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フランス その日、歴史が動いた

スタール夫人はクセもスゴいが行動力もパネェ! ナポレオンを敵にして一切怯まず

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人間、どこで人生が変わるかわからないものですよね。
ちょっとした遅刻で命を拾ったり、思わぬアクシデントで運命の人と出会ったり……物語にもよく使われるシチュエーションです。
とはいえ、良いことばかりではありません。思い切った結果が、予期せぬマイナス方向の何かを生んでしまう……ということも起こりえます。
本日はそんな感じの、あの国の激動の時代に生きていた女性のお話です。

1817年(日本では江戸時代・文化十四年)7月14日は、アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール(通称・スタール夫人)という女性作家・批評家が亡くなった日です。

「長ったらしい名前のよくわからん人だな」と思われた方が大半でしょう。彼女の名前は、歴史の教科書には出てきませんからね。
しかし、それがもったいないくらい強烈なキャラクターです。中高生には少々教えにくい言動もしているので、そのせいかもしれません。
一体どんな人だったのでしょうか。

 

20歳で結婚するもスグに別居 文壇デビューを果たす

スタール夫人は、1766年にスイスの政治家・財政家であるジャック・ネッケルの娘として、パリで生まれました。
幼いうちから父に連れられて哲学者や文学者のサロンに出入りし、思考能力や知識を身に着けていったとされています。おそらくは、サロンで交わされていた男女論や結婚に関する価値観も、幼い彼女の耳に残ったことでしょう。

スタール夫人は20歳のとき、パリに駐在中のスウェーデン大使・スタール=ホルシュタイン男爵と結婚しています。しかし2年で別居していますので、元々あまりうまく行っていなかったのでしょう。
当時のフランス貴族の常識(「夫婦で出かけるのはみっともない」「愛人がいて一人前」)が影響したのかもしれません。

別居とほぼ同時、22歳のときにスタール夫人は「ルソーの性格および著作についての手紙」を発表し、文壇デビューを果たしました。あるいは、彼女の知識や知恵を夫が「女らしくない」と思ったのが不仲のきっかけだった……というのもありそうですね。

スタール夫人は夫を捨てたものの、その立場までは捨てませんでした。

フランス革命時は”外国大使の妻”という立場を活かし、処刑のターゲットになりそうな友人たちを救ったのです。この頃タレーラン(フランスの貴族・謀略がお得意で外交術は評価が高い)などと親しくなり、愛人関係になった人もいたとか。

時代と文化が違うとはいえ、貞操観念ェ……といいたいところではありますが、彼女は革命に関しては穏健派でした。
しかし、それが過激派から反感を買い、パリにいづらくなってしまいます。

クセがスゴいが能力は高いとしてナポレオンと並び称されるタレーラン/Wikipediaより引用

 

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政治活動に勤しむ一方「小説論」がゲーテに絶賛される

パリから離れたスタール夫人は、父の領地であるスイスのコペという町に亡命。その後も度々パリに出入りしていたようなので、彼女なりの正義感や政治的理念を貫こうとしたのでしょう。

スタール夫人は、革命によってフランスが「穏健で平和的な立憲君主主義」になることを目指していました。
いろいろな人と愛人関係になったのも、彼女からすれば「政治の世界に意見を言うために、”女性である”ということを最大限に活用した」というだけなのかもしれませんね。

もしも世代や立場が噛み合えば、ブルボン家に乗り込んでいって王や王妃を説得し、立憲君主制へのソフトランディングを主導した……かな?
ルイ16世はともかく、マリー・アントワネットに立憲君主制を受け入れさせるのはだいぶ大変そうですけどね。

スタール夫人は29歳のとき「小説論」でゲーテに絶賛され、文壇で再び注目されました。

名声が手に入れば、世の中に意見を言うのは造作も無いこと。革命が次第に過激化していくことを憂いて、マリー・アントワネットの助命を主張したりもしていました。

 

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「ナポレオンの入浴中に浴室へ押しかける」とはこれいかに!?

