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参勤交代(園部藩・南丹市文化博物館蔵)/wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 江戸時代

参勤交代をスッキリ解説! 豊臣秀吉の時代に原型が始まり、江戸時代に制度化された

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いつの時代も、人間にはさまざまな義務が存在します。
自ら課したものもあれば、エライ人から「やれ!」と強制されるものもありますよね。
今回はその中でも有名なアレについて、裏事情やトリビアを交えてお話ししていきましょう。

寛永十二年(1635年)6月21日は、江戸幕府が武家諸法度を改訂した日です。

武家諸法度にはいろいろな条文がありますが、今回はその中でも特に大きな出来事である、参勤交代について。
基本的には、全国の各藩が江戸へ大名行列し、そして江戸で暮らすことと歴史の授業で習ったと思われますので、本日はその由来や例外なども併せて見て参りましょう。

 

例外的に足利尊氏の末裔や水戸藩などは免除されていた

参勤交代の原型は、豊臣秀吉が天下統一の後、京都や大坂に諸大名の妻子を住まわせたことです(鎌倉時代における御家人の鎌倉出仕という見方も)。
これを徳川家康が江戸で行い、三代・家光の代になって法律的に整備されることになりました。

当初は外様大名に課せられたもので、スグに全ての大名が対象となりますが、例外もいくつかあります。
まず、喜連川藩(現・栃木県さくら市)は半永久的に参勤交代を免除されています。藩主が足利尊氏の末裔のため、文字通り別格扱いされていたからです。他にもいろいろ特徴があるので、この藩の話はまたいずれ。

他に、水戸徳川家など一部の将軍親族は江戸定府=江戸に定住するものとされたため、参勤交代をしませんでした。
外様大名でも、藩主の代替わりや自藩内の災害・事故などの有事があれば、特別に免除されています。それなりに融通はきくんですね。

「大名は一年ごとに江戸と自藩を行き来することが義務付けられた」という点が有名ですが、遠方の藩にはそれなりに配慮されていました。
特に旅程の長い対馬藩・松前藩や、長崎警護をこなさなければならない福岡藩・佐賀藩などは、それぞれ数年ごとに数ヶ月のスパンとされています。

それなら薩摩藩や盛岡藩あたりも……という気がしますが、そうすると近隣の藩から「なんでウチは毎年参勤交代しなきゃいけないのに、隣はヒイキされるんだ!」とやっかみを買って、いらぬ怨恨の元になるのでやらなかったのでしょう。
対馬藩や松前藩は海を挟むので、誰もが納得しやすかったのでしょうし、長崎警護のほうはいわずもがな。

また、幕府側の都合によって、一時期だけ参勤交代が短縮化されたことがあります。

享保七年(1722年)~享保十五年(1730年)に、八代将軍・吉宗の方針で「石高一万石につき米100石を上納させ、江戸滞在期間を半年にする」ということになったのです。
これは幕府の財政難改善のためでしたが、たった8年で終わってしまいました。もしこれが続いていたら、幕府の財布はもうちょっとマシだったかもしれませんね。
どっちにしろ十一代将軍・徳川家斉が子沢山なままだと使い果たされそうですが。

 

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旅費や人件費もかかる そもそも宿の確保も大変だ

こうして始まった参勤交代ですが、大名の側には当然大きな負担がかかるものでした。
単純な旅費や人件費以外にも、気を使わなければならないことがたくさんあったのです。

例えば、道中の宿の確保について。
遠方の大名ほど長い旅程となり、多くの宿に泊まらねばなりません。しかし、大名同士が同じタイミングで同じ町に泊まろうとすれば、まともな宿が取れなくなってしまいます。

そのため、周辺の大名の日程をある程度把握し、道や宿でかち合わないように配慮しなければなりませんでした。
それでも、下級藩士は農家や民家に分散して泊まらなければならないこともあったそうですが。

また、幕府のほうでも諸藩の謀(はかりごと)防止と参勤交代での混雑緩和を兼ねて、近隣の大名が同じ年や同じ月に出発することがないよう、予め割り振っています。

それでもごくまれに、江戸へ向かう大名と帰国する大名が鉢合わせすることがあったというのですから、その混雑ぶりは現代の大型連休に匹敵したでしょう。
そういうときは双方の大名が駕籠から降り、互いに非礼を詫びてから行き交ったそうです。

 

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気を遣わなければならぬ 見栄も張らねばならぬ

東国大名よりも旅程が長くなりやすい西国大名は、当初海路を選ぶことが多かったといわれています。
しかし、どっちにしろ陸路でかち合うと意味がないと判断されたこと、そして船を手配する費用や数などの理由で、時代が進むごとに陸路の割合を増やしていきました。

