久坂玄瑞

久坂玄瑞/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末一のモテ男・久坂玄瑞~25才で夭折したのは松陰の遺志を継いだから?

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久坂玄瑞
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沈む薩摩船と「上関三士」の死

長州藩では、薩摩への憎悪が募りに募っておりました。

「八月十八日の政変」の件もありますが、理由はそれだけではありません。

攘夷のトップリーダーは、かつて長州藩でした。

ところが薩摩藩が、生麦事件薩英戦争を起こし、その座を奪ってしまったのです(薩摩側はそんなことを競ったつもりもないでしょうが)。

そんな最中、長州藩は、薩摩藩がイギリスと密貿易をしていることを嗅ぎつけます。

当時は南北戦争の最中であり、イギリスはアメリカから綿花を輸入できなくなっていました。

そこで、薩摩産綿花を買い付けることにしたのです。

「薩摩というさあ悪い連中じゃ。攘夷と言いながら、イギリスと貿易をしちょるじゃないか。化けの皮を剥がしちゃる」

文久3年(1863年)末。長州藩は外国船だと勘違いしたとバレバレの嘘をつき、薩摩船「長崎丸」を砲撃して撃沈します。

「まさか薩摩の船たぁ思わだった。外国船じゃと思うた。攘夷のつもりじゃった」というわけですね。

当時の船舶イメージ(画像はオランダ製軍艦の開陽丸)/Wikipediaより引用

この事件で、薩摩藩士28名が死亡しました。

単に藩士が亡くなった――というわけではなく、航海術に長けた者が亡くなってしまい、薩摩藩は困ることになります。

藩内はむろん、久光も激怒。

しかし、ここで怒りを表明すれば、密貿易の件が明るみに出かねません。耐えるほかありませんでした。

そんな最中、別の事件が発生します。

元治元年(1864年)2月、周布・別府浦に停泊中の、薩摩商船が砲撃を受けて沈没したのです。

しかも、貿易商であった船主の姿は消えていました。

それから数日後――。
大阪に、船主の首が晒されました。

斬奸状によれば【外国との密貿易を行い天皇の意に背いたため、成敗した】とのことです。

首の前では、長州藩士の山本誠一郎と水野精一が切腹しており、発見時には事切れておりました。さらにそのあと、高橋利兵衛という男が、周布の寺で切腹しているのが発見されます。

商船砲撃および船主殺害は、この3名の仕業でした。

後に「上関三士」として、靖国神社に合祀される3名ですが、ここまでが表向きの話でして。

この話の裏には、策略がありました。

薩摩商船砲撃犯人は、実のところ不明でした。そこで久坂ら、藩の指導部は、薩摩を非難し、長州に同情を集める、一石二鳥の妙案を思いつきます。

藩主導の下、【命を捨てる】ということは伏せられたまま、「首を晒すための」実行部隊が集められました。

水野が名乗り出て、1人では足りないため山本も説得。

「この首を大阪に晒して来んさい」

そう命を受けた2人は、大阪に向かいます。

そして首を晒した2人が帰ろうとすると、おもむろにその足を止められるのです。

「ここで腹を切りんさい」

藩の非情な命令に対し、水野と山本は驚き逃れようとしますが、追いかけられて出来ないと悟り、腹を切りました。

山本はなかなか死のうとしないため、無理矢理介錯、つまりは殺害されました。

この策略は、久坂の読み通り当たりました。

「なんちゅうこっちゃ、薩摩は勝手に密貿易しとったんや!」

「穢らわしい夷狄相手に金儲けかいな、えげつないわ~」

「それに引き換え、長州のお侍さんは、たいしたもんやな。正義のために腹を切る。これぞ義士やで!」

大阪の人々は、薩摩藩の卑劣さに怒り、上関三士と長州藩に同情を寄せたのです。切腹現場には、忠臣の遺徳を偲び、民衆が押し寄せました。

かように久坂はじめ長州藩は、人心掌握術に長けておりました。ゆえに京都でも大阪でも大人気だったのです。

長州としても、この一件で大衆の心を掴んだことを確信したのでしょう。

この時期、島津久光殺害予告を大阪で配布しました。

しかし偉いのは、殺害予告された久光。

後世の作品では【短気・狭量・冷酷・愚昧】と散々な評価を受けがちな彼ですが、こうした挑発にぐっとこらえる器量を持ち合わせていたのです。

本当に悪評通りの性格ならば、ガチギレしていてもおかしくはないところ。

島津久光/wikipediaより引用

一方、久坂は、純粋過ぎて命を落とした青年志士というイメージがあります。

それだけが、彼の本質ではありません。

マキャベリズムも持ち合わせ、時に冷酷に振る舞う。そして適切に人々の心を引きつけ、世論を動かす。

そんな智力を、持つ男でした。

 

歯止めの利かない長州藩進発派

長州藩不在の京都では、政治的混乱が続いていました。

かつての一橋派がめざした、将軍後見職・一橋慶喜と、優れた大名による合議政治(「参預会議」)が行われるようになったのですが、うまくまとまらないのです。

さて、この状況をみて、長州藩はどうすべきか?

