結ぶ返礼の使者を兼ねて、秀忠の将軍就任祝いの一行が訪れた……というわけです。

徳川秀忠/Wikipediaより引用

その後、新しい将軍就任のたびに通信使が訪れるようになりました。
秀忠の代には、大坂の役に対する祝勝、家光の代には家綱の誕生・日光東照宮落成のお祝いの際にもやってきています。

しかし通信使は、送るほうも迎えるほうも、莫大な費用がかかります。
国内の参勤交代ですら、大名の経済力を削ぐには充分だったのですから、海を渡ってくる通信使にお金がかからないわけがないですよね。

問題は、通信使の大所帯ぶりにありました。
とにかく人数が多かったのです。そのため……。
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