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西郷どん特集 幕末・維新 歴史ウォーカー

150年前の1月に起きた鳥羽・伏見の戦い チャンスボールを見逃し続けた幕府軍敗走の跡を辿る

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はじめまして。今回初執筆の みはぎの まりお と申します。専門は、国際関係(日中関係)と法律ですが、これらに絡んだ研究をしているうちに、近代史にのめり込んでしまいました。1月30日が新暦で鳥羽伏見の戦いが終わった日になります。それに合わせて鳥羽伏見の戦跡の今を歩いてきました。 

総勢2万の大軍が激突したように思われているが

 今からちょうど146年前の1868年1月27日「鳥羽・伏見の戦い」のことは、誰もが一度は耳にしたことがあろうかと思います。

 戊辰戦争(1868年-1869年)の端緒となったこの戦闘は、本来、大政奉還によって政権の座を降りて一大名となった徳川家と、京都に居座ってなお徳川の勢力を覆滅しようとする薩摩藩島津家の私闘であったはずなのですが、歴史学の見地からは、旧幕府に忠誠を誓う諸侯(以下、「旧幕府軍」といいます。)と、徳川征討の錦の御旗に参集した勤王諸藩(以下、「新政府軍」といいます。)とが戦い、一敗地にまみれた幕府勢力の運命が決定づけられたという点において、徳川政権崩壊の端緒となったとの理解もできる出来事でした。

 この戦闘に参加した旧幕府軍は約1万5千、これに対して、新政府軍は約5千。

 兵力は圧倒的に旧幕府軍が優勢であったにもかかわらず、新政府軍は、西洋式の練兵で鍛え上げた将兵を最新鋭の兵器で武装させ、旧態依然とした刀槍で武装した旧幕府軍の歩兵突撃に対して、銃火で応じてこれを粉砕する…映画やドラマで描かれる鳥羽・伏見の戦いをご覧になった方は、この戦闘にそのようなイメージをお持ちなのではないでしょうか。

 しかし、この戦闘をまじめに戦ったのは、旧幕府軍側の会津、桑名の両藩兵と新選組を中心とする一部の将兵、新政府軍側の薩摩、長州の両藩兵を中心とする一部の将兵に限られ、その他の諸藩兵は傍観に徹するか、新政府軍に寝返るなどして、戦闘ははわずか4日間(慶応4年1月3日-1月6日(1868年1月27日-1月30日)、以下、旧暦の日付を用いることにします。)で終結しました。

 戦端が開かれた当初、大坂を進発した旧幕府軍は鳥羽街道と竹田街道に分かれて二条城に向けて進軍しつつあり、野戦といっても、淀・千両松付近の激闘を除くと、ほとんどが散発的な局地戦に終始しました。開戦初頭に、早くも戦いの趨勢を決定づけた伏見奉行所周辺の攻防戦も典型的な市街戦で、新政府軍が火力において旧幕府軍を圧倒していたわけではなかったのです。

 旧幕府軍の戦死者は、伏見奉行所に設けられた野戦病院で薩摩藩兵に斬殺された傷病兵数十名を含む約290名、これに対する新政府軍の戦死者は約100名に上ったとされています。つまり、戦死者の割合は、投入した兵力差に比例したものでした。

 この戦闘には、旧幕府軍にとって数多の勝機があり、これを、逸し続けた旧幕府軍が、継戦意思を放棄したことによって、新政府軍の勝利に終わったものであり、それは、明治以後の脚色によって作られたイメージとは相当異なるものであったようです(参考、野口武彦著『鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間』(中公新書)』2010)。

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最新鋭の銃で武装した幕府の伝習隊はなぜ積極的に応戦しなかった?

 慶応4年1月3日、鳥羽街道を進軍していた幕府軍(指揮官:幕府大目付・滝川具挙)は、薩摩藩兵の一団(指揮官:薩摩藩士・伊集院与一)と、鴨川にかかる小枝橋で遭遇。午後5時ごろ、薩摩藩砲兵の放った一弾が開戦の合図となりました。不意を突かれた旧幕府軍は、伏見に敗走。旧幕府軍には、元込め式の最新鋭シャスポー銃で武装した幕府伝習隊も加わっていたとされていますが、この時の伝習隊はなぜか積極的に応戦せず、結果的に、旧幕府軍は開戦劈頭に多数の死傷者を出すことになります。

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 滝川具挙と、伊集院与一とが押し問答を繰り返した鳥羽街道・小枝橋

