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その日、歴史が動いた 徳川家

本多正信は家康のマブダチ 有能なれど身内からの評価ボロクソだった理由

更新日:

世の中では「社交的で明るい人」が最高の人物だとされていますよね。
しかし、心底明るい人というのはかなり珍しいのではないでしょうか。面従腹背という言葉があるように、二面性やそれ以上の使い分けをしている人は意外と少なくありません。
逆にいえば「一見暗い・強面に見える人でも、意外と優しい」なんてこともごく当たり前に存在します。
今回は、その一人だったかもしれないとある黒い印象な人物のお話です。

元和二年(1616年)6月7日、徳川家の能臣・本多正信が亡くなりました。

徳川家康のことを描く作品にはだいたい登場する人物ですが、その名前や演じた俳優さんの名前よりも「悪役」とか「腹黒い」という印象が強くありませんか?
これはおそらく正信の経歴や、担当していた仕事によるイメージの影響かと思われます。
生涯を追いながら考えてみましょう。

 

三河一向一揆では家康と袂を分かつ

正信は、天文七年(1538年)に三河で生まれました。
最初は鷹匠として、後に武士として家康に仕えるようになりましたが、永禄六年(1563年)の三河一向一揆で一揆衆につき、一度袂を分かっています。

一揆鎮圧後もすぐに帰参はせず、松永久秀のもとに一時身を寄せた後、流浪していた時期がありました。
その間の行動や、帰参の時期ははっきりしていません。少なくとも本能寺の変の前には徳川家に戻っていたと考えられています。

本能寺の変と言えば、家康が堺から本国へと逃げ帰った「神君伊賀越えに同行していた」など、正信には曖昧な話が多くつきまといます。記録上はこのとき家康のお供をした34人の中に正信の名前はないのです。
これも、評判の悪さを払拭するため後から付け加えたかのようである……というのは穿ちすぎですかね。

さて、家康が旧武田領を手に入れた頃から、正信の能吏としての動きが出てきます。
旧武田家臣に呼びかけ、領地を与える代わりに徳川家へ来るよう誘ったとか。こうして甲斐・信濃(現在の山梨・長野県)を統治しやすくしたのです。
三河武士らしからぬ策謀のかほりがするのも、また事実ですが。

通称の「佐渡」は天正十四年(1586年)に朝廷から従五位下・佐渡守に任じられたことによります。戦国時代は自称の官位と正式に任じられた官位が混ざるところがめんどくさいですね。

 

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秀吉の死後 徐々に活躍が目立つようになって

家康が関東に入ってからは、相模国玉縄で1万石を与えられ、大名の仲間入りを果たしました。

そして秀吉が慶長三年(1598年)に亡くなってから、正信の活躍が目立つようになります。
これも正信に黒いイメージがつく理由のひとつでしょうね。秀吉が亡くなった後から関が原までは、家康もいろいろと策謀を巡らせていた時期ですし。
前田利長を金沢に追いやるなどの件も、正信の献策だったという説があります。

関が原の戦いでは、秀忠に従って中山道から上田城の戦いに参加しました。
正信は「上田城を落とすより、父君との合流を優先すべきです」と進言したのですが、秀忠が聞き入れなかったとされています。これは正信に力がないというよりも、「正信に秀忠の手綱取りができるかどうか」を把握できていなかった家康が悪いんじゃないですかね。
正信は後に家康の後継者を選ぶ際、結城秀康を支持したといいますから、元から馬が合わなかったのかもしれませんし。

その後は家康の征夷大将軍就任に際しては、朝廷との折衝役を務めました。
同時期に本願寺が分裂しかけており、これを家康に報告して分裂を促進させたともいわれています。詳しくはこちらで↓。

東本願寺と西本願寺が二つに分かれているのは豊臣秀吉と徳川家康のせいだった!?

 

江戸幕府樹立と共に大老同然の重要ポジションへ

慶長八年(1603年)に家康が将軍となって幕府が開かれると、正信はいよいよ幕政に直接関わるようになります。

そして家康が隠居した後も、老中として秀忠の政治を支えました。

幕府開府の功労者ということもあってか、慶長十五年(1610年)には大老同然の立ち位置になったようです。
それに従って黒い噂もよりグレードアップし、大久保忠隣失脚を誘導したとかしていないとか。政治家に黒いイメージが付きないのは今も昔も同じですね。
息子・正純の家臣である岡本大八も、結果的に有馬晴信が死罪となる事件を起こしていますし。

