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ピョートル・バグラチオン/wikipediaより引用

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フランス その日、歴史が動いた ロシア

ロシア軍人・バグラチオン 「祖国防衛」の象徴となった英雄は天国から何を思う

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時代は移り変わるものですが、意外なほど変わらないものもあります。
喜怒哀楽をはじめとした、人の感情はその最たるものでしょう。価値観や生い立ちと同じくらい、人の性格を形作る要素の一つですよね。となると、遠く離れた時代の人同士でも、似通った考え方になることもあるわけです。
本日はその例として挙げることができそうな、とある戦争のお話。

1765年(日本では江戸時代・明和二年)7月10日は、ロシア帝国の軍人となるピョートル・イヴァーノヴィチ・バグラチオンが誕生した日です。

この時代のヨーロッパ成人男性の例にもれず、彼もまたナポレオン戦争に大きく関わっています。
簡単に来歴をご紹介してから、そのお話に入らせていただきますね。

 

80万のナポレオン軍に対するロシア軍は50万

バグラチオンは、グルジア(現在はジョージア)の王族の末裔です。現代でも舵取りが難しい位置にある国ですが、歴史的に見てもモンゴル系の国やロシアなどの間に揉まれていました。

そういった状況の中、バグラチオンは17歳のときロシア軍に入隊。
23歳でトルコとの戦争に参加してから地道に働いていたことが認められ、29歳のときにはポーランドへ赴任するなど、少しずつ昇進を重ねていきました。

ナポレオン戦争が始まった頃、バグラチオンは40代に入っていました。血筋と経験と年齢が揃い、上からも下からも頼もしく見えたことでしょう。

実際の戦闘でも、壊滅しつつあった友軍の退却を援護するなど、優れた指揮能力を発揮しています。
その後もフィンランドやトルコとの戦争で活躍しました。

そして、彼が参加した中で最も大きく、最後となったのがナポレオンによる1812年のロシア侵攻です。
「ロシア戦役」ともいいますね。

ナポレオンは80万近くの兵を率いていました。
これに対し、当時のロシア軍は50万前後(諸説あります)。
バグラチオンはこのうち「第二西方軍」と呼ばれる6万2000人を率いています。

ナポレオンwith愛馬マレンゴ/wikipediaより引用

 

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退却しつつ自国領へ引き込み、敵を消耗させる過酷な作戦

短期決戦を急ぐナポレオンに対し、ロシア軍は始めから消耗戦を狙っておりました。

古今東西、戦闘の長期化や戦線の拡大が進めば進むほど、遠征している側が不利になる――。
双方共にそれをよくわかっていたからこそ、それぞれの戦術を採ったわけです。

バグラチオンたちロシア軍は、各方面でフランス軍が接近するたびに退却を繰り返し、少しずつフランス軍を自国領へ引き込んでいきます。

その間に首都サンクトペテルブルクの防備をスウェーデンやオスマン帝国に押しつ……任せたことにより、最終的にロシア軍は90万以上の兵を用意することに成功します。
こうして戦力の温存に成功したロシアは、別働隊を駆使してフランス軍の補給を経ち、側面を突いたりして撹乱しました。

これにイラ立ったナポレオンは、後方及び側面の防御に兵を割かざるをえなくなります。侵攻しているのはフランス軍のほうなのに、防衛一方になりつつあったわけです。

そして、こんな状況では兵のストレスがマッハになるのは時間の問題。ただでさえ、フランス軍には無理やり組み入れられたドイツ人やオーストリア人、ポーランド人も含まれています。少しでも状況が悪くなれば、戦意の低い兵はすぐに逃亡したでしょう。
それだけでなく飢えや疲労も重なって、脱落する兵も大量に出て、フランス軍は戦う前から心身ともに追い詰められていきます。

 

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ボロジノで仏13万vs露12万の大会戦が勃発!

この戦争でロシア軍とフランス軍が初めて本格的に戦ったのは、モスクワから130kmほど西の町・ボロジノでのことでした。

ロシア軍12万、フランス軍13万のぶつかり合いという大会戦。
日本史で比較するとしたら、”関が原の戦いより一回り規模が大きい”くらいでしょうか。東軍10万・西軍8万といわれていますから(これも諸説あります)。

1812年9月7日の午前6時に戦闘が始まり、午前10時までには双方共に決定打がないまま、多大な死傷者を出して膠着状態に陥ります。
そしてその負傷者の中に、バグラチオンの姿もありました。

バグラチオンは重傷を負って後方に下がり、伯母の領地だった村で療養していましたが、その5日後に亡くなりました。

亡くなるまでの間も、彼は配下の部隊に命令を出し続けていたといいます。
フランス軍がボロジノからモスクワ方面に向かったはずと考え、「モスクワを守らなければ!」と思っていたのでしょう。

しかし、ロシア軍は既にモスクワを見捨てる決定した後でした。
食料や物資目当てにやってくるであろうフランス軍をおびき寄せ、町ごと焼いてしまおうという、冷酷な作戦が立てられていたのです。

それを聞かされると、バグラチオンは自らの負傷を忘れたかのように思わず立ち上がったといいます。その動きが傷を悪化させ、命を落とした……とされています。

同時期にフランス軍では、ナポレオンに「勇者の中の勇者」と評されるミシェル・ネイも首を撃たれて負傷していましたが、後に復帰しました。
運の強さも軍人に欠かせない資質である、というのがよく分かる対比ですね。

ちなみに、ボロジノの戦い当日のナポレオンは、熱病でろくに指揮を取れなかったとか。
もしもナポレオンが健康な状態で戦闘が始まっていたら、また違った流れになっていたのでしょうね。

 

第二次世界大戦では独軍相手に「バグラチオン作戦」が敢行される

バグラチオン自身は無念な戦死を遂げましたが、その名はロシアという国に「祖国防衛」の象徴として記憶されました。
第二次世界大戦の独ソ戦においても、1944年6月22日に開始された反撃作戦が「バグラチオン作戦」と命名されています。

おそらくソ連の髭は「バグラチオンのように、我々は最後まで決して諦めない」と強調したかったのでしょうね。ロシアの場合、本当に最後の最後まで、誰が・何人犠牲になっても諦め(させ)ないですし。

バグラチオン作戦では、ドイツ軍40万・ソ連軍18万弱の戦死・負傷・行方不明者が出ています。
この作戦開始における当初の兵数はドイツ軍85万、ソ連軍125万でした。ドイツ軍が文字通り半壊したのに対し、ソ連軍は1/7の損失ということになるわけです。
しかもこの犠牲者数は、ソ連のお偉いさんたちの予想の範疇でした。

「一人の死は悲劇だが、数百万の死は統計上の数字にすぎない」
そんな言葉がソ連の髭のものとされるのも納得できてしまいますね。実際は違う人の発言らしいですが。
これにはバグラチオンも苦笑いどころではありません。

なお、ロシア戦役全体におけるフランス軍の死者は38万、ロシア軍は21万とされています。
つまり「技術も理論も全く変わっていたはずの19世紀の戦争と20世紀半ばの戦争で、犠牲者の数がさほど変わらない」ことになるわけです。

こうなると、武器や戦術・戦略の変化よりも、指揮官の能力や性格が戦争の行く末や犠牲を決めている気がしてきますね。

長月 七紀・記

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参考:ピョートル・バグラチオン/wikipedia 1812年ロシア戦役/wikipedia

 




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