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フランス 女性

中世フランスの美魔女ディアーヌ・ド・ポワチエ 19歳も若い王を魅了した生き方とは?

更新日:

2017年5月、フランスで第25代大統領選が行われ、エマニュエル・マクロン氏が就任いたしました。
39歳という最年少での当選もさることながら、話題となったのがブリジット夫人です。年齢差は24歳。しかも、マクロンが恋に落ちたのは15歳の時というのだから、どうしたって注目してしまいます。

歴史を探究すると、このような年の差カップルは多いとは言えないものの、存在します。
若い王を魅了した美魔女ディアーヌ・ド・ポワチエ――。

マクロン夫妻と同じフランス、15世紀に花開いたロマンスは、歴史に残るものでした。

 

月の女神ディアーヌ 伯爵家に生まれる

1499年、ヴァレンティノ伯爵家に女児が誕生しました。
生まれたばかりの赤ちゃんが眠る部屋には、美しい月光が差し込み、この女児はローマ神話における月の女神・ディアーナにちなんでディアーヌと命名されました。

ディアーヌは6歳でブルボン公爵夫人に預けられ、礼儀作法を学びます。
幼いながらも聡明さを発揮した彼女は、成長するごとに美貌に磨きがかかり、16歳の時、その美少女ぶりをみそめたルイ・ド・プレゼと結婚。しかし、40歳も年上となる夫との結婚は、彼女にとっては苦痛でしかありませんでした。

1518年、19歳のディアーヌは二人目の女児を出産。その翌年、フランソワ一世の王妃であるクロード・ド・フランスの侍女として、王妃の出産に付き添います。
王妃は第二王子にあたるアンリを産みました。
この赤子が彼女の運命を変えるとは、まさかこの時は思いもしなかったことでしょう。

それから間もなくフランソワ一世は、イタリア戦争の「パヴィアの戦い(1525年)」で大敗を喫し、捕虜としてマドリードに幽閉されてしまいます。
翌年、講和条件として「マドリード条約」が締結されると、同条約にはフランソワ一世の二人の王子を人質としてスペインに差しだすことが定められておりました。

このころディアーヌは王子の世話係を担当していました。彼女は、王子たちが引き渡されるスペインのアンダイエ付近まで付き添い、優しく世話をします。

そして人質交換の時、アンリ王子はディアーヌに抱きつきました。
「いやだ、ディアーヌと離れたくないよ! スペインにはいつまでいればいいの? フランスに残りたいよ!」

ディアーヌは王子をなだめつつ、「すぐお戻りになれますよ」と言いきかせ、優しくキスをしたのでした。

 

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美しすぎる喪服姿はたちまち評判となり大流行

その後三年間、1529年に解放されるまで、二人の王子は異国の地の牢獄で暮らします。
環境は劣悪、母国語を忘れかけるような過酷な日々でした。

1531年、ディアーヌの夫・アンリが71歳で死去。ディアーヌにとって不幸な結婚がようやく終わりを迎え、彼女は32歳になりました。

寡婦として喪服に身を包んだ彼女を見て人々は息を呑みます。
優美なレース、銀糸のリボン、銀色のベルト、肘に入ったスリットからのぞくブラウスの袖。黒と白の喪服とはいえ、そのいでたちは豪華で華麗なものでした。

金髪を飾る頭飾りの先は地面につくほど長く垂れ下がっています。
黒と白、そして銀色で彩られた喪服は、夜空に浮かぶ月の色。まさに月の女神と呼ばれる美女にふさわしい装いでした。

ディアーヌ流の喪服はたちまち評判となり、大流行したのでした。

美しき寡婦として、亡父の領地経営に手腕を発揮するディアーヌ。そんな彼女のもとに、フランソワ一世から相談が持ち込まれます。

「アンリ王子のことだが……あれはまったく女に興味を見せようとしない。あいつの精神は死んでいるのだ」
「死んではおりませぬ、お眠りになられているだけかと」
こう答えたディアーヌに対し、王は命じます。
「ならばその眠った精神に、そなたが血を通わせてみるがいい」

幼いアンリを優しく気遣った美女ならば、その欲望に火をつけられるかもしれない。
王はこう考えたのでした。

 

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メディチ家出身のカトリーヌは一途すぎた!?