33歳で正式に離婚してからは、いよいよ活発に動いています。
この頃はタレーランの愛人となっており、彼が政界に入るための窓口を果たしました。

ナポレオンの台頭後、スタール夫人は彼に近づこうとしたのですが、その方法が「ナポレオンの入浴中に浴室へ押しかける」というものだったためドン引きされました。当たり前やがな。

一応ナポレオンの実家はカトリックですし、ナポレオン自身もカトリック的な観点を持っていたでしょう。
ジョゼフィーヌにも「浮気はやめて(´;ω;`)ブワッ」(超訳)と言っていたことがありますしね。

しかしスタール夫人にはそれが理解できなかったのか、次第に反ナポレオン派になっていきます。
現代の我々からすれば「アンタの思考回路こそ理解できんよ」とツッコミたくなりますね。
公私混同ダメ、絶対。

 

ナポレオンに追放され、反対運動で同志を募る

スタール夫人はその後の著作で、ナポレオンに対し当てつけに近い記述を繰り返しました。特に小説「デルフィーヌ」でカトリックの迷信性などを書いたため、ナポレオンの怒りを買ってパリを追放されています。

しかし、スタール夫人はその程度ではへこたれません。
ドイツやイタリア、オーストリアを旅し、反ナポレオンの同志を多く得ているのです。途中コペに一度戻り、サロンでの交流も熱心に行いました。

その後もパリでドイツを賞賛する内容の「ドイツ論」を出版しようとしましたが、当時のフランスにとってドイツは敵国なので、やっぱりナポレオンの怒りを買います。そんな得意客いらねえ。

再三に渡ってアレな言動をするスタール夫人に対し、ナポレオンは厳しい処置を課しました。本を発禁にしただけでなく、スタール夫人自身を危険人物として監視させたのです。
そりゃ、こんだけ権力者の神経を逆なでしてればそうなりますよねえ。しかも個人としては何の力も後ろ盾もないのですから。

しかし、1812年に20歳下の士官と再婚すると、ヨーロッパを周遊しながら翌年に「ドイツ論」を出版するなど、めげてないどころの話ではありませんでした。
そのエネルギーどこから出て来ているの……(´・ω・`)

 

スウェーデンのベルナドットを仏国王に!?

1814年にナポレオンが失脚したため、スタール夫人はパリに戻りました。
この頃はスウェーデン王太子ベルナドット(後のカール14世ヨハン)を売り込むために、ヨーロッパ諸国を味方につける必要があり、パリをその拠点にしたようです。

彼女の主張からすると、ベルナドットを新しいフランスの王にしようとした可能性もありますね。その場合、既にベルナドットはスウェーデン王太子なので、フランスがスウェーデンの属国か同君連合になるも同然なのですが……。
でもベルナドットは元々フランス人ですから、この場合さほど問題にならないんですかね? ややこしいわ!

スタール夫人はベルナドットを非常に高く評価しており、「彼こそは真面目な人々のためのナポレオンである」と発言したことがあるほどです。
この期に及んでナポレオンが基準になっているあたり、フラれたときの恨みがにじみ出ている気もしますね。

結局、彼女の活動は実を結ばず、ブルボン家による王政復古が成立します。

 

最後はアヘンの常習者になり、脳出血で倒れる

亡くなる前年まで積極的に著作・出版活動をしておりましたが、ブルボン家復帰などに落胆し、一気に生力を失ってしまったようで、阿片の常用者になっていたとか。
まぁ、革命中から穏健な方針を掲げ、王妃の助命を主張していた彼女からすれば、「今更復帰させるならば、ルイ16世夫妻を殺さなくても良かったではないの!」と言いたくもなったでしょうね。

そこでかつてのように著作での反論をせず、阿片に走ったということは、その前から心身のどちらか、あるいは両方に何か支障があったのかもしれません。

一度、脳出血で倒れても、半身不随と引き換えに命をとりとめているので、元々の生命力が強かったのでしょう。
まぁ、彼女の言動をみれば納得できるような気もします。

彼女に現代の我々からアドバイスをするとすれば、「やりたいことがあるのは結構だが、方法を選べ」というところですかね。
もしも彼女がナポレオンの浴室に突撃していなければ、その頭脳がナポレオン政権とフランスに良い方向で影響を与えていたかもしれません。

長月 七紀・記

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参考:アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール/wikipedia

 




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