慶長十八年(1613年)に高齢のため暇を出されましたが、大坂冬の陣では献策を行ったといいます。
正信は若い頃から足が不自由で、晩年には歩行困難だったそうですから、手紙でですかね。

家康が亡くなったのと同じ年、2ヶ月後に正信も亡くなっているのが何ともいえないところです。こういう例はなくはないですけれども、多くもないだけに余計に。

 

「佐渡の腰抜け」「腸の腐った奴」って身内からの評価ボロクソ

いずれにせよこんな生涯だと何となく黒い仕事が多かったように感じられても仕方ないのかもしれません。
実際、その印象のせいか、他の徳川家臣からの正信評価は散々なものです。

本多重次(通称・鬼作左)や忠勝などの同じ本多姓からは「佐渡の腰抜け」「同じ苗字でも無関係」、榊原康政からは「腸の腐った奴」というボロクソぶり。
後世に書かれた書物が出典のものもあるので、ここまでは言っていないかもしれませんが、好人物という評価でなかったことは確かでしょう。

一方、一時期、主だった松永久秀は「徳川家の家臣は武辺者が多いが、正信は剛・柔・卑のどれにも偏らない器を持っている」とかなり褒めています。
……まさかボンバー松永に高く評価されてるのが悪評の元だったり……。

家康にも「友」と呼ばれたり、帯刀したまま寝室への出入りを許されたりと、ひいきを受けていたらしき逸話があります。

この辺からすると、元から武働きよりも智謀で功を挙げたことや、家康に気に入られていたことから嫉妬を受けて悪評が立つようになったのではないでしょうか。

 

家康にも敢えて苦言を呈する一方、周囲に気を遣える人物だった?

しかし、正信も完全に周りが見えていなかったわけではなさそうです。

家康が些細な事で近習を罵倒していたとき、間に入って「一度ご機嫌を損じたからといって萎縮する必要はない。上様は大声を出されてのどが渇いておいでだから、お茶をお持ちせよ」となだめた話があります。

またあるときは、賤ヶ岳の七本槍の一人・加藤嘉明に50万石を与えようという話になりかけたとき、正信が「加藤殿には20万石がよろしいでしょう」と言ったことがありました。
これが嘉明にバレ、当然詰め寄られました。うまく行けば大身になれたのに、正信のせいで半分以下になってしまったのですから当然ですよね。
しかし正信は「貴殿は優れた人物だが、豊臣家への恩が深すぎる。大国の主となれば要らぬ疑惑も持たれるでしょう」と嘉明を諭したのだそうです。

家康にも、あえて苦言を呈していたとか。
三河武士には忠実故に献言をするタイプは少なかったため、家康は正信を重んじたのではないでしょうか。「友」と称したのも、「忠告してくれる貴重な相手」という評価の現れだったのかもしれません。

 

領地加増は3万石まででファイナルアンサー!

まとめてみると、「理性に偏りがちなところもあるが、人の気持ちがわからないわけではない」感じがしますね。
他の徳川家臣にボロクソに言われても、直接正信と誰かが大ゲンカしたという話もありませんし。

正信もやっかみを買っていることは自覚しており、息子・正純に「3万石まではお受けしても良いが、それ以上を受ければ必ず災いのもとになる」と忠告していました。秀忠にも「我が家を存続させてくださると思し召しならば、息子の所領を増やすのはおやめください」と頼んでいます。
もっとも、これは後々正純が宇都宮で15万5000石を得た後、通称・宇都宮釣天井事件で失脚した後に出てきた話かもしれませんが。
おそらく、正信は
「有能だが、仕事の内容が黒いので本人も腹黒いと思われてしまった」
「しかも本人がそれを払拭しようとしなかった(思いつかなかった?)」
ために、「真っ黒な人物」というイメージが定着してしまったのではないでしょうか。

深謀遠慮ができる人物であることは間違いないでしょうし。もしかすると、先が見える分「自己弁護をしても仕方がない」と諦めていたのかもしれません。

石田三成のように、もうちょっと地元でのいいエピソードがあればまた評価が変わるでしょうけれども、どうですかね。
こういう人を綺麗に描きすぎると「ひいきしすぎwww」という感じになりますし、今のままだと創作の主人公にするのも難しそうですね。
「有能だけど不器用な参謀」くらいなら大丈夫でしょうか。

長月 七紀・記

徳川家康はもっと評価されていい! 75年の生涯に見る熱き心と老練な政治力



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参考:本多正信/Wikipedia

 

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