意見は真っ二つに分かれていました。

進発派:久坂玄瑞

慎重派:高杉晋作、周布正之介(すふ まさのすけ)

かつて「松下村塾」では、暴れん坊の高杉と、慎重な久坂と認識されていました。

が、この頃には逆転しています。

高杉は「久留米藩の大馬鹿者の真木和泉保臣と、わしらの藩の大馬鹿者の久坂。こいつらがグルになって何か企んだら、何をしでかすかわかったものじゃない」とボヤいておりました。

しかし結果は、進発派の勝利。高杉と周布が失脚し、京都進発が決定事項となったそのとき、衝撃的な事件が起こります。

池田屋事件」です。

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この事件は、京都を放火して天皇を拉致するクーデター計画を阻止するためだったとされていますが、そもそもそんな計画があったのかどうか、現在は諸説あります。

ただ、長州藩進発派上洛前夜のことであり、その計画がクーデターとして察知された可能性はあるわけです。

この事件で、長州藩士で「松下村塾」出身の吉田稔麿ら、多くの犠牲者が出ました。

吉田稔麿/wikipediaより引用

長州藩進発計画は、弔い合戦の様相も帯びていくのです。

 

文と辰路

久坂は動乱の京都に行く前、養子・粂次郎に一目会いたいと切望しています。そこには、家族を思う切々たる思いが感じられるのです。

が、ここでちょっと突っ込みどころがありまして。

養子・粂次郎には会いたがるのですが、妻・文とは会おうとしないのです。

気を揉んだのか、文と松陰の兄である杉梅太郎が、萩で妹・文に会って欲しいと頼みますが、久坂は断ります。

久坂は文を好みの容姿ではないと述べておりますが、それが原因かどうかはともかく、彼女への熱烈な愛情はあまり感じられません。

残された手紙の文面も、事務的でした。

これは仕方ないことで、当時の人々にとって結婚とは、あくまで家の存続のためのものであり、恋愛感情がなくとも不思議ではないのです。

それでも文は、おそらく初恋の相手であった久坂を生涯慕い続けました。

亡夫の手紙を大事に保管し『涙袖帖』としてまとめるほど。彼女はその後、姉の夫であった楫取素彦と再婚しますが、その際にも『涙袖帖』を持っていったそうです。

そして晩年まで、この『涙袖帖』を読み返していたのでした。

フィクションにおける久坂のロマンス相手は、文よりも、京の美妓として有名であった辰路の方が有名でした。

美男美女の絵のなるカップルとして、この二人は人気があったのです。

久坂と辰路の間には、秀次郎という男児が生まれております(母親は佐々木ひろ等、別人という説もあり)。

秀次郎は久坂家の跡継ぎとして認知。久坂家に養子に入っていた粂次郎(文の姉・寿子と楫取素彦の子)は、実家に戻されました。

文からすれば、夫を失い、我が子として育てた粂次郎を戻さねばならず、家は愛人の子が継ぐわけで、かなり複雑な心境であったと思われます。

前述の通り、現在まで伝わる久坂の肖像画は、秀次郎をモデルとしたものです。

久坂玄瑞/wikipediaより引用

 

