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給糧艦伊良湖/wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代

給糧艦「伊良湖」と「間宮」の大事な役割~ラムネとオニギリが兵士を癒やす

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人によって程度の差はあれ、食事は大きな楽しみのひとつですよね。
経済的・体質的に好物が食べられないという状況は、どうにも切なく寂しいものです。住む場所と着るものは最低限にできますが、食事まで削るといろいろと問題が生じますし。
それは過酷な状況に赴く、軍隊でも重要なポイントでした。

昭和十五年(1940年)5月30日は、旧日本海軍所属の給糧艦・伊良湖(いらこ)が起工した日です。

某これくしょんでは特定の時期の必須アイテムとして親しまれていますが、当時の海軍にとってもアイドルのような存在でした。

給糧艦の「給」は給食の給と同様で、「何かを補充すること」という意味です。
似たような部類の船として、船の燃料だった石炭を運ぶ「給炭艦」や、石油を運ぶ「給油艦」などがあります。
給糧艦の場合はその中でも、食糧を主に運ぶのが仕事でした。

 

一度出港したら補給の保証なき軍艦 最初に間宮が造られた

旧軍で食べ物の話題というと、末期の悲惨な状況の話が有名かもしれません。しかしそれまでは軍の上の方でもそれなりに気を使っています。
人間の三大欲求のうち、戦場でも共有できて工夫が可能なものというと「食」しかありません。日本では古来から「腹が減っては戦はできぬ」ともいわれていますしね。

現地で買ったり奪ったりもできなくはない陸軍と比べ、海軍は一度出港したら無事補給先にたどり着けるとは限らない……という点も理由のひとつでしょうか。いつ敵艦に攻撃されるかわかりませんし、悪天候で予定がずれることも十二分にありえます。

海軍のお偉いさんたちは「メシが確保されないと、いざというときお国の役に立てないだろ!!」(※イメージです)という熱い要望を政府に出し続けていました。

そして、給油艦に使う予定だった予算の一隻分を投じて作られたのが「間宮」という給糧艦です。

1922年10月起工・1924年7月竣工なので、伊良湖の大先輩という感じですね。
北米航路向けの客船設計をベースに作られており、かなり大きな船でした。

現代でも食料の輸出入に使う船はかなりの大きさですが、間宮の場合は保管のための冷蔵・冷凍庫だけでなく、他の設備も豊富に備えています。
こんにゃく・豆腐・油揚げといった外国ではほぼ調達不可能な食品や、アイスクリーム・ラムネ・最中・まんじゅうといった嗜好品までを作れる設備と、それぞれを専門とする職人が乗り合わせていたのです。中でも間宮で作られる羊羹(ようかん)は絶品で、某老舗和菓子屋の羊羹にも匹敵する味だったとか。

給糧艦・間宮/wikipediaより引用

 

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給糧艦・伊良湖も起工 2隻で50万食を積み込めた

良いものを作って前線の士気を支える――。そのため同艦では真水や衛生にも細心の注意が払われていました。

しかし、間宮はその巨大さや設備の都合上、あまりスピードは出せません。そのため、第二次世界大戦の兆しが見え始めると、「士気の要となる給糧艦が一隻では心もとない」と考えられました。
そこで再度海軍の根強い要請により、二隻目の給糧艦・伊良湖が起工したのです。……その気合を開戦回避とか休戦・停戦交渉の方向に使えれば……(ボソッ)。

間宮は1万8000人×3週間分、伊良湖は2万5000人×2週間半分の食糧を運ぶことができました。
単純に考えて、この二隻で50万人が一日に食べる量を運べていたわけです。

もはや規模がデカすぎてわけがわかりませんが、乱暴に言うと”間宮と伊良湖が一斉に食糧を放出すると、姫路市や宇都宮市などのいわゆる「50万都市」で一日に消費されるのと同じくらいの量になる”わけです。
……余計ワケワカメになった気がしますがキニシナイ。実際はそうスムーズには行き渡らないでしょうしね。

他にもクリーニング屋さんのような洗濯・アイロン設備を持っており、海軍にとっては「美味しいご飯とおやつを持ってきてくれるでっかいカーチャン」のような船でした。
間宮もしくは伊良湖が来る、と聞くと、多くの兵が歓喜に沸いたといいます。いつの時代も美味しいものは元気の源ですものね。