当時、アンリ王子には既に妻がいました。
1533年、14歳でイタリアの名家・メディチ家から迎えたカトリーヌという、同い年の花嫁を巨額の持参金とともに迎えていたのです。

カトリーヌは美人ではなかったものの、知的で所作が美しい少女でした。また彼女は文化の担い手でもありました。
アイスクリーム、化粧品、食事のマナー、料理まで、フランスにはカトリーヌが伝えたとされるものが数多く伝わっています。

そして彼女はアンリに対して熱烈な愛情を抱きますが、一方の王子は持て余し気味。二人の間には子ができず、カトリーヌはあやしげな占い師や精力剤にはまるようになります。
一途過ぎた彼女の性格は、かえってアンリをうんざりさせてしまったのです。
夫婦の営みはカトリーヌの熱意と反比例するように減っていきました。

カトリーヌ・ド・メディシス/wikipediaより引用

二人の結婚から二年後、皇太子フランソワが急死すると、アンリが王位継承者となりました。
父王フランソワは彼を大事にするどころか、ますます厳しく教育するようになり、ただでさえ繊細なアンリは自分の殻にこもるようになってしまいます。

ディアーヌに相談が持ち込まれた背景には、このような事情があったのです。

このとき彼女は既に四十歳手前。
当時としては老婆と呼ばれてもおかしくはない年頃です。
夫の死後、うわついた宮中の中で、貞操を守ってきた彼女。そんなディアーヌが王の命に従い、アンリ王子の寵愛を受けたのでした。

 

絶対、覗くなよ! ちゃんと言ったからな、覗くなよ!

フランソワ一世の寵姫であるエタンプ公爵夫人は、底意地悪いことを彼女に言ってのけます。
「身の程知らずの皺くちゃババア、って世間で言われているのをアンタ、知らないわけ?」

しかしディアーヌは自信があったと思います。彼女は厳しい節制によって美貌を保っていたのです。

まず朝の三時には起床し、泉の水で頭から足の先まで沐浴。それからフルーツジュースを取ると、乗馬で早駆けをします。
午前八時までにはベッドに戻り、リラックスしながら読書。昼に起きると質素な食事を取り、それから領地経営と客人接待に励みます。運動、適度なカロリーと栄養、休息が揃った、まさに美貌を保つための一日なのでした。

王の読みとディアーヌの賭けは当たりました。
ディアーヌを寵愛してからは、アンリは人が変わったように生き生きとした青年へと変貌を遂げたのです。
彼女の言葉通り、眠っていただけの彼の精神は目を覚ましたのです。

一方、このことにショックを受けたのはカトリーヌです。
19歳も年上の愛人に完敗するなんて。しかもサン・ジェルマン・アン・レイ城では、ディアーヌの寝室は、アンリとカトリーヌ夫妻の真下にありました。

ディアーヌは寝室でアンリを奮い立たせると、「さあ、下の奥様のところへ行きなさい」と一階上の夫婦寝室に送り込むのです。この特訓のおかげか、カトリーヌは子宝に次から次へと恵まれました。フィレンツェの占い師や薬よりも、ディアーヌ効果の方があるのでした。

カトリーヌは一体下の階では何が起こっているのか気になり、スペイン人大工に命じるとこっそりと覗き穴を作りました。
そして夫と愛人の様子を覗き見たのです。

二人の秘め事を初めて覗いたカトリーヌは、ショックのあまり泣き叫びます。女官が「だから止めたんですよ」となだめると、彼女はこう言いました。
「こんなに辛いなら見なければよかった、なんでなのーッ!」

いや……そりゃあ……そうでしょうね、としか言いようがないですね。
このあとも、下で何かがあったあと、興奮した様子のアンリがやってきてカトリーヌを抱く、という屈辱の日々が続くのでした。

 

頭文字D&Hは二人の愛のメッセージ

父が亡くなり、王位についたアンリ。
彼は戴冠式用の衣装に、三日月を三つ絡ませたディアーヌのシンボルと、二人のイニシャルであるDとHの組み合わせ文字を織り込みました。
しかもこれだけには留まらず、愛のシンボルを宮中の使用人や護衛の制服、便せん、戦旗にも採用します。

いくら何でもやり過ぎと言いますか。結婚式の引き出物でもらうカップル写真入り食器以上に、破壊力があるんではないでしょうか。

しかもアンリは、即位を各国に知らせる公文書や祝辞の返信も、ディアーヌに書かせました。二人の署名入りにすることもありました。ディアーヌは実質的に王の最高顧問となったのです。
人々はディアーヌを「無冠の王妃」と呼びました。