「禁門の変」に散る

運命の元治元年(1864年)6月。久坂らは、三田尻を出航し京都を目指しました。

長州藩兵3千名が、伏見・嵯峨・山崎に着陣すると、これに対し、一橋慶喜は強硬に撤兵を要求します。

久坂はここで、世子・毛利元徳の到着を待つべきだと考えました。

これに納得できないのが、来島又兵衛です。来島は、世子到着の前に「君側の奸を倒すべきだ」と主張します。

そんなことをしては朝敵になる、しかし退くに退けない――こうして久坂は、後戻りできない道へと踏み込んでゆきます。

軍勢は三手に分けられ、それぞれが御所へ向けて進軍しました。

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御所を守るのは、薩摩と会津。

奄美大島から復帰した西郷隆盛の奮闘もあって、来島は御所の前で撃退、戦死を遂げます。

久坂は、長州藩に同情的であった関白・鷹司輔煕邸へと撤退しました。そこで鷹司にすがりつき、朝廷への参内を嘆願するのです。

が、そんな願いが聞き入れられるハズもなく、久坂は鷹司邸の門から出たところで越前藩兵に襲われ、左脚を負傷してしまうのでした。

傷は骨まで到達し、真っ赤な血が脚を染めてゆきます。

久坂の白い顔は、みるみるうちに蒼ざめました。久坂は手ぬぐいを傷口に巻き付け、屋敷内に戻ります。

傍らの寺島忠三郎は、久坂にこう声を掛けました。

「もうやろうか」

久坂は答えます。

「もうよかろう。殿に迷惑をかけるわけにゃあいかん。わしは腹を切る」

こうして追い詰められた久坂は、切腹して果てました。享年25。

久坂の墓/photo by mariemon Wikipediaより引用

久坂は志半ばにして斃れましたが、彼の遺志を継いだ長州藩士たちの歩みは止まりません。

彼らの手によって、明治維新が成し遂げられることになります。

 

久坂の不可解さ

久坂の生涯をたどると、不可解な点がわいてきます。

愚かであったとは、到底思えません。

切れ者であり、怜悧です。

後に西郷隆盛は木戸孝允に対し、こう語ったとされます。

「久坂先生が生きちょられたなら、おいどんらは互いに参議などと威張ってへられんやろう」

西郷や木戸より、才略において上であった。そう評価しているのです。

多少はリップ・サービスが入っていたとしても、能力のほどが知れるでしょう。

ただ、そこまで賢い久坂が、なぜ攘夷の非を悟らず無謀な砲撃を続けたのか。

なぜ、孝明天皇の意志に反して現実逃避するようなことを続けたのか?

挙げ句、高杉晋作の反対まで押し切って京都に進発し、散ることとなったのか?

その判断が難しいのです。

久坂の目的がいまひとつわかりにくい。

例えば【勝海舟の目指した国家像はどのようなものでしょうか?】という問いには、答えが簡単に出ます。

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嘉永6年(1853年)に彼が幕府に提出し、阿部正弘が太鼓判を押した案があるからです。

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実際に目指した国家像は、実はこの勝あたりのプランが正解で、明治政府の行った政策とほぼ一致します。

一方で、久坂や彼の師である吉田松陰のめざした国家像は、どうしても勝のものと比較すると具体性に乏しく、大言壮語的に思えてしまうのです。

吉田松陰の明言というのは素晴らしく、若者の夢や好奇心、可能性を伸ばすようなものがたくさんあります。

シニカルでひねくれがちな勝よりも、名言集にはふさわしいものです。

「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり」

うんうん、その通りだ!

人というのはこうでなくてはいけない!

そう思えてしまいます。

ただ……夢や志を持って立ち上がり、自分の可能性を信じて、たくさん勉強して、素晴らしい国を作るというのはわかったけれども。

『その素晴らしい国を実現するためにはどういう政策が必要なのか? 何をすればよいのか?』

となると、ちょっとこれが掴みにくいのです。

行動となると、さらに難しい点があります。

勝の場合は、「これから海軍を鍛えないと話にならねえ。海軍伝習所を作るぜ」となる。

一方で久坂の場合は「わしらの意見を通すために、公卿を動かして勅を出してもらおう」となってしまう。

具体的な行動の前に、正統性を強化しようとするのです。

幕臣と長州藩士では立場が違う――それはもちろんありますが、本当に国家をよくするためにその行動は必要なのか、イデオロギーを重視し過ぎてはないか、と感じてしまいます。