 

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ドイツ軍のシャンパンを間違って飲むほど人気だったラムネ

とはいえ、常に全ての艦が間宮や伊良湖と行動を共にしたり、頻繁に補給を受けられるわけではありません。
各艦でもそれぞれに食の工夫をし、緊張やストレスの緩和に努めていました。

最も有名かつ広まっていたのは、多くの艦内でラムネが作られていたことでしょうか。

ラムネも他の洋食同様、明治時代に日本へ入ってきましたが、中でも普及が早かったもののひとつ。
日清戦争までの間に国内のかなりの地域で普及しており、第一次世界大戦の中国戦線では「ドイツ兵が置いていった泡の出る飲み物を、日本兵が『ラムネだ~!』と大喜びで飲んだら、実はシャンパンで皆べろんべろんに酔ってしまった」なんて話があるくらいです。

太平洋戦争では、長距離航海かつ現地の衛生状況がアテにならないことがほとんどだったため、「衛生的に飲める」かつ「嗜好品として役立つ」という二つの特徴が備わり最強にみえるラムネは、戦場に最も適した飲み物と考えられました。
現代にもある、あの独特の瓶や開封時の音も、戦時中には既におなじみになっていたので、兵のささやかな気分転換となったようです。

基本的に大型艦・後に造られた船ほど食事の質や設備が良くなる(ただし居住性はそうとも限らない)ため、この手のことでもやはり、後期に作られた戦艦大和、及び同型艦の武蔵は優れていました。
ラムネ製造機はもちろん、大和についてはアイスクリームやこんにゃく・納豆まで船内で作れたといいます。
大和と武蔵は装備や基本設備がほとんど同じだったとされていますので、武蔵にも同等の設備があったと考えるのが自然ですが、何故か食の話題が多いのは大和だけだったりします。調べきれてないだけだったらスミマセン。

 

銀シャリ握りで士気高揚

また、どこの艦でも食べられており、担当者が特に工夫を凝らしていたのが「おにぎり」です。
というのも、戦闘中だと悠長に食堂に戻って食事というわけにはいかないので、各自の持ち場におにぎりが届けられたからです。

場合によって混ぜご飯だったり、たくあん・ゆで卵・肉の缶詰などのちょっとしたおかずがついたり、休戦に近い状況だと汁物や煮物がつくこともあったとか。
最近のコンビニのおにぎりや、おにぎり+おかずセットと似たような感じですかね。

脚気予防の目的もあるため、普段は艦内の食事は麦飯ですが、おにぎりでは白米100%(銀シャリ)というのも人気の理由でした。
多分やってみたことがある方も多いと思うのですけれども、麦飯をおにぎりにしようとしても、ポロポロと崩れてしまうんですよね。食べやすくするためのおにぎりが崩れてしまっては本末転倒です。

そういった実用的な理由で銀シャリになったわけですが、戦闘中とはいえ、めったに食べられない銀シャリのおにぎりは、大いに士気を上げたといいます。旧海軍に所属していた方の手記などでも、「広々とした甲板でおにぎりを頬張ったのはいい思い出」と書かれていることが珍しくありません。

これは指揮官などのお偉いさん方も同じで、艦橋(ブリッジとも。基本的に船で一番高いところにあり、艦長などが司令を出す場所)でおにぎりを食べることもありました。
大きな船だと、お偉いさんと兵は別室で食事をしていたため、和気あいあいとした雰囲気が好きな艦長の場合、むしろおにぎりを食べるようなシチュエーションのほうが好きだったとか、そうでないとか。
……まあ、おにぎりが出る=基本的に戦闘中なので、それなりにアレな状況という場合もあるわけですが……。

海軍の後継者である海上自衛隊でも、おにぎりを握るスキルは必須……というか、夜食のためによく作るので、自然と上手くなるそうです。
最近は「人の握ったおにぎりとか無理;;」という方も多いようですが、やっぱり自衛隊だとそういうことはないんでしょうね。

旧海軍の食事、特におにぎりやカレーライスは各所のイベントでたまに再現されているので、味わいながら当時を偲ぶのもいいかもしれません。

長月 七紀・記

参考:伊良湖_(給糧艦)/wikipedia 間宮_(給糧艦)/wikipedia

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