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織田家 武田・上杉家 その日、歴史が動いた

魚津城の戦い~上杉武将たちは犬死だったのか? 本能寺の一報は、自刃の後に届いた

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戦国時代が命がけの世の中であった……というのは、もはや「おまえは何を言っているんだ」レベルの常識。
しかし、その中にも程度というものがあります。
残念ながら犬死にになってしまったケースもあれば、壮絶に戦って伝説となった者、はたまた主のために自ら犠牲になった者まで、その意義は実にさまざまです。
今回は、人によって評価が分かれそうなケースをひとつご紹介しましょう。

天正十年(1582年)6月3日は、魚津城の戦いが終結した日です。

この年は武田家(武田勝頼)が織田信長に滅ぼされ、本能寺の変が起き、日本史が大きく動いた年でもあります。
その陰に隠れてしまっていますが、上杉家もまたこの戦いにより危機を迎えていました。

 

魚津城内3,800 織田包囲軍40,000 しかし景勝は……

魚津城は15世紀頃に建てられ、謙信の代から上杉家の支城となっていたところです。
当時、上杉家の本拠であった春日山城からすると、魚津城は京へ行き来する道中の要となる場所。だからこそ、織田軍もここを遮二無二攻めています。

柴田勝家率いる織田軍が魚津状への攻勢を開始したのは、天正十年3月のことです。
同月11日には信長自身が出馬した武田征伐において、当主・勝頼が自刃しています。また、この日、勝家らは魚津城攻めを中止して、富山城を奪い取っており、武田と上杉は同時に織田家に攻略されつつありました。

偶然って怖い……といいたいところですが、たぶん信長も「龍虎といわれた武田・上杉を同時に打てば、関東や奥羽への大きな牽制になる」くらいは考えていたでしょう。

一方、上杉軍もただでやられる訳にはいきません。
魚津城内は3800、対する織田軍は4万ほどの兵力があったとされています。基本的に、準備が整っていれば籠城戦は城方が有利になりますが、圧倒的な兵数の差もあり、支えきれなくなるのは時間の問題。そのため、すぐに上杉景勝へ救援を求めています。

しかし、景勝は動けませんでした。
まだ信濃・上野(現在の長野・群馬県)には織田軍が残っており、越後内でも怪しい動きを見せる者がいたからです。

上杉景勝/Wikipediaより引用

 

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魚津城の家臣たちには降伏してでも生き残ってほしい

景勝は、自身が動けない代わりに能登(現・石川県)などから援軍を向かわせました。
魚津城の面々はよく持ちこたえ、5月初旬にいよいよ景勝自身が援軍に向かいます。そして東側にある天神山城で機を伺いました。

しかし、ここで再度「信濃と上野の織田軍が、越後侵攻に向かっている」という知らせを受け、5月27日に断腸の思いで引き返すことを決めます。
景勝は魚津城へ「降伏して良い」と書き送りました。

また、謙信の代からの付き合いである佐竹義重へ「日本全土を手に入れようとしている相手に対し、越後一国で立ち向かって討ち死にできるなんて、私は果報者です」(意訳)という手紙を出しています。
つまり、景勝は「自分が討ち死にするのは構わないが、魚津城の家臣たちには生き残ってほしい」と思っていたことになるわけです。

謙信があまりにも偉大すぎて「景勝(笑)」のような扱いをされることもありますが、この誠実さと清々しさが景勝最大の美点だったでしょうね。
この二通の手紙を知ると、彼が関が原の後に120万石から30万石へ大減封となっても「召し放ち(リストラ)」をしなかった・できなかった理由もうなずけます。

魚津城の諸将も、景勝の気持ちはよくわかっていました。

そして、それ故に降伏できませんでした。

上杉家が大幅減封! 一年で石高120万石→30万石の大ピンチを救ったのは……

 

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陥落! そして、本能寺の変!

開戦からちょうど3ヶ月経った今日この日、12人あるいは13人の上杉軍守将は皆揃って自刃し、織田軍が魚津城を攻め落とします。

この自刃のやり方がまた壮絶なものだったのですが、R18Gになるかもしれないのでここでは割愛させていただきます。ご興味のある向きは各自お調べください。マイルドに表現できませんでしたスミマセン。

勝利に沸いた織田軍ですが、ここで最悪の知らせを受け取ることになります。

本能寺の変です。

慌てふためき、我先にと魚津城から退却する織田勢。
その後一度、上杉軍が魚津城や周辺地域を奪還しています。このときの景勝以下の気持ちはいかばかりか……。
まあ、清州会議で織田家が落ち着いた後、再び佐々成政によって攻め取られることになるのですが。

童門冬二先生の「小説 直江兼続」の冒頭で、魚津城の戦いをめぐる景勝と兼続のやりとりが出てくるので、物語として楽しみたい方にはおすすめです。大河ドラマ「天地人」ではどのくらい扱われていましたかね……忘れてしまいました。

そろそろ景勝主役のドラマや映画が出てきてもいいんじゃないかと思うのですが、上記の通り、ここは景勝という人間の内面が一番表に出ているところです。映像化の際はぜひ力を入れて作ってほしいところです。

現在、魚津城阯は小学校になっています。
こんなすさまじいエピソードがあると怪談の一つや二つあってもおかしくありませんが、ざっと調べたところない様子。まあ、ここの上杉軍が恨むとしたら織田家の面々であって、地元民や上杉家ではないから当たり前かもしれませんね。

今は静かに、子供たちの成長を見守っていてくれたら良いのですが。

長月 七紀・記

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参考:魚津城の戦い/wikipedia 今日は何の日?徒然日記




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