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山田風太郎に息子を散々に描写された松山城築城の加藤嘉明を地元愛で歴女が語る

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松山城を築城したお殿様、加藤嘉明公。
松山城ロープーウェイ乗り場の横に隣接された銅像は威厳たっぷりなんですが、なんとも数奇な人生を歩んだ武将でもあるんですよね。

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加藤嘉明は1563年(永禄6年)三河国永良郷(愛知県西尾市)の生まれ。
父教昭氏は徳川(松平)家に仕えていたものの三河の一向一揆に加勢し敗北したがために三河を追われることになりました。
さらにその直後父を亡くした嘉明はなんと流浪の身となり、近江で馬世話をしていたと言われています。
しかし、近江の長浜城主となった秀吉の家臣に見出され秀吉に仕えることとなった武将です。
馬世話から武将なんて、それこそ秀吉みたいな人生ですよね。

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今ではゆるキャラ扱いされていますがご本人はどう思われているのかぜひ聞いてみたいものです。

ポンジュース蛇口と並びたつ加藤嘉明公

ポンジュース蛇口と並びたつ加藤嘉明公

しかし加藤嘉明は、松山だけの殿様ではありません。
会津の蒲生氏が寛永4年、1627年に減転封となり、伊予松山藩へ移されたことで加藤嘉明は加増移封されて会津40万石を収めることになっています。
しかしその4年後、寛永8年1631年には江戸で死去という悲しい運命をたどっています。

よしあきくんの嫌いなものはスズメバチだそうだ

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4年というあまりにも短すぎる藩主の座は、長男明成に継がれることになったものの、会津騒動とまで呼ばれるお家騒動に発展し、殿様としては評価が非常に低く、家士との口論も絶えず民衆への扱いも非道だったと言われています。山田風太郎の小説の「柳生忍法帖」で長男が極悪キャラとなっていますね。

寛永十九年春。女人救済で名高い、鎌倉東慶寺の山門をおびただしい女性の血で染めた「会津七本槍」の七剣鬼。暗愚な藩主加藤明成を使嗾し、硬骨の家老堀田主水一族を皆殺しにした暴虐に今天誅が下される!大いなる恨みに燃える堀家の女七人を助けるべく、徳川千姫の命により、柳生十兵衛が、いま見参。(柳生忍法帖の内容紹介より)

このように周囲に味方もおらず、傍若無人な態度から明成は幕府から咎められ、お家断絶の危機に陥ったものの、幕府は嘉明の功績を認めていたため成明の子に家名を継がせることでお家断絶は免れたと言われています。

一時は馬世話人として身分を落としながらもその才覚から取り立てられ、伊予藩主、会津藩主と発展した父嘉明に対し、子供としてはその埋まらない差に、コンプレックスを抱いていたのかもしれませんね。

とにもかくにも加藤嘉明は武勲を挙げただけではなく松山城という素晴らしい城を築城してくれた松山の恩人でもあります。
松山城がなかったら今頃観光客は…と考えるだけでガクブルものです。
田舎に拍車がかかりここまで松山市が発展することはなかったかも知れませんよね。
歴史上の偉人の功績は今にも伝わる偉業ともいえるのでしょう。

今回はちょっとシリアス?路線でまとめてみましたが、次回は松山城二の丸へ攻め入りたいと思います。
ここではハプニングトラベラーとしての力を発揮したいと思いますのでこうご期待?

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細田雪華・記




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