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忠臣蔵/Wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 江戸時代

浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった理由 ズバリ金銭問題が有力でしょう!

更新日:

有名な事件や出来事には、ある程度固定化されたイメージがありますよね。本能寺の変であれは「是非もなし」とか。
しかし、その場にいた人の細かなところまで見ていくと、意外なことが浮き上がってくることもあります。調べるたびに違う考えが浮かんでくるのも、また歴史の楽しみ方です。
今回はその一つになるであろう、あの事件の中心人物についてみていきましょう。

寛文七年(1667年)8月11日は、後に元禄赤穂事件のきっかけとなる、赤穂藩三代藩主・浅野長矩(ながのり)が誕生した日です。

 

そもそも9歳にして藩主というハードコース

忠臣蔵系の創作では序盤で退場してしまうため、長矩個人に対しての印象が薄い方も多いのではないでしょうか。

実はこの人、意外にも(?)前半生はかなり苦労をしています。
4歳のときに父、6歳のときに母を亡くし、9歳で家督を継いで藩主になるというかなりのハードコースを歩んでいるのです。

結婚相手も早々に決めていますし、15歳のときには朝鮮通信使の饗応役の一員に選ばれ、他の饗応役と共に、他国の使節接待を無事にこなしてみせました。

そして16歳のときには、一回目の勅使饗応役を命じられています。

このとき指南役につけられたのは、あの吉良上野介義央(よしひさ)でした。もちろん刃傷沙汰の起きる前であり、無事に饗応を終えています。
ちなみに、義央は長矩の26歳上でしたので、文字通り親子のような歳の差がありました。

また、同時期に赤穂浪士の筆頭・大石内蔵助良雄の大叔父である大石良重が江戸で亡くなっています。

良重は長矩のおばを妻にしており、若くして筆頭家老になった良雄の後見人、幼い主君・長矩の補佐、そして藩政という、二足どころか三足のわらじを履いていた超有能な人でした。
大黒柱どころじゃありませんね。

 

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江戸にいた頃には大名火消を命じられたことも

長矩は十代半ば、良雄も二十代半ばという状況だったため、良重の次に経験豊富だった大野知房という人物が良重の仕事を引き継いだと思われます。この人も主に経済政策に能力を発揮していましたが、さすがに良重ほどの仕事は不可能だったでしょう。

長矩は饗応役を無事終えた後の夏、初めて赤穂藩にお国入りしました。

このとき良雄をはじめとした国元の家臣と対面し、ここから参勤交代で一年ごとに江戸と赤穂を往復するようになります。

江戸にいた年には、大名火消に任じられたこともありました。
また、元禄六年(1693年)には備中松山藩の水谷家が改易になったため、居城である松山城の預かりを命じられています。次の城主が決まるまでの間、良雄が城代を務めていたのです。

長矩も家臣たちも、これらの役目を無事にこなしていたようです。
他の大名からは「まだ主も家臣も若いのに、なかなかよく働くじゃないか」と思われていそうですね。

浅野長矩/Wikipediaより引用

 

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二度目の勅使饗応役を言い渡されて……

後々のこともきちんと考えています。

長矩は元禄七年(1694年)に、弟・長広を仮養子としているのです。結婚して10年近く経っても子供が生まれなかったからですが、ちょうどその翌年に長矩が疱瘡にかかってしまいました。

一時は危篤になるほど危うい状態だったそうですが、このときも速やかに長広を正式な養嗣子とし、無嗣断絶を防いでいます。その後、長矩が回復したため、すぐに長広へ家督を継がせることはありませんでした。
しかし、長矩の危篤については、国元にも速やかに伝えられていました。主従ともに、いざという時の心得もあったと見ていいでしょう。

家臣の助けがあったにせよ、お馬鹿な殿様のせいで台無しになった藩も珍しくないのですから、長矩は決して無能ではなかったはずです。
だからこそ、「松の廊下の刃傷」と元禄赤穂事件の異様さが際立つことになります。

元禄赤穂事件のきっかけとなった二度目の勅使饗応役は、元禄十四年(1701年)2月4日に任じられたものでした。一度めの饗応から18年後のことです。

このときの指南役も、吉良義央でした。気の置けない仲とまではいかないにしても、ある程度頭の中に手順や段取りは入っていたと思われます。
義央から見れば、「あの小僧が立派な大人になったものよ」というように見えたかもしれません。

前回と違う点としては、長矩が饗応役に任じられた頃、義央は別の仕事で上洛していて、三週間ほど打ち合わせができなかった時期があるというところでした。
この間に勅使・院使はすでに京都を出発していたため、猶予はほとんどない状態。これが長矩に大きなストレスをかけたのではないか、とする説もあるようです。

 

最も重要な儀式の日に「松の廊下」事件は起きた

義央が江戸に戻ってきたのは2月29日のことでした。

勅使が到着したのは3月11日でしたので、一応長矩と義央が話し合う時間はあったでしょうが、この手の儀式の準備をするにはギリギリといっても過言ではないかと。

3月13日までは無事に饗応や儀式が進んだものの、14日に例の「松の廊下」事件が起きます。

この日は、勅使・院使に渡された天皇と上皇の手紙に将軍が返事をするという、最も重要な儀式の日でした。
もちろん、長矩もそれは重々承知していたはずです。

だというのに、長矩は儀式の直前に義央へ斬りかかってしまいました。

忠臣蔵/Wikipediaより引用

現場の「松の廊下」は正式名称「本丸大廊下」。この廊下沿いに松林と千鳥の絵が描かれた襖があったため、このように呼ばれていたところです。
位置的には、江戸城の公的行事場である「大広間」と、将軍が諸大名との面会に使う「白書院」を繋ぐ廊下でした。