一般的に、こうした久坂の行動は、尊皇攘夷を掲げた純粋さの発露とされています。

でも、本当にそうでしょうか。

彼の中ではむしろ、師匠であり義兄である吉田松陰の思いが第一で、尊皇も、攘夷も、その実現のための、手段ですらあったように思えるのです。

久坂は尊皇を掲げて、孝明天皇のために尽くし、そのために滅んだという見方もあります。

それはむしろ、久坂が憎んだ松平容保のことではないでしょうか。久坂の言動は、むしろ孝明天皇の意志に反しています。

尊皇も、攘夷も、倒幕も――それは生前、松陰が掲げた理想でした。

情勢や世間の人々の考えが変わり、天皇の意志まで動いても、松陰未完の遺志は死者であるがゆえに絶対に動きません。亡霊のようにそこに留まり続けるだけです。

久坂の中で、松陰の思いは北極星のように絶対不動のものでした。

情勢に合わせて身の振り方を変えるよりも、情勢を松陰の遺志に近づけようとする――それが久坂の努力であり、純粋さであったのでしょう。

久坂は必要とあれば、謀略の行使も辞さない男でした。

しかし、その謀略は自らの利益を得るためでも、長州藩を有利に動かすためでもなく、【松陰の遺志を貫徹するため】と考えると様々なことがスンナリ繋がる気がしてなりません。

より純粋であるために、謀略を行使する――。

一見、矛盾したことが、松陰と久坂の関係性では成立してしまうのですね。

 

松陰後継者としての生き方

天涯孤独の久坂にとって、家族のように彼を迎え入れ、義弟にまでなってくれた吉田松陰。

彼を見込み、育て上げてくれた松陰。

教育者としての彼は温かみがあり、熱血漢で、素晴らしい人物であることは言うまでもありません。

しかし、冷静に考えてみますと……。

松陰は、アナーキーな人物であります。

・宮部鼎蔵との東北旅行の際、予定していた出発日を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たずに出発。当時の重罪である脱藩をしてしまう

・金子重之輔とともに、長崎に寄港中のロシア軍艦に乗り込もうとするが失敗

・金子重之輔とともに、漁民の小舟を盗み、ペリー艦隊の旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せて乗船するも渡航拒否される。下田奉行所に自首、投獄される

・日米修好通商条約締結に激怒、老中・間部詮勝に攘夷実行を迫り、断れば殺害する計画を立てる。この際松陰は、「死を恐れない少年3、4名を松下村塾まで手配して欲しい」とまで考えていたほど

・伏見で藩主・毛利敬親を待ち伏せし、京に入る計画を立てる

確かに彼自身は純朴で、よい人ではあったかもしれません。

しかし、その言動は過激の一言。彼の本質は革命家であり、そのために国のルールを破ることは何とも思っていなかったのでしょう。

松陰ってそういう人だっけ? と思う方もおられるかもしれません。

大正から現在にかけて、教育現場で教えられる松陰は、無害な熱血教育者像です。国と正義感を大切にする、品行方正な青年であった――そう教えられているのです。

むろん、それは否定しません。

吉田松陰の熱烈な愛国心は、疑問の余地を挟めないほど素晴らしく、教育者としても極めて優れていたことは間違いありません。

ただ、それだけの人物でもないわけでして……。

久坂の言動に関しては、こうした松陰のアナーキズムまで継承したと考えれば、納得できるかもしれません。

松陰が間部詮勝暗殺計画を持ちかけて来た際、久坂と高杉晋作は断りました。そのため松陰は久坂にすっかり失望していたほどです。

しかし松陰の死後、前述の通り久坂は、その死を悼み大々的にプロデュースしています。

好意的に見れば、義兄であり恩人である松陰を顕彰したい純粋な気持ちと言えます。

久坂は松陰を祭り上げる過程で、彼の言葉を信じ、酸素のように吸い込み、酒を飲むように酔ったのだとは考えられないでしょうか?

かつて松陰の暴走を諫めていた久坂が、師のように暴走し、過激な行動に出てるようになっているのです。ライバルである高杉が「大馬鹿者」と呆れるほど、先鋭化していきました。

松陰の思想と一体化するあまり、そのアナーキーさまで取り入れてしまったかのように思えます。

吉田松陰にせよ、久坂玄瑞にせよ、敬愛すべき点はたくさんあります。

しかし、敬愛と盲信は、別物でしょう。

明治維新150周年という節目を迎えている今年、彼らの反省点を今後に生かしても、未来への財産となるはずです。

久坂や松陰が抱いていた、自分が正しいものに突き進むためには、手段すら選ばなくてよいという傾向は、反面教師とすべきでしょう。

「ここで意見を曲げたら、このために犠牲になった先人が報われない!」

そんな動機で失敗へと突き進んで、振り返らず前進するような行動も、慎むべきでしょう。

先人を知り、その見習うべき点と欠点を客観的に判断し、良いところを吸収すること。

それが私たちに求められていることではないでしょうか。

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文:小檜山青

【参考文献】
『吉田松陰 久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」』一坂太郎(→amazon
国史大辞典
やまぐちISHIN(→link

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