当時、日本の南端である薩摩藩ですら、江戸時代後期にはひたすら陸路で江戸と行き来しています。大河ドラマでは篤姫は海路を使ったことになっていましたが、放送後に陸路だったことがわかりました。
さすがに国元と江戸との手紙の往来や、急を要する場合は船を使ったでしょうけれども。

さらに、どこの大名もよその領地を通らなければ江戸に行けないため、そちらへの配慮も必要でした。
通られる側は道の整備や船の手配をし、通る側はそれに対する返礼の品を送るなどしていたそうです。それによって雇用の創出や産業の活性化などが図られることにもなった……かもしれません。一歩間違うと賄賂の隠れ蓑にもなりかねませんけども。

さらに、「武士は食わねど高楊枝」的な見栄を張ることも重要でした。
近年話題に上ることも増えてきましたが、江戸時代の大名は時代劇によく出てくるような”絶対的な君主”ではありません。領民にナメられると、いざというとき協力を得られず、藩政に不都合が生じてしまいます。
ですから、少しでも「ウチのお殿様は立派な方だ」と思わせるアピールが必要でした。

そのために自領内では着飾ったり、わざと人数を増やして豪華な行列に見せる大名も多かったといいます。
町外れで必要最低限の人数に戻し、服装も旅装に改めて再出発したのだとか。
……自分の領内で人を雇ってたらバレバレなんじゃ……という気がしますが、その辺どうだったんですかね。

ちなみに、江戸に着いてからもまず下屋敷で立派な行列を作り直し、町人などを雇って人数を水増ししてから江戸城に向かったそうです。
それはそれで「あの殿様、地元から人数連れてくる金もないのかよwww」とか思われそうですけどね。江戸の町人たちも臨時収入になるから黙ってたんでしょうか。

※その辺りは映画『超高速!参勤交代』でも触れられておりましたね

 

江戸の暮らしは贅沢三昧ともいかぬ窮屈なもの?

江戸滞在中の大名は主に上屋敷で生活し、江戸で生活している正室や子息たちと束の間の交流を楽しんだり、国元からの書類を決済したりしていました。
ときには自藩の藩士が揉め事を起こしたり、他の藩との間にちょっとしたトラブルが起きることもありましたので、常にヒマで贅沢三昧ともいきません。

「大名屋敷」というと、一つのデカイ建物があったようなイメージを抱いている方が多いと思います。
しかし、実際には藩主やその家族が住む建物と、留守居役などのお偉いさんが住む建物、その他下級藩士が住む長屋などが同じ敷地内に独立して存在していました。

そういったまとまりが壁を挟んで反対側にも存在するので、角度や位置関係によっては「隣の大名屋敷の一部が覗けてしまう」ということもあったようです。
その他、大名屋敷周辺のトラブルなどはバカバカs……もとい、リアルでとても面白いので、ご興味のある向きは「江戸お留守居役の日記」などを読んでみてくださいね。

 

毛利秀元が鮭弁当をパクパク 周囲の大名が「チョットくれ」

最後に、参勤交代に伴う……かもしれない、大名同士のちょっと和む話をご紹介しましょう。
大名が江戸城へ途上中に昼食時になった場合、お弁当の手配を自藩ですることがありました。食べる場所は大名の家格ごとに定められた控え室です。

そこであるとき、毛利秀元が鮭の切り身(たぶん塩焼き)を食べていたところ、周辺の大名が「その魚は何ですか?」と興味津々。
秀元が「良かったら一口どうぞ」と勧めると、皆パクついてしまい、肝心の秀元があまり食べられなかった……という話です。

鮭は東国ではメジャーな魚でしたが、現代では鮭の南限が房総半島北部の栗山川らしいので、西国大名にとっては珍しかったのでしょうね。おそらくこのとき興味を示したのも、西国大名の中の誰かでしょう。
実は西日本でも鮭が自然産卵する場所が数か所あるようなのですが、当時は知られていなかったのかもしれません。
その場に「鮭様」こと最上義光が居合わせていたら、鮭の魅力に関するアツい演説が始まったかもしれません。

また、藩邸に住んでいた下級武士などは結構自由に町に出てグルメを楽しんでいたようです。
大名ともなるとうかつにお土産を買ってこさせたり、外食したりはできませんから、何とかして流行りの料理の情報を手に入れて、屋敷の料理人に作らせる……なんてこともあったかもしれませんね。

参勤交代で江戸と国元を行き来するたびに、江戸の文化が各地方へ伝わったといいますから、おそらく食文化もそうでしょう。
飢饉も多かった江戸時代。その合間を縫ってもたらされる美味しいものの情報や現物は、全国の人を励ました……と思いたいところです。

長月 七紀・記

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参考:武家諸法度/wikipedia 参勤交代/wikipedia

 




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