さらにはその美しさで有名なシュノンソー城をディアーヌにプレゼント。ヴァレンティノワ公爵夫人の地位も送ります。シュノンソー城はカトリーヌが欲しくてたまらなかった城です。

シュノンソー城

ディアーヌとの愛で自信を取り戻し、政治的手腕も発揮するようになったアンリ。
年を経てもますます輝くような美貌を誇るディアーヌ。

その一方、カトリーヌからは愛らしく利発は少女の面影は薄れてゆいました。
立て続けに子を産み、老け込み、肥満してしまう王妃。カトリーヌは、ぎょろついた目を光らせる、陰謀家としての一面を強めてゆくのでした。

 

寵姫の栄光とは儚く、突如、終わるもの

王の寵姫の栄光とは、儚いものです。王の寵愛を失えば消えてしまうのです。
ですから彼女たちは魅力を磨き、捨てられないように努力を惜しみません。19も年上のディアーヌにも、そんな時がいつ訪れてもおかしくはありません。

しかしアンリは生涯ディアーヌを愛し続けました。彼女の栄光の時が終わったのは、アンリが突然崩御してしまったからです。

1559年、40歳のアンリは馬上試合に出場します。この試合は、アンリの娘である王女のエリザベートとスペイン王フェリペ二世、フェリペ二世の従弟サヴォワ公エマヌエーレ・フィリベルトとアンリの妹であるマルグリットとの婚約を祝う盛大なものでした。

観客席には王妃カトリーヌ、花嫁となるマルグリットとエリザベート、王太子フランソワの妃であるスコットランド女王メアリ・スチュアート、そしてディアーヌが座っていました。それぞれ思い思いに着飾った貴婦人たちの前で、試合が繰り広げられました。

試合の四日目、悲劇が襲います。
アンリの対戦相手モンゴメリー伯爵の槍が折れ、王の兜の隙間から飛び込んで右目の近くに突き刺さったのです。
アンリは馬から転げ落ち、意識不明となりました。

アンリはディアーヌの名を呼びますが、カトリーヌは夫から愛人を遠ざけました。ディアーヌは死にゆくアンリの側に行くことすら許されなかったのです。

7月10日、アンリは崩御しました。まだ40という若さでした。

ディアーヌはアンリの葬儀への参列すら許されませんでした。白と黒の羽根飾り、DとHの紋章が剥がされた葬列を見て、ディアーヌはこれから起こるであろうことに身震いし、死すら覚悟しました。
カトリーヌはアンリがディアーヌに贈ったもののリストを作成していて、夫が亡くなると即座にその返還をディアーヌへと迫ったのでした。
もっとも、カトリーヌからすれば、ディアーヌこそが夫を寝取った泥棒猫なのでしょうが。

カトリーヌが返還を迫ったものの中には、当然のことながら壮麗なシュノンソー城も含まれていました。ただ取りあげるのではなく、カトリーヌは陰湿な手を使います。
ショーモン城を買い取り、ディアーヌのシュノンソー城と交換させたのです。

ショーモン城

 

美しい外観からは想像も付かぬおぞましき呪詛

ショーモン城はカトリーヌの命を受けた占い師たちが滞在したものでした。そこには、
・煤けた部屋
・祭壇
・鏡
・あやしげな魔術用の杖や錬金術の道具
・毒薬の入った小瓶
・小動物のミイラ
・不気味な魔術書
などなど、カトリーヌがディアーヌの呪詛に使ったものがそのまま残されていたのです。

ディアーヌはショーモン城の改築をするものの、そこで暮らすことはありませんでした。彼女は亡くなるまで、夫のプレゼ伯爵の遺産であるアネ城に住みました。

そして1566年、ディアーヌは67歳でその生涯を終えました。この歳になっても美貌の名残をとどめていた彼女の死因は、金のエリクサーによる金中毒死。晩年まで若さと美を追究した彼女らしい死因と言えるかもしれません。

ディアーヌの遺骸はフランス革命中共同墓地に放り込まれ、2009年に元の場所に改葬されるまでそのままでした。
肉体は朽ち酷い扱いを受けても、ディアーヌの姿は絵画や彫刻の中に残り、その美貌を伝え続けています。

そして彼女とアンリの愛の証である絡み合うDとHの意匠は、フランス各地の城に残され、不滅の思いを伝えているのです。

小檜山青・記

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