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IF 会津藩がそのまま北上していれば

一方、会津藩大砲奉行・白井五郎太夫指揮下の会津藩兵131名は、新政府軍が守備兵を置いていない竹田街道を北上したが、彼我の戦況が不明なまま、京都・竹田口で反転する。このまま北上を続けていれば、戦闘の帰趨はどうなっていたかわからなかったという。

小枝橋近くにある鳥羽・伏見の戦いの発端を記した記念碑

 一進一退の伏見市街戦

 退却した旧幕府軍は、伏見奉行所を拠点に一進一退の攻防戦を繰り広げました。

 伏見の市街戦では、旧幕府軍も新政府軍ともに、戦法に糸目をつけず、砲戦、白兵戦、ゲリラ戦を繰り広げ、双方に多くの死傷者を出しました。幕府伝習隊もこの市街戦に投入され、新政府軍にとって大きな脅威となったとも言われています。

 1月3日中に旧幕府軍の拠点であった伏見奉行所が陥落。翌4日にかけて旧幕府軍は伏見市内で散発的な反撃を試み、鳥羽街道富ノ森陣地の奪還にも成功しますが、占領地を確保する兵力と火力の補充を欠いた旧幕府軍は、結局、伏見から淀方面への撤退を余儀なくされたのでした。

 この時、もっとも勇敢に戦ったとされるのが、土方歳三指揮下の新撰組と会津藩大砲奉行 林権助指揮下の会津藩砲兵隊だったと言われています。

 林権助はここで重傷を負い、大坂城に後送されますが、後にこの負傷がもとで死亡します。現在、京都の黒谷にある金戒光明寺の会津墓地入口を見据える石板には、会津藩士の戦没者の筆頭に彼の名が刻まれています。

 IF 淀藩が寝返らなければ

 伏見を脱出した旧幕府軍将兵は、宇治川に沿って、淀に向かいます。

 淀は、徳川譜代の稲葉家10万2千石の城下町で、大阪湾からは約40kmの宇治川に面した城下町です。京都と大坂を結ぶ水運をおさえ、京都に対するにらみを利かせるとともに、大坂の東の防衛拠点としての役割も担っていました。伏見を失った旧幕府軍が、次の防衛拠点として淀を目指したのは、至って合理的な判断だったのですが、藩主・稲葉正邦が不在であることを理由として、淀城は旧幕府軍将兵の入城を拒絶します。淀藩が新政府軍に寝返ったのは、1月5日の淀・千両松での旧幕府軍の敗退が原因だったのかも知れません。

 千両松は、宇治川の河川敷の葦の生い茂る湿地帯で、淀城下に通じる街道は1本だけ。旧幕府軍は、この葦の茂みに潜んで、淀に進軍する新政府軍を伏撃したのです。至近距離での襲撃に新政府軍は多数の死傷者を出します。

 先頭を進んでいた長州藩兵は会津藩兵の攻撃を支えきれず退却、代わって進出した鳥取藩兵も、湿地に足を取られて身動きができないまま、銃砲を奪取されて敗走します。しかし、新政府軍は後続の将兵を入れ替わり立ち代わり反撃に投入し、会津、桑名両藩兵と新選組の主力はここでの戦闘でほぼ全滅したのでした。

 ここに、鳥羽・伏見の戦いにおける組織的抵抗は終わりを告げ、翌1月6日、徳川慶喜が、幕府海軍軍艦「開陽丸」で大坂を脱出、こうして、鳥羽・伏見の戦いは、新政府軍の勝利の裡に幕を閉じたのです。

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千両松古戦場付近  今では、千両松の地名は、京阪電車の踏切にのみ辛うじて残されているだけです。

開戦から3日間、ほとんど飲まず食わずで敗走を重ねた旧幕府軍の将兵にとって、吹き付ける冬の風はいや冷たく感じられたに違いなく、ましてや、背後に控える淀城が自分たちを裏切るなど、夢にも思わなかったでしょう 

つはものどもが夢のあと…(番外編)

 この行程を一日がかりで歩くと、さすがにくたびれました…が、ここ、淀は、日本有数の規模を誇る京都競馬場のお膝元。夕闇が濃くなって、場末た感じの居酒屋の店頭に明かりがともり始めました。

 今回訪れたのは、淀駅に近い丸福食堂。

 淀駅前の商店街とは反対側、競馬場のある方で見つけました。今日は、競馬が開催されていたようで、店内は悲喜こもごもの怒声が飛び交っておりました。

 焼鳥も安くてうまいが、寒いのに、ビールがとてものどに心地よく感じられた夜でした。 

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焼鳥のまるふく(丸福食堂)

京都市伏見区淀池上町43-2

075-631-2238

 
ビール(大瓶)600円

焼鳥 1本 100円~150円

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他にもおでんが有名らしい

 




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