当然、この日は大広間にも白書院にも、饗応役や指南役、その下働きをする人々などがいたはずです。ただの口ゲンカだったとしても、すぐに他の人が割って入ったことでしょう。

また、長矩が犯行に使ったのは脇差というやや小振りの刀でした。武士のことを「大小二本差し」と呼ぶことがありますが、このうち「小」が脇差です。「脇指」と書くこともありますね。
脇差はどちらかというと斬るより突くことに向いた武器ですが、このときの長矩は義央の額と背中に”斬りかかった”ため、致命傷を負わせることができませんでした。

義央と話していた人が即座に長矩を取り押さえたためにそれ以上の攻撃もできず、周辺の部屋からも院使饗応役・伊達宗春などが駆けつけてきました。
義央と長矩はそれぞれ別の部屋に引き離され、事の次第が綱吉へ報告されます。

 

なぜ長矩は田村家に預けられたのか……

元々綱吉は儒学を重んじており、それ故に皇室への尊崇も歴代将軍の中で随一でした。
その綱吉が勅使と院使、ひいては天皇・上皇への返事をする大切な機会を台無しにされたのですから、これは激怒どころの話ではありません。

長矩の取り調べが行われたかどうかもはっきりした記録がないのですが、綱吉が即日切腹を命じたことは確かです。

その頃、長矩は奏者番を務めていた陸奥一関藩主・田村建顕の屋敷に預けられていました。

ここも、個人的には少し気になります。
この頃の田村家は、仙台藩二代藩主・忠宗が母・愛姫の実家を再興させるために、自分の息子を入れた家でした。つまり、長矩と同時に院使饗応役をしていた伊達宗春(こちらは政宗の庶長子で宇和島藩初代・秀宗の孫。伊予吉田藩主)とは同族にあたるわけです。

普通、大名家で何か問題が起きた場合は身内が引き取ることが多いものです。お家騒動などが起きた場合は、だいたい親戚筋や正室の実家などが事の処理にあたります。
勅使饗応役がこのようなことになった上で、院使饗応役の親戚までこのようなことに駆り出されては、饗応に過不足が生じそうな気がしますが……それこそ勅使や院使へ迷惑がかかりそうですよね。

一応、田村家はこのとき「奏者番」という幕府と藩の間を取り持つ役目をしていたのだけれども、それは自藩と幕府のためであって、外様大名同士の場合はあまり関係ないような気がしますし……。

 

最大のナゾ・長矩は吉良を襲った理由は……?

何はともあれ、建顕は急いで長矩を預かる支度を整えました。迎えの藩士を派遣し、部屋を用意し、預かり期間が長くなることを見越したさまざまな準備をしています。

が、その間に即日切腹が決まってしまい、夕方には切腹を見届ける検視役まで来てしまいます。田村家では困惑したそうですが、当の本人である長矩は冷静だったようです。
長矩が13歳のとき、母方の叔父・内藤忠勝が、似たような刃傷沙汰を起こして切腹になったことがあったからかもしれません。

そして粛々と腹を切り、34年の生涯を閉じました。
遺体は浅野家の家臣たちが直ちに受け取り、泉岳寺(現・東京都港区)に埋葬されています。

さて、皆気になる刃傷の理由ですが、上記の通り長矩の取り調べが行われたどうかもはっきりしていません。

以前は「義央が長矩をイジメまくったので、長矩が思い詰めてブチキレた」という説が主流でした。“イジメ”の内容は必要なことを教えなかったとか、逆に嘘を教えたなどですね。
しかし、長矩は以前にも勅使饗応役を任ぜられており、しきたりや作法について全く無知だったとは考えられません。
また、饗応役がヘマをすれば義央の落ち度にもなりますから、そんなことをわざわざする必要がありません。

現在の主流は、「金銭問題があったのではないか」というものです。

 

水間沾徳の記録に残る金銭問題の跡

金銭問題とは如何なる理由からか?

それは水間沾徳(みずま・せんとく)という赤穂藩士複数名の俳句の師匠だった人が
「例年1200両かかる勅使饗応役の費用を、長矩が700両しか出さなかったため、長矩と義央が不仲になった」
というようなことを書いていることによります。

以下の二点により、この説は信憑性が高いとされています。
・一回目の饗応役を務めた時と比べて、二回目のときは大幅に物価が上がっていたが、長矩がそこを理解していなかった
・同時代の人間、かつ赤穂藩士に近い人物の記録である

私見ですが、当時の武士は「金は汚いもの」とする風潮があったことも影響したのではないでしょうか。
そのため「刃傷の理由が(汚らわしいものである)金のせいだなんて、世間に知れたらこの上ない恥辱である」と思い、長矩も赤穂藩も語りたがらなかったのでは……という気がします。

もうひとつ考えられるとしたら、長矩が現代でいうところの「繊細チンピラ」だった可能性も否めません。
現代でも、言葉の意味が上手く伝わらなかったりして相手を激怒させてしまうことってありますよね。現代よりもずっと「面子」や「恥」に敏感な身分・時代にそういうことがあったり、重なったりすれば、「この間の遺恨覚えたるか!」という気分になってしまったのも無理はないのかもしれません。

前半生のエリートぶりを思えば、長矩がこのような事件を起こし、最期を迎えたことは残念で仕方がないとしか。まして、当時実際に仕えていた赤穂藩の面々はなおさらでしょう。
一体何が歯車を狂わせてしまったのか、ぜひいつかは解き明かされてほしいものです。

長月 七紀・記

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参考:浅野長矩/Wikipedia

 




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